民族解放及び新国家建設は、かつて、一度としてプロレタリアに固有の任務ではなかった。従って、もし前世紀において諸革命家がこのような政策を支持する結果になったとすれば、それら政策の専らブルジョワジー的特徴についての幻想をもって支援したのでも、「民族自決権」の名の下に支援したのでもない。そのような支持は、資本主義上昇期において、国家が資本主義発達に適した枠組を代表していたという事実にその根拠を置く。又、その枠組のあらゆる新建設は、前資本主義的社会関係の強制的名残を排除することで、世界レベルの生産力増大へと前進する第一歩を形成していた。よって、それは社会主義への物質的条件の成熟への第一歩の形成であったのである。資本主義の衰退期突入に伴い、国家は、資本主義的生産関係の全体と同様、生産力の発達にとって狭すぎる枠組となった。今日、新国家の立法的設立は、最も古く、最も強い国々自身でさえ引き受けることのできなくなったほどの発達に対し、いかなる現実的前進をも可能にすることはできない。分割され、帝国主義的ブロックによって共有された今後の世界において、あらゆる「民族解放」の闘いは、何らかの前進運動と成ることからは程遠く、実際にはライバルのブロック間での継続的対決時に要約される。その対決時において、自由意志によって或いは力ずくで志願・召集されたプロレタリアと農民が、大砲の餌食として参加することのみが可能である。(注2)
このような闘いによっては、帝国主義をいかなりとも減退させることはできない。何故ならこれらの闘争は、その基本を改めて問題とはしないからである:その基本とはすなわち、資本主義的生産関係である。もしこれらの闘争が一つの帝国主義的ブロックを減退させることができるとすれば、それは別のブロックを更に強化する為であり、このようにして設立された国家はそれ自身が帝国主義になる。何故なら衰退期において、その大小に関らずあらゆる国は、このような帝国主義的政策を免れることはできないからである。
もし、現在の世界において「成功した民族解放」が渦中の国にとっての監督力の変化という意味しか持たないとすれば、それは大抵の場合労働者にとって、特に新「社会主義」諸国においては、国有資本による搾取の強化、体系化、及び軍制化として現れる。それは現制度の野蛮さの表明であり、「解放された」民族・国家を真の強制収容所に変える。これらの闘争は、ある者が主張するような、第三世界におけるプロレタリの階級闘争にとっての踏切台となるには程遠い。それら諸闘争は、「愛国的」欺瞞を撒き散らし、国家資本支持への加担を意味することにより、これらの国々でしばしば激戦となるプロレタリア闘争に、常にブレーキをかけさせ、正道から逸脱させる作用をもつ。半世紀以上も前より、歴史は、共産主義インターナショナルの断言に反し、「民族解放」の諸闘争が、先進国諸国のプロレタリアの階級闘争に、後進国諸国のプロレタリアの階級闘争にとってと同様、推進力を与えはしないことを十分に示した。どちらの国々においても、これらの闘争から何ものをも期待することは出来ず、いかなる「選択すべき陣営」を有することも出来ない。この対決において、諸革命家の唯一のスローガンは、「国家防衛」の近代版に反した、第一次世界大戦中諸革命家によって既に採用されたものにしかなり得ない;つまり、「革命的敗北主義;帝国主義戦争を内戦へ変えよ」というスローガンである。これらの闘争に対するあらゆる「無条件擁護」や「批判的支持」の立場は、それが意識的・無意識的に関らず、第一次世界大戦時の「社会的・盲目的愛国主義」の立場と類似している。従ってそれらの立場は、首尾一貫した共産主義活動とは完全に相容れないものなのである。
(注2)1980年代末の東のブロック崩壊及びそれに続いた欧米ブロックの解体以来、民族解放闘争は、欺瞞の構築を止めた。その欺瞞の裏では、資本の左翼分派と極左が、プロレタリア分派を、他の帝国主義陣営に対し、ある別の帝国主義陣営支持へと引きずり込もうと試みていた。にもかかわらず、資本主義の中心的国々において、「民族解放」の神話がロシア帝国主義ブロック崩壊に伴い消耗し尽くしてしまった一方、その神話は今も尚いくつかの第三世界地域においては常に根強い。それはいまだにこれらの国々のプロレタリアを、虐殺へ強制加担させることに役立つことができているのである(コーカサスの諸共和国や、イスラエルによる支配下の諸領土における状況等がその例である)。