プロレタリア・トリビューン(ロシア)で元出版
1.国際革命の出来事が1920年代の半ばに敗北してから、「社会主義」、「共産主義」、「マルクス主義」という表現より歪んだ、乱用した表現はない。旧東欧圏 のスターリン主義国家、または今日にいたって中国、キューバや北朝鮮という国々は、「共産主義」または「マルクス主義」の表現だというのは20世紀における最大の嘘であり、極右翼から極左翼まで支配階級の全派閥によってわざと仕掛けた嘘でもある。1939~1945年間の帝国主義戦争のうち、人間の歴史上に最大な虐殺のためにロシアの中や外国にいる労働者を動員するためには、「社会主義母国の防御」という神話が使用され、「反ファシズム」に合わせて「民主主義の防御」も使われていた。
この嘘はアメリカやロシア指導の最大帝国主義圏による双方の競争に支配される1945~89年の中、いかにも広い範囲で使用されていた。東方では、ロシア資本の帝国主義的な要望を裏付けるため、そして西方で帝国主義間の衝突を政治思想的に隠す手段(「ソヴィエトの全体主義から民主主義を守ろう」)として、労働者階級の考え方をねじ曲げる手法の一つとしても使用されて、ロシアの強制労働収容所に指しながら、「それは社会主義だとしたら、資本主義には不備があっても、まだましだろう?」と徹底する。とりわけ、東欧圏の崩壊が始まったら、「共産主義の死亡」、「マルクス主義の破産」や労働階級の終章まで意味するといって、このテーマは著しくうるさくなってきた。そして、この傾向に加えて、特にトロツキ派左翼など資本主義の極左翼が、「官僚的なゆがみ」を批判しながらもスターリン国家の遺跡に労働者階級の基盤があったと想像して、ブルジョワの要点を裏付けてしまった。
2.こういう思想のゆがみは、20世紀における実際なマルクス主義の展開と継続性を隠すために役に立った。マルクス主義の偽造した擁護者、つまりスタリン主義者、トロツキ派、そしてマルクス「専門家」の学者、修正主義者と哲学者が注目を集めながら、本物である擁護者は逆に直接に弾圧され、封じられてなくても、追放され、意味がないセクトとして罵声されたり、まして「亡くなった世界」の化石としてはねつけられてきた。さて、20世紀におけるマルクス主義の本当な継続を再現するためにマルクス主義とはどういうことかと、初めに定義する必要がある。1848年の共産主義宣言の初めての宣伝からマルクス主義は、天才で孤立した「思想家」の考え出した成果に定義したものと違って、プロレタリアートの実際な運動の理論的な表現として定義していた。
つまり、戦闘的な理論ではなければならないという、労働者階級の直接かつ歴史的な利害を断固と擁護するもので、搾取される階級の大儀に忠実であることで自らを証明する。この擁護は、プロレタリアートの国際主義という基本的で、不変的な原則に忠実でいる能力に基づいただげでなく、労働階級の体験との生きている関係によってマルクス主義の充実を含んでいる。さらに、マルクス主義は集団的な労働と闘争を体現している階級の成果そのものとして、組織した集団、つまり革命的な分派や党のみによって発展する。そのため、共産主義宣言は、世界初のマルクス主義組織の共産同盟の綱領として作成した。
3.資本主義がまだ拡大方向で上昇する制度であった19世紀の高揚では、ブルジョワ階級は、まるで黒が白ということで、資本主義=社会主義と言い、自らの支配の搾取的な本質を隠そうとする必要がまだなかった。こういった思想のゆがみとは、資本主義の歴史的な衰退において典型的であり、ブルジョワが「マルクス主義」を困惑の道具として利用しようとする努力でよく表現している。だが、資本主義の上昇段階のときに、支配的な思想を圧倒的な形が、労働者運動に入れ込もうとした偽の社会主義の形になってしまった。その理由で、共産主義宣言の作成者がなるべく「封建的」、「資本家」や「小資本家」という社会主義から差異を強調しようとし、第1インタナショナルのマルクス主義の分派はバクニン主義の一方、ラサール の「国家社会主義」に対して闘わなければならなかった。
4.第2インタナショナルの党それぞれはマルクス主義に基づいて結成され、労働運動の様々な考えの組み合わせであった第1インタナショナルを超えた大した進歩になってきた。しかし、労働階級が主に改善に向けて注力していたときである膨大な資本主義の拡大期間で活動していたため、社民党はとくに資本主義システムに組み込まれてしまうプレッシャーを受けやすくなってきた。こういうプレッシャーは、資本主義の必然的な墜落というマルクス主義が革新した予測を「修正しなければならない」と言い、革命的な割り込みなしに社会主義に向けて平和で進化するができるだろう、ということで改善主義派の党の中で表現されてきた。
この期間では、特に1890年代後半と1900年代前半でマルクス主義の継続は、マルクス主義の基本原則の擁護に妥協しないと同時に、資本主義が上昇期間の限界にいたったうちに生まれてきたプロレタリア闘争の新しい条件を把握できた「左翼」の分派によって支持されていた。社民党の左翼を代表する名前はよく知られているだろう。ロシアにレーニン、ドイツにルクセンブルグ、オランダにパネクーク、イタリアにボルディガー、しかしこれらの闘士は独りで活動していなかったということを強調しなければならない。第2インターナショナルでご都合主義が段々と広がってしまう中、これらの左翼は組織した分派として活動しなければならなくなって、ロシアにボルシェビキ、オランダにトリビューン団などが、それぞれ党や国際的に組織してきた。
