「民主主義」諸国:スターリニズムの共犯者

革命の失敗後にロシアにおいて設置された制度は、資本主義の一つのバリエーションでしかなく、しかもそれは反革命の尖鋭部隊であった。その制度が、その数年前にソヴィエトの権力に対し猛烈に戦った、あらゆる国のブルジョワジーからの熱烈な支援を受けたのは、まさにその為である。1934年には、現にこれらの同じブルジョワジーが、レーニンによってその設立時「盗賊どもの巣窟」と形容された、国際連盟(国際連合の先駆)へのUSSRの加入に同意する。それは、1917年のボルシェヴィキを、歯の間にナイフを挟んだ野蛮人かのように提示したあらゆる国の支配階級の眼に、スターリンが「尊敬に値する」者として写るようになったことの象徴である。帝国主義的盗賊はこの人物を自分達の仲間の一員として認めたのである。それ以降、世界のブルジョワジーの非難を蒙った者とは、スターリニズムに反対した諸革命家であった。こうして、1917年の革命の最重要指導者の一人であったトロツキー(注1)は、世界中からの追放者となる。1929年ににはUSSRから追放され、常時警官による監視の下、国から国へと追われた上に、スターリン主義者が展開し、欧米のブルジョワジーによって悦に入り反響された、最も卑劣な中傷キャンペーンに対して立ち向かうことを余儀なくされるのである。このようにして、1936年よりスターリンが下劣な「モスクワ裁判」を計画し、拷問により打ち砕かれたレーニンの旧仲間達が、最も卑しむべき数々の犯罪を自らの非と認め、その見せしめの懲罰を自ら要求するのを我々が目撃する時、これら同じブルジョワジーは、「火の無い所に煙は立たず」と暗にわからせんとするのである。よって、スターリンがその非人間的な諸犯罪を成し遂げ、その強制収容所において何十万人もの共産主義者、及び一千万人以上の労働者と農民とを処刑したのは、あらゆる国のブルジョワジーとの共犯によってである。そして、この共犯において、最もその熱心さを明らかにしたブルジョワジーの諸党派とは、「民主主義」党派、とりわけ社会民主主義の党派なのである。それは今日においても変らず、スターリン主義の諸犯罪を最も極端な辛辣さで告発し、自らを美徳のモデルとして名乗っているのも、この同じ部門である。

今や巧みに隠す配慮が成された、スターリニズムの卑劣さに対する「民主主義」諸国の共犯は、彼らの唯一の犯罪ではない。実際には、ブルジョワ民主主義とは、資本主義制度の他の諸形態やスターリニズム、ファシズム等と変らず同様に、残虐行為にかけての熟練者なのである。 


(注1)トロツキーと、今日「トロツキー主義」を主張している数々の異なる政治組織とを混同しないことが重要である。スターリニズムに反して行なった諸行動が、政治的に誤った諸概念や、URSSにおける「労働者の獲得」の維持、及びプロレタリアがそのいわゆる「獲得」を「擁護」する必要性といった譲歩によって汚点を付けられたものであったとしても、トロツキーは偉大な革命家であった。それに反して、1940年のスターリンの手先によるトロツキー暗殺及び第二次大戦以降に、トロツキーとその諸立場とを主張し続ける諸潮流は、帝国主義戦争においてプロレタリアに殺害し合うことを求め、労働者階級の陣営を決定的に去り、資本主義陣営におけるスターリニズムへと辿り着いたのである。