前史

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CCIよりの紹介文

CCI発の「International Review」における僅かの記事、そして現地の週刊誌で述べたように、フランスにおける1968年5月の革命的な出来事は世界中にわたってより広い運動の一部にすぎませんでした。

日本にいる同士よりの記事をここで掲載しており、本記事は日本の特定や困難な歴史にもかかわらず、当時の広い運動は日本にも同様な運動があったというのをはっかり表現しています。

未来のプロレタリア革命は国際主義に基づいた国際的なものでなければ、何も起こりません。現在、世界中国際主義者の最大な義務になるのは、現場の経験を世界時事の枠に入れること、そしてある地域における労働階級の動きが世界中のより広いコンテキストの一部、またはそのコンテキストの一つの表現に過ぎないことを理解し、瀕死の資本主義を打倒させる未来のために過去の出来事をめぐって労働階級中の国際的な議論に貢献することだと思っています。したがって1968年日本の出来事を歴史的かつグローバルな枠に入れようとするケン同士の努力を称賛します。「こうして日本の「68年」の概略を振り返ることを通して、全世界の労働者階級との国際主義的団結(それは当時においても現在においても、最も重要なものである)を図ることができれば幸いである。」という彼の結論を心込めて支持しています。

記事の中で翻訳の問題、または私たちが日本歴史を不十分に把握しているせいで曖昧な点が僅かありました。日本の国際主義者の中、そして一般的にも大切な論点だと思っているため、数点を取り上げてみました。

60年代で労働者の闘争はいくつかの新しい特徴が誕生尾したのは明らかで、自主組織、敢えて自主管理までの試みのいくつかは例えばヨーロッパと同様なものが発生したようです。当時、「社会主義」や「共産主義」(つまりスターリン主義)党による労働者たちが影響されることは当然だろうが、ある程度これは総評に重点を与えるのではないかと思っています。しかし私たちにはまだ総評がどれほど労働者の本格的な表現だったのかが記事で明らかにならず、例えば山猫ストライキから新しい労組を作る無理な試みになったか、それとも支配階級の左派が労働者の不満や闘争を相和するための「よりラディカルな構造」を作るための試みでした?総評の経験から現在の労働者闘争のために、どんな教訓を引き出せるでしょうか?特に1980年ポーランドの巨大なストライキ波など、世界中労働者の闘争とどんな比較ができるでしょう?

日本の同士と話していたら私にとって明らかになったのは、主な左翼団体やセクトの内ゲバが激化した始末に一般的な政治環境に対してもトラウマになりました(今まで100人も死者が出て、1000人以上が負傷したらしい)になりました。それからどんな教訓を引き出せるでしょう?同士がおっしゃるように「既成左翼勢力の影響力は著しく低下している」のはなぜでしょうか?私たちから見ると、1968年日本の新世代は二つの欠点を背負っていて、軍隊によって占領されている国なため、反アメリカ愛国主義に向かう傾向や、参考点となりうる左派共産主義の伝統がないという二つで不利な立場になり、ローザ・ルクセンブルク氏、アントン・パンネクーク氏やゴーター氏などの著作物はほとんど知られず、イタリア左派共産主義の伝統は一切伝わっていないようです。

本記事では「ベトナムーインドシナ革命戦争」、そして「ベトナムとアジア人民

との革命的な連帯」について同士は語っています。私たちからしたら、ベトナム戦争は米国を一方で、中国やロシアがバックになったベトコンとの間に展開した帝国主義的な衝突でした。ベトナム戦争を反対した若者の中で、ほんの一部がその戦争の拒否を本当の国際主義的な姿勢に展開させて、どんな帝国主義的な戦争にも参加しない、帝国主義間の衝突における両側で階級闘争を呼びかける姿勢をとりました。歴史の悲惨に、世界中で「帝国主義」に対する闘争を強化すると考えて多くの若者が民族解放闘争を応援するように引き寄せられてしまいました。40年間後になっての判断で、当時の戦争の本質をより深く把握するのは肝心だと思います。いわゆる民族解放闘争について、どんなバランスシートを作成できるでしょうか?