5.1914年の帝国主義戦争や1917年のロシア革命によって、資本主義が必然に「社会革命の時代に入る」というマルクス主義者の主張を確認し、労働運動の中で根本的な分裂を引き起こした。はじめて、マルクスとエンゲルスに参考していた組織がバリケードの違う側になり、正式な社会民主党の多数は、かつての「改善主義者」の手に陥った結果、初期マルクスの作文を引き合いに出して、ロシアはまだブルジョワー発展期を通らなければならないといって、10月革命を糾弾した。だが、そうしてしまい、決定的にブルジョワーの陣営になって1914年戦争をリクルートする期間する大尉になってから、1918年に反革命の活動家にもなってしまった。
これで証明したのは、マルクス主義を支持するということは、信心深い発言や党のイメージではなく、生きている実践による確認されること。帝国主義の大虐殺のなか、プロレタリアートの国際主義の方針を掲げ続けた、ロシアにおけるプロレタリアート革命を防衛するために駆けつけた、戦争の直後に発生した数多くのストライキや反乱を率いたのは左翼潮流と他ならない。しかも、1919年に設立された共産主義のインターナショナルの中核になったのは、同じその複数の潮流であった。
6.1919年は戦後革命の波における高揚であり、創設会議では共産インタはプロレタリア運動のもっとも先端的な姿勢を表現していた。それは、民主愛国主義者との完全な決裂、資本主義の衰退期が必要にする大衆行動という労働者の方法、資本主義国家の崩壊や労働者ソビエトによる国際的な独裁という姿勢であった。この綱領の明視は、革命波の巨大な影響を反映していたし、元共産党の中に活動していた左翼分派の政治的かつ理論的な貢献にもよって準備されていた。したがって、カウツキ氏の法律尊重かつ漸進(ぜんしん)主義に反対して、ルクセンブルグ氏とパネクーク氏は革命の実として大衆ストライキを掲げ、カウツキ氏が議会に服従した姿勢に反対して、パネクーク氏、ブハーリン氏とレーニン氏はマルクスが粘ったブルジョワ国家を崩壊して、コミューンの状況を作り上げるという必要性を復活させて更新した。こういう理論的な発展は、ついに革命の鈴が鳴ったときに実践的な政治になってきた。
7.革命的な波の撤退、そしてロシア革命の強制孤立が、共産インタとロシアにおけるソビエトの力が衰退していく過程を引き起こした。ボルシェビキ党はますます、プロレタリアート機関の力と参加に反比例で成長していった官僚的な国家構造に結合してしまった。第2インタの中でも、大衆行動が減った時期における大衆的な支持を得るために行った試みは、日和見主義に基づいた「解決」を生み出した。つまり、議会や労組で活動しようという強調が強まり、帝国主義に対して「東方の人民」が立ち上がるようにアピールしたあげく、なによりも民主愛国主義者の資本主義本質を明らかにした理解を捨てしまった統一前線の政策のことである。
第2インタで日和見主義の成長は、左翼分派という形で反応を引き起こしたと同様に、第3インタで跳ね上がった日和見主義は共産主義左翼の諸潮流によって、対抗され、パネクークとボルディガーを含めてそれぞれ分派の先駆者の多くは、前のインタで自らマルクス主義の最高な弁護者として保証した。共産主義左翼は基本的に国際的な潮流で、ブルガリアからイギリス、米国から南アフリカまで、多国にわたって同じ姿勢が表現されていた。だが、もっとも大切なその代表者たちは、ドイツ、イタリアとロシアというマルクス主義の伝統がもっとも強い国にいていた。
8.ドイツでは、マルクス主義の深さと、実際にプロレタリアート大衆の膨大な刺激と合わせて、革命波の高揚における、とくに議会や労組問題に関するもっとも前進的な政治的な姿勢を生み出した。だが、左翼共産主義というのはドイツ共産党や第2インタで発生した御都合主義の兆しに対する反応として表れ、KPDにおける左翼反対派がとんでもない仕掛けで追い出されてから結成したKAPD(労働者共産党)に指揮されていた。当時の第2インタの指導者により、「小児症っぽい」と「アナルコ・シンジカリスト」として批判される中、過去の議会と労組を中心にした路線の拒否は、資本主義の衰退を取り上げたマルクス主義の分析に基づいた。この分析とは、議会や労組という戦略を廃れさせて、工場評議会や労働者評議会という新しい階級組織を呼びかけた。同じく、「大衆共産党」という社会民主主義を拒否して、(ボルシェビキから受け継いだ)綱領が明かりかな中核を支持した姿勢もそうであった。KAPDは、古い議会主義線路に反対している、こういった獲得した戦略の断固とした擁護によって。その運動は、パネクークやゴーターの著作により、ドイツとのつながりが強いため、とくにオランダの革命運動をはじめ、多国で表現が盛り上がっていた国際潮流の中核になってきた。
だが、ドイツの左翼共産主義は1920年代で大事な弱点が無かったというわけでもない。資本主義の崩落を、長く引き延ばされた過程より、最終的な「死亡危機」とみなしてしまう傾向は、革命波の撤退が見えなくなって、御都合主義の危険性に晒されてしまった。組織の問題も入ってしまって、共産主義インタと早まった決裂をしてしまって、1922年に新しいインタを設立しようと試んでしまった。
To be continued....