闘争手段に関する討論
1905年のロシアにおける革命的事件の数々は、あらゆる労働者運動を大きく揺るがす大地震を引き起こした。労働者評議会が形成され、労働者たちが大衆ストライキを始めるや否や、社会民主党の左派(ローザ・ルクセンブルクは『大衆ストライキ』及び『党と組合』、トロツキーは『1905年』に関する著作、パネクークは諸処の文書、特に議会に関する文書を発表)はこれらの闘争から教訓を引き出すことを始めた。評議会における労働者階級の自主組織化についての力説、ローザ・ルクセンブルク及びパネクークにより特に主張された議会制度の批判は、アナーキスト的な気まぐれの結果などではなく、資本主義的生産方法の衰退の始まりにおいて新しい状況がもたらした教訓を理解し、闘争の新しい形を解釈しようとする為の最初の試みであった。
日本の革命家は国際的に比較的孤立していたにも関わらず、闘争の条件と手段とに関する討論は彼らの間でも繰り広げられ、世界規模の労働者階級およびその革命家の少数派にまでこの興奮が反映されていたことを示している。それまでよりも更に明確な形で二つの傾向が対立していくことになる。幸徳を中心とした第一のグループはその全主張が「直接行動」、即ちゼネストと革命的サンディカリズム(労働組合主義)をめぐって行われた為に、アナーキストへの強い傾化を見せ始める。幸徳は1905-1906年間に渡米し、IWWの労働組合運動の立場をよく調べ、ロシアのアナーキストたちとの接触を確立する。アナルコ・サンディカリストの潮流は1905年から機関紙『光』を発行する。他方、片山は『新紀元』において社会主義の議会活用を無条件に擁護する。その数々な相違にも関わらず、1906年にこの二派は合体し日本社会党を設立、片山が提唱したように「国法の範囲内」において社会主義の為に闘う。この日本社会党は1906年6月24日から1907年7月22日まで存在し、1906年12月まで『光』紙が発行される[1]。
1907年2月、日本社会党の第二回党大会が開かれ、様々な見地における対立が浮かび上がる。第二インターナショナルのシュトゥットガルト大会へ送る代表員の選出の後に議論は始まった。幸徳は議会政策論に真っ向から反対し、「直接行動」論の方法手順を主張した:「革命への道は普通選挙や議会政治によって拓かれるものでは断固としてない。社会主義の目的を達成するには団結した労働者自身による直接行動の他に手段はない。3百万人の人間が選挙の準備をする、そんなことは革命には何の役にも立たない。(なぜならそれは)3百万人の人間が自覚し組織化されているわけではないからだ」。田添は厳格に議会の陣地における闘いを擁護し、多数が堺によって提案された折衷案に賛成する。それは「国法の範囲内で」という言葉を規約から取り下げるだけに止まったものであった。それと同時に、党員は普通選挙運動や非軍備主義運動、及び非宗教運動への随意の参加が許されることとなった。幸徳の立場はアナーキズムへと堕ちてゆき、第二インターナショナルの左分派が発展させ始めた社会民主主義の日和見主義や議会主義およびサンディカリズムに対する批判に、何とか自らを適用することはできなかった。
この論争の後、1905年以降幸徳は自らをアナーキストと認め、ますます組織構築にとっての障害として振舞うようになる。彼の見解は特にマルキシズムの知識と理解とを深めることを求める数々の分子を妨害することとなる。政治的立場の理論の徹底的な検討を奨励することによって組織の構築に貢献する代わりに、幸徳は「直接行動」論の見地を提唱することを望み、熱狂的な直接行動主義へと駆り立てられていった。会議終了直後に、この日本社会党は警察によって結社禁止処分にあうこととなる。
1907年のストライキの復活後、1909年と1910年間にはまた別の階級闘争の後退が見られる。この間、警察による革命家狩りが行われたのである。赤色の旗を携行するという単純な行為が既に違法行為として扱われた。1910年には幸徳が逮捕され、その他多くの左翼社会主義者たちが後に続く。1911年、幸徳と他11人の社会主義者たちは天皇の暗殺を謀ったという口実の下、死刑宣告を受ける。社会主義の出版物はその会合と同様禁止となり、書店や図書館で入手することができた社会主義の文献は焼かれた。この弾圧に直面し、多くの革命家は亡命か或いはあらゆる政治的活動から身を引くことに至った。こうして長い日本の「冬の時代」が始まったのである。亡命を試みなかった革命家や知識人たちはそれ以降、出版団体・売文社を利用し自らの文書の発行を非合法に行った。検閲を免れる為に記事は曖昧な方法で書かれた。
