湾岸戦争は、民主主義諸政府が嬉々として繰り返した「報道の自由」や「知る権利」に関する演説が、どれほど欺瞞に満ちたものであるかを我々に立証することを可能にした。この戦争を一貫して、ただ一つの真実のみだけしか存在しなかった:それは、諸政府の真実である。存在した唯一つの映像形態は、軍当局に提供された映像形態であった。いわゆる「報道の自由」はその本来の姿を現した:つまり、単なる偽善的装飾としての姿である。最初の爆弾か投下された瞬間より、「報道の自由」は、形態の如何を問わずあらゆる全体主義体制内においてと同様、あらゆるメディア内において、政府の指令への細心綿密で盲従的な実行に、公然とその席を譲った。もう一度、民主主義はその真の性質、即ち支配者階級の被搾取者上への、全的独裁の道具であるという性質を、改めて示したのである。そして、我々が浴びせられてきたあらゆる欺瞞の中でも最も卑劣な欺瞞の栄冠は、この殺戮を、「繁栄的・平和的新世界秩序」樹立を目的とした「平和の為の戦争」として呈示した者へ帰属するのである。
それは数々のブルジョワ的欺瞞の内でも、最も醜悪で使い古されたものの一つである。衰退的資本主義が新たな帝国主義的殺戮に取り掛かる度に、ブルジョワジーは同じ決まり文句を繰り返してきた。第一次大戦は、その2千万人の死者と共に、「最後の戦争」となるはずであった。その20年後の大戦は、それよりはるかに恐ろしいものであった:5千万人の死者をうみ出したである。この戦争の勝者は、それを「文明の決定的勝利」として呈示した:その大戦に続いた数々の戦争は、それ以来、全部でそれと同等の数の死者を生んできた。そしてその数には、それらの戦争が引き起こした、飢饉や流行病といったあらゆる惨禍による犠牲者の数は含まれてはいない。
労働者階級は、罠にかかることを拒否しなければならない:資本主義下において、戦争の終焉とは不可能である。それは諸政府の政策の「良さ」や「悪さ」の問題ではなく、国家を指揮する者の「思慮分別」や「狂気」にかかっているのでもない。戦争は、資本の異なる様々な部門間における競争に基づいた制度である、資本主義制度と切り離すことができないものとなった。この制度の決定的な経済的破綻は、これら様々な部門間の増大する敵対関係へと導き、その制度の中であらゆる国々が身を委ねている商業戦争が達する果ては、武力戦争でしかあり得ない。誤ってはいけない:この二大世界大戦を引き起こした数々の経済的理由は、消え去りはしなかった。それどころか、資本主義経済がこれほどまでの袋小路に陥ったことはかつてなかったのである。この袋小路が意味するのは、資本主義制度が寿命に達し、その制度に先立った社会、即ち封建社会や奴隷制度社会といった社会が辿った運命と同じく、転覆させられるべき時が来たということである。資本主義の生存は人間社会にとっての完全な不条理である。それは、人類にとって充足や幸福をもたらす為どころか、廃墟と死体とを積み重ねる為に、科学と人間の労力の豊かさを総動員し、その豊かさを破壊する帝国主義的戦争そのものと同様の不条理である。又、ロシア帝国の崩壊、即ち世界の敵対する二大ブロックへの分割の終了が、戦争の消失を意味するなどと、彼らに言わせるわけにはいかない。敵対する二大強国とその各同盟国間における新たな世界大戦は、現在のところは喫緊の問題ではない。しかし、各ブロックの終焉は資本主義の矛盾に終焉をもたらした訳ではない。危機は常に存在している。消失したのは、それらの強国が彼らの属国へ課していた服従である。そして国家間対立は、恐慌の手の施しようのない悪化に伴い激化しざるを得ない為、唯一の展望は「世界の新秩序」どころではなく、更に破滅的な「世界の無秩序」なのである。