翻訳の量を減らすためにこの紹介文をなるべく短くしました。明らかに、本記事で出てきた論点は討論する必要はあるが、上記に書いた3点がもっとも大事ではないかと思います。本記事がCCIのコメント付きで英語や日本語で掲載されることによって、「日本の68年」のより良い理解に貢献する、そして国際主義に基づいた左派を強化する国際的な議論を励むように願っています。そういう意味で「世界は広くなる同時にも小さくなる!」

CCI、2008年7月


戦後史において画期的な高揚をみせた60年安保闘争(日米安全保障条約反対闘争)以降、沈滞したかのように見えた日本の反体制運動は、全国の大学における学生自治会運動として一定の大衆的基盤を保持していった。65年、日韓闘争(日韓条約締結反対闘争)等を経て、やがてベトナム反戦運動、全国学園闘争-全共闘運動、70年安保-沖縄闘争という政治の季節をむかえることとなる。

労働運動においては戦後最大の労働争議となった三井三池闘争(59~60年)、60年安保闘争を率いたSOHYO(General Council of Trade Unions of Japan )が反戦平和と民主主義的諸課題を掲げ、組織の定着を図っていった。

また、既成政党である日本社会党・日本共産党、その影響下にある学生・労働者-総評傘下の労働組合以外に、共産主義者同盟(Japan Communist League[BUND]、60年安保闘争時における全学連主流派)各派、日本革命的共産主義者同盟(Japan Revolutionary Communist League 、日本トロツキスト聯盟を母体とする)各派などが闘いを牽引した。

これらのグループはハンガリー事件(56年)等に関連したソ連邦-スターリン主義批判、日本共産党の路線転換への批判をとおして50年代後半~60年代に結成された団体である。

全国学園闘争-全共闘運動

全世界的規模でベトナム反戦運動が拡大するなか、日本においても大学における闘いが高揚してゆく。

64年慶應義塾大学、65年早稲田大学、66年中央大学で、学費値上げ反対闘争が闘われた。

68年、東京大学において、「登録医」制度に反対して医学部が無期限ストライキ。全学共闘会議(全共闘)が結成され、10学部で無期限ストライキ-バリケード封鎖。翌69年、8500名の機動隊導入により、安田講堂を始めとする封鎖が実力解除される。東京大学構内での逮捕者は600名以上。同年の東京大学の入学試験は中止となる。

当時日本最大の私立大学であった日本大学では、不正入学斡旋に関する教授の脱税、20億円をこえる使途不明金発覚が闘いの端緒となった。68年、大学当局と右翼・体育会系学生との武装的対決の中で、全学無期限バリケードストライキが開始された。大学側全理事が出席せざるを得ない状況下で開催された大衆団交には3万5千人におよぶ学生が集まった。

東大闘争・日大闘争に象徴される日本の学生運動-全共闘運動は、全国300以上の大学・高校において展開された。バリケード封鎖・ストライキによる闘いは70年前夜まで続き、折りしも高揚するベトナム反戦運動・70年安保-沖縄闘争と連携し、その隊列は街頭へ歩を進めてゆく。

60年安保闘争時の全学連と全共闘の決定的な差異は組織論にある。

全学連はその名の通り「全日本学生自治会総連合  All-Japan Federation of Students' Self-Governing Associations 」であり、大学-学部-クラス-個人(自動的全員加盟)というタテ構造を支えとし、「Potsdam自治会」と批判されたようにその性格はアメリカ占領軍による戦後処理の一環-「上からの民主化」に対応していた。

一方、全共闘は自治会-全学連運動-党派主義とは対極の、自由参加を前提とした直接民主主義的な大衆的運動体を目指した。 そもそもは個別闘争課題を軸とした評議会的性格の濃い横断的組織であり、その多数はノンセクト・ラディカルズだった。

ベトナム反戦運動

60年安保-反戦反基地闘争、日韓条約反対闘争等の成果を受け継ぐなかで、日本においてもベトナム反戦運動が始まった。

65年「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)が結成される。規約や会員制度もなく、参加する個人の自発性・自立性に依拠したその運動は全国に広がり、300以上のグループが活動した。

