社会が腐敗のこれほどまでのレベルに達し、そのふところにおける絶望と「未来無し(ノー・フューチャー)」とがこれほどまでに支配的感情となったのは、以前よりはるかに高いレベルに達した資本主義が、人間に何の展望をももたらすことができないためである。20年以上前よりこの制度は、その経済の厳しく乗り越え難い恐慌に襲われてきた。1930年代、経済恐慌は世界大戦へと行き着いた。それはその恐慌の「解決」ではなかったが、自らの歴史上最もひどい敗北を蒙ったばかりであった労働者階級が、ブルジョワジーの計画を妨げる力を持っていなかったという限りにおいて、ブルジョワジーは帝国主義的殺戮を目指した社会生活の全体、政治力及び経済力とを調整することができたのである。しかし今日において、これほどまでの可能性はもはや資本主義には許されてはいない。1960年代後半の恐慌は、それが表明し始めた途端、直ちに世界中の労働者の大々的な反撃を呼び起こした:フランスにおける1968年5月の9百万人の労働者によるストライキ、イタリアにおける1969年の「熱い秋」、同年アルゼンチンのコルドバにおける労働者の蜂起、1970年から1971年にかける冬中続いたバルト海におけるポーランド人労働者の大ストライキ、その他更に大規模の様々な闘争が、多くの国々で繰り広げられた。それは、労働者階級が反革命を乗り越えたことの証明であり、闘いとブルジョワジーが彼らに要求する窮乏を受け入れることの拒否とによって、新たな世界大戦への途を塞ぐことが、それ以降可能であることの証明であった。国家経済の為に犠牲を捧げることを拒否する労働者が、ましてや最上の犠牲である自らの生命を捧げる覚悟などは尚更無いという限りにおいて。
しかしながら、プロレタリアが一般化された新たな殺戮の爆発を妨げる力を有していた一方、彼らはまだ自らの展望を主張する力を有してはいなかった:つまり、資本主義の転覆と共産主義社会の建設という展望である。同時にプロレタリアは、資本主義的退廃が社会全体上に対する一層の効果を発揮することを妨げることはできなかったのである。
世界情勢のこの一時的抑制状態においても、歴史はその歩みを止めたりはしなかった。例え支配者階級が経済危機を克服することが不可能なことを日々ますます証明しても、社会は、その経済恐慌への没入により激化された衰退のあらゆる特徴の蓄積を、20年間もに渡り耐え忍び続けてきた。支配者階級が社会全体に提案できる唯一の計画とは、資本主義生産方法の取り返しのつかない崩壊に対し、成功の望み無しに、その日その日、その場その場で抵抗することのみである。
全力をかけうる何らの歴史的計画もなく、世界大戦のような最も自滅的な計画さえも持つことができず、資本主義社会は、その立ち腐れ、社会の更に進んだ分解及び一般化された絶望の中へと落ち込むことしかできなかった。
そして現在の世界が、人類の全体に、最終的には人類の死を伴う、増大する残酷以外のいかなる展望をももたらさないことを日々ますます示している間、この絶望は増大するのみである。なにしろ幻想を抱くことは許されないのであるから!
もし我々が資本主義に現在の場所を譲ったままにしておけば、世界大戦を無しにしても、最後には人類が決定的に破壊されることになるであろう:地域的戦争、感染病、環境破壊、飢饉、その他「自然」災害と人々が言い張る数々の大災害等の蓄積による決定的な破壊が、最後には待ち受けているのである。
プロレタリアよ、前世紀の革命家達の予測が、これほどまでに今日的であったことはかつてなかった。「社会主義か、もしくは残酷か」とかつて彼らは言った。プロレタリアの世界的革命の不在の為、今や残酷は一般化され、人類の生残り自体を脅かしている。かつてなかった以上に、唯一の希望、人類にとっての唯一の可能な未来は、資本主義制度の転覆と、社会の息を詰まらせる様々な矛盾から解放された新社会関係の設立とに存している。