ヨーロッパにおいては、反社会主義の法律の強制と弾圧とは社会民主主義政党(例えばSPD:ドイツ社会民主党、或いは更に過酷な弾圧を受けたロシアPOSDRS:ロシア社会民主労働党や、ポーランドとリトアニアのSDKPL)の拡大を押し止める事はできなかった。日本における労働者運動は弾圧下という状況においてなかなか発達できず、また同様に自らを強化させ党の精神と共に機能する革命的組織を形成する力を持つこと、即ち日本の運動において常に支配的な重みをもっていた各個人とその会による主要な役割の実施という枠を超えることに、非常な困難を見出していた。アナーキズム、平和主義および人道主義の影響は常に大きく、綱領的なレヴェルにおいても組織的なレヴェルにおいても、運動が重要なマルキシストの派を生じさせることができる段階にまで到達することはできなかった。第二インターナショナルとの最初の接触の確立にも関わらず、密接な連携を結ぶまでには未だ至らなかったのである。
こういった特殊性をもちながらも、日本の労働者階級が世界の労働者階級に同化し、ヨーロッパにおける革命的運動の綱領的・組織的獲得や長い階級闘争の歴史を有していなかったにも関わらず、似通った傾向を示しながらほぼ同じ問題に直面していたことを我々は認めなければならない。この点において、日本における労働者運動の歴史はマルキシストの派が重きをなすことができず、アナルコ・サンディカリズムが常に主要な役割を果たしていたアメリカやその他周辺国における歴史と同じ列に属していると言えよう。
労働者階級と第一次世界大戦
日本は自らの植民地の立場を占領することを目的に、1914年に対独宣戦を布告するが(その数ヵ月後に日本は青島(中国)にてドイツの太平洋上の植民地の前哨を占領、この戦闘によって傷つけられた日本側の領土は皆無であった。戦争の中心部がヨーロッパにあったため、日本は第一段階においてのみ直接的な参戦をすることなった。対独の最初の軍事的成功を収めるや否や、日本は全ての新たな軍事的活動を控え、ある意味では中立的な態度をとる。ヨーロッパの労働者階級が戦争問題にますます深刻な方法で直面していった一方、日本の労働者階級は戦争がもたらした経済の「急発展」に面していた。実際、日本は武器の一大供給国となり、膨大な労働力の需要があった。1914年と1919年間に工場労働者の数は倍増する。1914年には1万7千の会社にて約85万人の賃金労働者が働いていたのに対し、1919年には4万4千の会社にて182万人の労働者が見られるようになる。それまでは男性の賃金労働者は労働力の僅かな部分を占めていたに過ぎなかったのが、1919年にその数は全体の50%を占めることになる。戦争末期には45万人の炭鉱労働者が存在した。こうして日本のブルジョワジーは戦争から多大な利益を引き出したのである。戦時中の武器部門における大雇用のおかげで、日本は農業部門によって主に支配されてきた社会から工業社会へと発展することが可能となった。1914年と1919年間の生産成長率は78%であった。
同様に、日本が大戦へ制限された形でのみ参戦したというこの事実は、日本の労働者にとってヨーロッパの労働者と同じ状況に直面する必要を生じさせなかった。ブルジョワジーはヨーロッパの大国においてそうであったように社会を軍事化する為の大量召集を行う必要がなかったのである。この事実は日本の組合にとって資本との「神聖同盟」を結ぶことを回避させ、この点もまたそれが現実に行われ資本主義の支柱としての正体を暴かれることになったヨーロッパの組合とは事情が異なっていた。ヨーロッパでは労働者が食糧不足と2千万人もの死を引き起こした帝国主義的大虐殺に直面し、塹壕戦や恐ろしい殺戮が労働者階級のただ中において繰り広げられていた一方、日本の労働者はそれらの全てから免れていた。ヨーロッパ、特にドイツやロシアにおけるもののような、労働者の闘いを急進化させる反戦の闘いによって構築される推進力が日本に欠けていた理由はこの違いにある。ロシア兵士とドイツ兵士との間に生じたような友好は一切存在しなかった。
第一次大戦下における世界のプロレタリアの様々な部門間でのこれほどの状況の対照は、当時の革命家が考えていたものに反し、帝国主義的戦争が世界的革命の発展と一般化にとって最も最適な条件ではないという事実の表現であった。