学生-全学連と社会党-総評などの労働組合や反戦青年委員会が中心となり、様々な闘いが展開されてゆく。

67年10月、第一次羽田闘争。佐藤栄作首相南ベトナム訪問を阻止する闘い。京都大学学生が死亡。

同月、国際反戦デー。各地で行われたデモや集会に140万人が参加。

11月、第二次羽田闘争(首相訪米阻止闘争)。全学連、機動隊と十時間におよぶ激闘。この日の逮捕者は全国で300名以上。

68年1月、米原子力空母エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争。

2月、三里塚空港(新東京国際空港)粉砕現地集会。空港反対同盟農民と学生、初めての共闘。3000名が機動隊と衝突。

2~3月、王子野戦病院開設阻止闘争。東京都内で実力闘争が続く。

4月、沖縄デー闘争。全国で25万人が参加。革命的共産主義者同盟(中核派)と共産主義者同盟に破壊活動防止法が適用される。

〔5月、パリでゼネスト。〕

10月、国際反戦統一行動。「ベトナム侵略戦争反対、沖縄奪還、日米安保条約粉砕」をスローガンに全国450万人が参加。共産主義者同盟-社会主義学生同盟が防衛庁、社会党・社会主義青年同盟学生班協議会解放派が国会・アメリカ大使館を攻撃、突入。中核派・社会主義学生同盟ML派・第4インターナショナル日本支部らと市民が米軍燃料タンク輸送の拠点である新宿駅を占拠。駅前、周辺で数万人の集会。国鉄労働者-動力車労働組合・国鉄労働組合が時限ストライキ。 政府は騒乱罪の適用を決定。

69年4月、沖縄デー闘争。

9月、全国全共闘連合結成集会。全国46大学178全共闘組織の学生2万6千人が東京に結集。

10月、国際反戦デー。社会党・共産党・総評など86万人が統一行動。厳戒態勢のなか、新左翼諸党派が東京各所で武装闘争。警察署・交番を襲撃。火炎瓶のみならず手製爆弾の組織的使用など、戦術がエスカレートする。1500名以上の逮捕者。

同月、国鉄労働者が、11月には全国67単産の労働者400万人が24時間ストライキ等実力闘争。

等が闘われ、70年安保闘争-沖縄闘争へと引き継がれてゆく。

労働運動とその他の闘い

60年代の高度経済成長の上に、「ソ連-社会主義圏」の存在と反帝(反米)闘争-民族解放闘争の前進、国内的には安保-沖縄-ベトナム反戦という政治課題を抱えながら、日本労働運動は社会党・共産党・総評などを軸に一定の高揚期を向かえていた。労働争議-ストライキは68年ころより急増(争議件数・参加人数とも)、74年にピークを迎える。こうして74年国民春闘(71単産227万人によるストライキ。賃上げ率32.9%を実現したといわれる)、戦後2番目の大闘争と呼ばれた75年スト権スト(国鉄労働組合・国鉄動力車労働組合などによるKOROKYO〔Federation of Public Corporation and Government Enterprise Workers'Union〕が主体)等が闘われてゆく。

新左翼諸党派は各々「階級的労働運動の創出」等の目標をかかげ、既成労働戦線へ介入し左派形成を図っていった。また未組織-中小零細-下層労働者の組織化、地域組合の結成、自主生産・自主管理闘争等、独自の方向性を目指した。

65年に社会党系の青年労働者組織として結成された反戦青年委員会(ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための青年委員会)は、、「自主・創意・統一」のスローガンのもと、所属労組や上部団体にとらわれない大衆的な広がりを持ったが、やがて全共闘運動と同じく党派のヘゲモニー争いの場となった。

反安保-反戦反基地闘争、沖縄闘争、三里塚闘争が継続的に闘われてゆくなか、70年代に入り、新左翼諸党派も入管闘争(出入国管理及び難民認定法をめぐる闘い)-在日韓国・朝鮮人・中国人への連帯闘争、韓国ASEAN人民との国際連帯運動、女性解放運動、部落解放運動、障がい者解放運動など個別の闘いに力を入れるようになる。

さらに地域住民闘争、水俣などの反公害運動、反核反原発運動、環境保護運動、寄せ場闘争

(山谷・釜ケ崎等の日雇い労働者の闘い)、反天皇制運動などが取り組まれてゆく。

「68年」がもたらしたもの

今日、日本の戦後支配体制-「五五年体制」は「崩壊」した。自由民主党一党独裁から民主党との二大政党時代へ。支配の左補完物としての日本社会党は解体、日本共産党も国会での議席を大きく減少、既成左翼勢力の影響力は著しく低下している。

