共産主義はインターナショナリスト(国際主義者)にしかなり得ない

共産主義はインターナショナリスト(国際主義者)にしかなり得ない:

スターリニズムはショーヴィニズム(盲目的愛国主義)の勝利を意味する

このように、共産主義の理論は、インターナショナリズム(国際主義)、つまり世界各国の全ての労働者の国際的連帯を、その起源より、自らの原則の先頭に据えてきた。この理論の二大創始者、マルクスとエンゲルスにより起草された共産党宣言の合言葉は「万国のプロレタリアよ、団結せよ」であった。同宣言は「プロレタリアは祖国を持たない」とはっきりと断言している。労働者運動にとってインターナショナリズムが常にこれほどの重要性をもっていたのは、偽預言者か何かのユートピア的着想の為ではなく、資本主義による搾取、及びその他あらゆる形の人間による人間の搾取に対し、唯一終止符を打つことを可能とするプロレタリア革命は、全世界的な規模でなけれ生じ得ない為である。 

1847年以降、強力に表明されてきたのがこの現実である。:「共産主義革命は(中略)純粋に一国内に限定された革命にはならない:それはあらゆる発展国において同時に発生するであろう(中略):それは同時に地球上のその他あらゆる国々に多大な反響を呼び起こし、各国の発展の過程を一変させ、促進させるであろう。それは全世界的革命である:従ってその革命は、世界的な地盤を得るであろう」(「共産主義の原理」F.エンゲルス)

ロシア革命時、ボルシェヴィキ党によって全力で擁護されたのもまた、この同じ原則であった:「ロシア革命は世界の社会主義者の大群からの離脱に過ぎない。我々が達成した革命の成功と勝利とは、この大群の行動如何にかかっている。これは我々のうち誰一人として忘れることの無い事実である(中略)。ロシアのプロレタリアはその革命的孤立を自覚し、又、彼らの勝利は世界中の労働者の団結した介入をその必要不可欠条件かつ基本的前提としていることを、明確に知っている」(レーニン、1918年7月23日) 

この為、レーニンの死後、1925年にスターリンによって持ち出された「一国社会主義構築」のテーゼは、労働者運動の基本的原則の恥知らずな裏切りでしかない。ボルシェヴィキとあらゆる革命家は、常にインターナショナリズムの為に闘ってきた。その闘いはとりわけ第一次世界大戦中に目覚ましく、その大戦を終焉に導いたのは、まさにロシアとドイツにおけるプロレタリアの活動のおかげであった。しかし、その国際主義の代わりに、スターリンとその共犯者が掲げたのは、最も卑劣なナショナリズムの代弁者と成り果てることであった。

ロシアでは、「社会党」の擁護を口実に、数年前のプロレタリア革命に反する闘いの折、かつて白軍にとっての旗印として使用された、ショーヴニズム(盲目的愛国主義)の古い反対キャンペーンが再開されている。第二次世界大戦時、スターリンは帝国主義的殺戮への自国の参加を光栄とし、2千万ものソヴィエト人が「祖国の勝利」の為に死んだ。その他の国々では、スターリン諸政党が、プロレタリアの万国共通歌であるインターナショナルを国歌に続けて歌うことにより、その二つを混同させることと、1世紀以上に及ぶ労働者闘争の旗である赤旗を、労働者を虐殺した時に警官と軍隊とが掲げた、ナショナリストのあらゆる雑巾と混合させることを自らの義務とした。又、第二次大戦の終わりにドイツ軍占領下にあった国々においては、ショーヴィニズムのヒステリーが爆発し、スターリン政党は断固としてその中での首席を自らの権利として要求し、インターナショナリズムの一声を発し、又は聞かせようとする全ての者を「祖国の裏切り者」として抹殺する行き届いた配慮を、他の何者にも譲ることなく自ら加えるのである。 

インターナショナリズム:国際主義に反するナショナリズム、それこそがスターリニズムが共産主義とは全く相容れず、無関係である証明が必要があるとするならば、それを最も良く示す証明である。しかし、この二つの違いの証明は、それだけでは決してない。

共産主義とは、プロレタリアの独裁による搾取の廃止である。一方、スターリニズムとは、プロレタリアの搾取を維持させる為に、プロレタリアを独裁することである。 

共産主義はプロレタリアの独裁をもってのみ確立することが可能である。即ちそれは、全ての賃金労働者の力による社会全体の独裁である。この力とは、労働者評議会により労働者階級が行使する力である。労働者評議会は、社会の進行に関する本質的決定の責任を担い、中央集権化と調整とをその任務とする代表委任者を絶えず管理する、労働者の最高議会である。1917年、「ソヴィエト」の権力は、まさにこれらの原則の上に置かれていた(「ソヴィエト」はロシア語で「評議会」を意味する)。スターリニズムは、このような体制の完全なる否定を表している。スターリニズムが知る唯一の独裁とはプロレタリアの独裁ではなく、プロレタリアの独裁の名の下に行なわれる独裁である。それは、ごく僅かな官僚による、プロレタリアへの独裁であり、彼らに敢えて歯向かった労働者に対する警察、密告、強制収容所送り、及び処刑といった、最も極悪な恐怖につけ込んだ独裁であった。それはまさに1956年のハンガリー、1970年及び1981年のポーランドにおいて、我々が再目撃した通りである。

最後に、共産主義とは、人間による人間の搾取の廃止を意味する。それは、特権階級と、その特権階級を肥えさせることへの従事を第一の仕事とする被搾取階級とに分割された社会に終止符を打つことである。スターリン制度において、労働者は搾取されることから一時たりとも逃れなかった。労働者達の仕事、汗と欠乏は、政党国家の装置である指導者のメンバーに、彼らに特権を味わわせ続けることを可能にすること以外の目的を何ら持たなかった。彼らが豪勢な住居の恩恵に浴する一方、労働者の家族は哀れな住居に押し込められ、彼らには何もかもが揃った特別な商店が自由にあてがわれた一方、労働者向けの商店は絶望的に空っぽで、半分傷んだ肉のひとかけらを求めて何時間もの列に並ぶことが強いられたのである。他方、共産主義の社会においては、生産とは基本的に人間の必需品を充足させることへ方向付けられている:USSRやその他の同じタイプの国々における、「共産主義」-或いは「共産主義へ移行中」- 社会の素晴らしい例は、或いは公式には資本主義である国々においては尚の事、最良の生産が最も洗練され殺戮的な武器生産へと向けられているのである。

結局のところ、共産主義や社会主義、労働者階級と言った名の下、世界の一部分を何十年にも渡り牛耳った体制は、資本主義のあらゆる本質的特徴を呈している。それは、これらの体制が、他でもなく、実際のところは完全なる資本主義であったとという良い証明である。例えそれが資本主義の極端に脆い形をとったものであったとしても、欧米の国々における「私有」のブルジョワジーが国家のブルジョワジーに取り替えられたものであったとしても、又は衰退期突入以来あらゆる国々の資本主義制度に作用し、最も滑稽で馬鹿げた形をとった国家の資本主義への全世界的傾向であったとしても、それらは単なる形の違いに過ぎず、本質は同じものであったことを示している。