大戦勃発直後よりインターナショナリストとしての立場と国際的展望とを主張し、1915年の夏にはツィンマーヴァルトにおいて、そしてその後にはキエンタールにおいて合流したヨーロッパの革命家たちは、第一次大戦前の時期の革命家の伝統にのっとっていた(即ち19世紀のマルキシストの立場およびシュトゥットガルト及とバーゼル大会にける第二インターナショナルにおける決議である)。それとは反対に、日本の社会主義者はその孤立の代償を支払わなければならず、インターナショナリストの抵抗はマルキシズムの上にしっかりと根を下ろした確固たる伝統を拠り所とすることができなかった。1914・1915年においてと同様に、聞いてもらえたのは主に平和的・人道的な声であった。事実、日本の革命家はツィンマーヴァルトにおいて前衛革命家たちによって広く普及された展望を引き継ぐ力をもっていなかった。その展望とは、第二インターナショナルは死に、新たなインターナショナルが結成されなければならない、戦争を止めさせるには帝国主義的戦争を内戦に転化することによってのみ可能である、といった諸事実の分析を拠り所としたものであった。
にも関わらず、少数であった日本の革命家たちは自らが担っている責任を認識することを知っていた。彼らは発売禁止の新聞や雑誌においてインターナショナリストの声を聞かせ[2]、秘密の会合を重ね、限られた力にも関わらずインターナショナリストとしての立場を普及させるために最善を尽くす。レーニンとボルシェヴィキによる活動ほどんど知られていなかったが、その一方ドイツのスパルタクス団のインターナショナリストの立場やカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルグによる勇敢な闘いは多大な注意を持って受け入れられた[3]。
1918年8月の飢餓暴動(米騒動)
たとえ日本が大戦中にその戦争効果によるかなりの経済的「急発展」を迎えていたとしても、1914年の衰退期への突入は基本的にはあらゆる国々にこだました世界規模の現象であり、そこには第一次大戦の被害を免れた国々も含まれていた。日本の資本は世界市場の相対的飽和の結果である生産過剰の永続的な危機から遠ざかり続けていることはできなかった。同様に、日本の労働者階級も国際的な規模のプロレタリアに課せられた同じ諸処の条件と展望の変化とに対面することを余儀なくされるようになってゆく。
全ての産業部門における賃金が20%から30%増になったものの、労働口不足の為、物価は1914年と1919年の間には100%増に達する。実際的な賃金は全体的に減少し、1914年の賃金を基準に100とすると、1918年にそれは61にまで引き下げられた。この尋常でない物価の高騰は労働者階級を一連の防衛闘争へと駆り立てることとなる。
1917年と1918間に、米の価格は二倍高となる。1918年の夏を通し、労働者たちはこの米価の暴騰に反対するデモを開始する。工場におけるストライキやその他の分野への要求の拡大があったかどうかについては情報が無いが、何百人もの労働者が路上でのデモに参加したようである。しかしながら、これらのデモはそれ以上に特記すべき組織化された形態をもつまでには至らず、特定の要求や目的に行き着くこともなかった。商店は略奪にあったようであり、特に農業労働者とその折近くにプロレタリア化された労働口、および被差別「部落民」はこの略奪において大変活動的であり、目立った役割を果たしたようである。多くの家屋と会社とが荒らされ、そこには経済的要求と政治的要求との間にいかなる統一もなかったと見られる。ヨーロッパにおける闘争の発展とは反対に、いかなる総会も労働者評議会も行われなかった。この運動の弾圧後、約8千人の労働者が逮捕され、100人以上が殺された。政府は戦術の理由上退陣する。労働者階級は自発的に蜂起したのであったが、同時に彼らのうちにおける政治的成熟の不足は悲劇的にも明白な事実であった。
労働者の闘争は自発的に発生しうるものであっても、その運動は政治的・組織的成熟を拠り所にして初めて全力を発揮し発展できるものである。この更に深い成熟がなければ、運動は早急に崩壊してしまう。それが日本のケースである。日本における数々の運動はその発生とほぼ同じ速さで崩壊してしまった。政治組織による組織化された介入も存在しなかったようである。ボルシヴィキやスパルタクス団による執拗な活動なしにはロシアやドイツにおける諸処の運動は早急に転覆させられていたであろう。しかし、こういったヨーロッパと日本とにおける様々な条件の違いにも関わらず、日本の労働者は大きく一歩前進することになる。