日米安保体制は一層強化され、いまだ全国135ヶ所に米軍基地・施設が存在する(沖縄本島に至っては全島の約20%を米軍が占有)。そしてイラク戦争派兵や朝鮮民主主義人民共和国の「脅威」を契機に平和憲法「第九条」改悪の動きが急を告げている。

労働戦線では総評が解体、RENGO(Japanese Trade Union Confederation )へ合流した。「社会党・共産党に代わる革命的労働者党」と「階級的労働運動」の創出を目指してきた新左翼諸党派も、停滞を余儀なくされている。

こうしたなか、「68年」という世界史の分岐点が持つ意味を解読することは重要である。とりわけわたしたち日本の労働者階級にとって、国際共産主義運動の観点から日本の「68年」を総括する意味は大きい。

1)戦前コミンテルン日本支部時代、そして戦後に合法化、「自主独立」し、議会主義に転落してゆく日本共産党のもたらした成果と限界。

2)スターリン主義批判と日本共産党批判、結果としての新左翼あるいは日本型トロツキズムの誕生と停滞。

以上を前提として、学生・青年労働者を中心に発展していった日本の「68年」は、フランス・アメリカ合州国の「68年」や「プラハの春」、69年イタリア「熱い秋」、70~71年冬、やがて「連帯」へ連なってゆくポーランドの大ストライキ、あるいはベトナム-インドシナ革命戦争といかに連動し得たのか?

今後もわたしたちは問い続けてゆかねばならない。

日本の「68年」は、自らの存在や闘いも含めた「戦後民主主義」そのものの内実を問い、既成左翼-スターリン主義や社民主義等が提起する歪んだ未来を拒否する闘いだった。日本労働者階級自身が自らのヘゲモニーによって未来を現実のものとしようとした新しい闘いだった。そしてそれはプロレタリア国際主義、とりわけベトナム-アジア人民との革命的連帯を模索する闘いであり、真の世界平和とすべての差別・抑圧・排外主義の廃絶を目指す闘いでもあった。

結果としてその高揚は急進民主主義の域を大きく超えることができず、一部はテロリズムへ純化していった。5000万人労働者の多数の支持も決起も得られることなく、闘いの課題はほとんど実現できずに、今日に至っているかのように見える。

しかしわたしたちは、「68年」以降の、日本の様々な政治・経済・社会全般の制度的変化に気付く。

「外国人登録法」指紋押捺制度( 在日外国人への指紋押捺義務付け)の廃止。「男女雇用機会均等法」の制定。障がい者へのbarrier free やnormalization の概念が少しずつ浸透してくる(この国が「何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない」〔「障害者基本法」〕と初めて法的に態度を明らかにしたのは、なんと2004年!のことではあるが。)。エコロジー・省エネルギー・脱公害は、水俣の闘いが開始された時代とまったく異なり、いまや官や企業が真っ先に口にする課題とさえなった。人権擁護運動・環境保護運動・地域住民闘争のいくつかはNGO(non-governmental organization) ・NPO(non-profit organization)として形を変え、課題への取り組みを持続させている。等々・・・。

当時まったく実現不能にさえ見えた事柄のいくつかは現実のものとなっている(その有効性はともかくとして)。当然、その事柄のほとんどは「民主主義」的諸課題であり、その実現は敵階級の妥協と融和を示す象徴にほかならない。わたしたちはこうした階級協調の数々に日本資本主義の現状を見据え、いささかも警戒心を緩めることなく真の勝利へ邁進する必要がある。

しかし社会運動としての「68年」は、今日にいたっても少なからぬ影響を与えつづけている。単なる反体制運動や対抗文化という枠組みを超えて全社会へ拡散していった「68年」の種子は、今後も確実に変革への成長を遂げてゆくだろう。

「68年」という歴史の分岐点から早三十年。

こうして日本の「68年」の概略を振り返ることを通して、全世界の労働者階級との国際主義的団結(それは当時においても現在においても、最も重要なものである)を図ることができれば幸いである。

ヨーロッパで闘うすべての同志の皆さん。

世界は広がり、かつ狭くなりつつある。わたしたちはあなたがたのすぐ側で団結への機会を待っている。

(23/03/2008   Ken)