現在の生産力にとって国家というものが狭すぎる枠組と成り果てたとすれば、その事実は、資本主義の一般法則に対しいかなる真の自立をも有したことのない企業というものにとって、更に真に迫っている。企業のこの一般法則及び国家に対する依存は、資本主義衰退において、ますます強くなる一方である。自主管理、すなわち資本主義であり続ける社会内における労働者の手による企業管理が、前世紀においてプルードン主義諸潮流によって強く勧められた時、既に小ブルジョワ的ユートピアであったとすれば、今日、それは全くの資本主義的欺瞞である以外の何物でもない:(注3)
- 資本の経済的武器として、自主管理は、労働者に、恐慌に襲われた企業の困難の重圧を受け入れさせることをその究極目的とする。それは、労働者に、自らの搾取様式を組織化させることによって行なわれる。
- 反革命の政治的武器として、以下の機能をもつ:
- 労働者階級を各工場、各地区、各区域内に閉じ込め孤立化させることによって、労働者階級を分割する
- 本来破壊する任務であるはずの資本主義的経済の心配事に、逆に労働者を執着させる
- 自らの解放を条件付ける第一任務:資本の政治装置の破壊及び世界規模での自らの独裁建設から、プロレタリア逸脱させる
実際、唯一世界規模における自らの独裁建設というレベルにおいてのみ、プロレタリアは生産管理を引き受けることができる。しかしそれが行なわれるのは資本主義の法則の枠組内ではなく、それら法則を破壊することによって可能となる。
自主管理を擁護するあらゆる政治的立場は、それが「プロレタリアの経験」或いは「労働者間の新関係設立」等いかなる名の下であろうと、事実上、資本主義的生産関係の客観的擁護に加わることである。
(注3)1974-75年のLIPの労働者による「自主管理」経験及びその敗北と共に絶頂点に達したこの欺瞞は、今日すっかり消耗し尽くされた。しかしながら、この欺瞞が将来アナーキズムの復活と共にある蘇生を成し遂げ得ることは、排除すべき可能性ではない。事実、スペインの1936年闘争の折、「革命的」経済手段として提唱された自主管理の神話を掲げる旗の旗頭となったのは、アナーキスト(無政府主義)及びアナルコ・サンディカリズム(無政府主義的労働組合組織)の諸潮流であった。