日本におけるロシア革命のこだま
1917年2月、ロシアの労働者階級が革命的な過程の口火をきり、同年10月に権力の掌握に成功する時、このプロレタリアの初の蜂起は日本にまでこだますることになる。日本のブルジョワジーは直ちにこのロシアにおける革命が表す危険を察知する。彼らは、早や1918年4月より反革命の軍隊の戦闘態勢を整えることに最も断固とした形で参加し始めた最初のブルジョワジーたちのうちに数えられる。日本は1922年11月にシベリアにおける軍隊を撤退させた最後の国であった。
ロシア革命のニュースがたちまち西側諸国へと伝わり、ロシアにおける革命的発展が絶大なインパクトを -特にドイツにとって- 与え、中央ヨーロッパの諸軍隊を不安定にさせるまでに至ったにも関わらず、日本におけるそのこだまは大変限定されたものであった。地理的条件がこの事実に大きく影響しているとは言え(革命の中心であったべトログラードやモスクワから日本は数千キロも離れた地にある)、それだけが理由ではなく、戦時中における日本の労働者階級の急進化の度合いが弱かったという点が特に影響していたと言える。それでも日本の労働者階級は、1917年から1923年の間に繰り広げられた数々の世界的闘争の革命波に、その最も進歩的な分子と共に参加することになってゆくのである。
革命家たちの反応
当初、ロシア革命のニュースは大幅な遅れをとり断片的な形で日本に伝わった。この事件が初めて社会主義者の出版物の紙上に現れたのは1917年5月と6月のことである。堺は違法の条件下において祝いの言葉を送り、それはアメリカの片山によって移民労働者の新聞『平民(Commoners)』、IWW(世界産業労働組合)の雑誌『International Socialist Review』誌上及びロシアの各新聞紙上において発表される。日本では高畠が売文社よりソヴィエトの役割についての初の報告論文を発表し、革命家の決定的な役割を強調する。しかしながら、革命時に諸政党が果たした役割に関しては未だ知られていないままであった。
ロシアにおける様々な事件とボルシェヴィキとに関する不知のレヴェルは最も知名の革命家たちによる初の宣言を通して見受けられる。1917年2月、荒畑は以下の様に述べている:「我々の中でケレンスキーやレーニン、トロツキーといった名前を知っている者は皆無である」。1917年の夏を通し、堺はレーニンをアナーキストとして語り、それだけではなく1920年4月には「ボルシェヴィズムとはある意味でサンディカリズムと似たものである」と断言している。アナーキストの大杉栄でさえ、1918年に「ボルシヴィキの戦略はアナーキズムの戦略と同一である」と述べている。
ロシアで起こっていることに感銘を受けた高畠と山川は1917年5月、東京にて宣言「決議文」を書き、POSDR(ロシア会民主労働党)へ送付する。しかし郵送の混乱の中、これはロシアの革命家の手元には届かず仕舞いであった。亡命中の諸革命家と革命の中心部との間には直接的な接触が事実上ほぼ無かった為、この「決議文」が発表されたのはその2年後、1919年3月の共産主義インターナショナルの創立大会においてであった。
この日本の社会主義者によるメッセージは以下のように主張している:
「ロシア革命の当初以降、我々は感激と深い賞賛と共に諸君の勇敢な活動に注目してきた。諸君の成果は我々の国の国民の意識に多大な影響を与えた。今日、我々は我が国の政府があらゆる口実の下にシベリアへ軍隊を送ったことに対し非常に憤慨している。この事実が諸君の革命の自由な発展にとって一つの障害となることに疑いの余地は無い。我が国の帝国主義的政府が諸君に与えている災禍に反対するためには我々が無力すぎることを、我々は痛切に悔やんでいる。政府による弾圧の攻撃に遭い、我々は全く身動きが取れずにいる。しかしながら、近い将来、日本の全土において赤色の旗が振りかざされる日がまもなく来ることを確信してもらいたい。
この書簡に、1917年5月1日の我々の会議における決議書の写しを同封する。
革命的親愛をこめて、東京および横浜の社会主義者の会・執行委員会」
彼らの決議文は以下の通りである:
「我々、1917年5月1日に東京にて集結した日本社会主義者は、ロシア革命に深い共感を抱き、賞賛をもって注目してきたことをここに表明する。我々は、ロシア革命が中世的絶対主義に反するブルジョワジーの政治的革命であると同時に、現代の資本主義に反するプロレタリアの革命であるということを理解している。ロシア革命を世界革命へと変貌させることは、ロシアの社会主義者だけの問題ではない。それは世界中における社会主義者の責任である。
今や資本主義制度の発展段階ははあらゆる国において最高点に達し、我々は完全に発達した帝国主義の時代へと突入した。帝国主義の観念論者たちによって騙されることがないよう、万国の社会主義者はインターナショナルの立場を揺ぎ無く守らなければならず、世界のプロレタリアの力の全ては我々の共通の敵である世界資本主義に対して向けられなくてはならない。そうすることによってのみ、プロレタリアがその歴史的任務を遂行できることになるであろう。
ロシアとその他あらゆる国の社会主義者はこの大戦に終止符を打つべく持ちうる全力を尽くし、戦時下にあるプロレタリアに、今日塹壕線の反対側にいる自分たちの兄弟に銃を向けることを止めさせ、自国の支配階級に向けるよう支援しなければならない。
我々はロシアの社会主義者の勇気と世界中の同志とに信頼をもっている。我々は又、革命の精神が万国に拡がり浸透していくことを強く確信している。
東京社会主義者の会・執行委員会」(1919年3月「共産主義インターナショナル創立大会」にて発行)
東京・横浜の社会主義者の1917年5月5日の決議文は以下の通りである:
「ロシア革命は商・工業の発展と共に台頭した階級による反中世的政治体制の政治的革命である一方、それと同時に、平民階級による反資本主義の社会的革命でもある。
それ故、この際において大戦の緊急終結を決然と要求することは、ロシア革命の責任であると同時に世界中の社会主義者の責任なのである。戦時下にある全ての国の平民階級は集結し、彼らの闘争の力が各国の支配階級に対して向けられるよう再指導されなければならない。我々はロシア社会党の英雄的闘いと万国の同志たちに信頼を置き、社会主義革命の成功を待ち遠しく思っている。」
同会はレーニンに電報を送り、その写しをUSPDとドイツのSPDにも送付する:
「世界の社会再組織の時、即ち我々の運動が再構築され、万国の同志と共に我々の最善をもって働くその時は、おそらくそう遠くはないであろう。休戦のこの極めて重要な段階、この重要な時において、諸君と連絡を取ることが我々にとって可能になるであろう。近々予定されている社会主義インターナショナルの創立に関して、可能であれば我々の代表員を派遣するつもりであり、現在その方向に向けて準備中である。我々の組織(売文社)の承認、及び諸君の支援と数多き助言とを期待しつつ・・・
敬具 東京社会主義者代表団」
このメッセージは国際的な方向決定を示しており、集結への努力と新たなインターナショナル結成への支持とを明らかにしている。しかしながら、当時売文社がとりかかった準備というものが実際にはどのようなものであったかについて明言することは難しい。このメッセージは秘密警察により傍受され、おそらく一度もボルシェヴィキたちに受領されるには至らなかったようであるが、それに反しSPDやUSPDは受領後内密に保管し、決して公表されることはなかった。
これらの宣言が証言しているように、革命は強力な火花として革命家たちの間に拡がっていった。それと同時に、国内の労働者階級全体に革命がもたらした衝撃というものはそれよりずっと弱いものであったことは確かである。ロシアの西に位置する諸国(フィンランド、オーストリア、ハンガリー、ドイツ等)においては、ツァーリの打倒と労働者評議会による権力掌握のニュースが大熱狂と抑えきれない連帯感の波とを引き起こし、各国において「自国における」労働者闘争の強化へと導いていたのに反し、日本においては労働者大衆の内に直接的な反応を見ることはできなかった。第一次大戦末期、闘争意欲は高揚していたが、それはロシアにおいて革命が始まっていたからではなく、むしろ経済的理由がその原因となっていた。つまり、戦時中の輸出ブームが戦争終結と共に急速に燃え尽き、労働者の怒りの矛先が物価の高騰と解雇の波とへ向けられていったのである。1919年には35万人の労働者を巻き込んだ2千4百の「労働紛争」が数え上げられ、1920年には運動は僅かな減少を見せ13万人による千の紛争が繰り広げられ、1920年以降には後退の一途をたどることとなる。諸処の労働者運動は多かれ少なかれ経済的領域内に止まり、政治的要求は事実上皆無であった。ヨーロッパやアメリカ、又はロシア革命が西海岸とブエノスアイレスの労働者に刺激を与え運動を急進化させたアルゼンチン等の国々における場合と異なり、日本には労働者評議会が全く存在しなかった理由はここにある。
1919年と1920年の間、約150の労働組合が結成されるが、その内の全てが労働者の急進化に対する障害として振るまう。諸処の組合はますます高揚する闘争意欲を妨害する為に支配階級の尖兵かつ最も有害な軍隊となってしまう。そうして、1920年には「労働組合同盟会」が設立される。その時まで組合運動は100を超える組合により分かれていた。
同時期、1919年にはブルジョワジーの支援の下、普通選挙権と選挙制度改革とを主張した一大「民主主義運動」が展開される。ヨーロッパのその他の国々と同様、議会政治制度が革命的闘争の楯として仕えることになる。日本でのこの要求の主な中心人物になったのはとりわけ学生たちであった。
闘争の新たな方法に関する討論
ロシア革命の衝撃と世界的闘争波に乗り、日本の革命家たちの間でも同様に熟考の過程が生じる。この熟考の過程は必然的に数々の矛盾を際立たせることになる。一方ではアナルコ・サンディカリスト(或いは自らをそう名乗った者)たちが、国家転覆を狙った革命を成功させた唯一の者であるとしてボルシヴィキの立場に同意する。この潮流はボルシヴィキの政策が、自分たちの純粋に議会的な方向決定に対する拒否の正当化を証明すると主張した(「直接行動」論の流れに反する「議会政策」論という論争である)。
1918年2月のこの討論の際、高畠は経済的および政治的闘争の問題が非常に複雑なものであるという考えを擁護する。闘争は直接的な行動と議会の闘争との二側面において展開することが可能である。議会制度とサンディカリズムの二つだけが社会主義運動を構成する要素ではない。高畠は大杉の個人主義的態度に反対するのと同様、アナルコ・サンディカリズムによる「経済的闘争」の拒否にも反対する。高畠は極めて不明瞭な形でもって「直接行動」と大衆運動とを同じ次元においていたにも関わらず、彼の文章は当時の闘争方法の明確化の一般的過程の一部を成したものであった。山川は政治的運動を議会制度と同一視することは通用しないと力説し、更には「サンディカリズムは私には十分に理解できない理由により退化したと思う」とまで言明した。
限られた経験と、これらの問題に関する理論・綱領的明確化の限られたレヴェルとにも関わらず、日本におけるこれらの声が組合の旧手順と議会闘争とを根本から問いかけんとし、新しい状況への答えを捜し求めていたという点を認めることは重要である。この事実は労働者階級が同じ問題に直面し、新たな状況に立ち向かおうとする過程と同じ過程内に日本の革命家たちも含まれていたことを表している。
ドイツのKPD(ドイツ共産党)創立大会において、模索的な方法でありながらも、組合と議会の問題に関する新時代の教訓が引き出され始める。新時代における闘争の諸条件に関する討論は、世界的・歴史的重要さをもっていた。これほどの問題は討論の枠と組織が存在して初めて明確化することができるものである。国際的に孤立し、いかなる組織ももたなかった日本の革命家の境遇は、この明確化を推し進めるにあたり大変な困難に遭うことを余儀なくしていた。その為に、アナーキズムの罠に陥ることなく、組合と議会との旧式の手順に対する根本的な問題化が成されたこの時期における彼らの努力を認識することは、一層の重要性をもっている。
明確化と組織形成への試み
ロシアにおける革命は、資本主義の衰退の歴史的新条件であり、国際的闘争の波の拡大は日本の革命家に挑戦を挑むことになる。これらの問題に対する答えの模索と明確化はマルキシストの根拠という軸を無くしては前進できないことは明白である。このような軸の形成は、その前提条件があらゆる革命的組織に反対するアナーキストの党派と、革命的組織の必要性を断固として主張しつつも未だ決定的な方法で自らの構築にとりかかることができていない党派との間における明確化にある為、数々の大きな障害にぶつかることになる。
日本の政治界は、その時々の任務を果たすに至るまでに長い時間をかける。それは自国の内のみに焦点を合わせるという傾向が自らの進歩に足枷をかけていたからである。又、ごく近い過去に至るまでマルキシズムに接近することはなく、プロレタリアの戦闘組織の構築にとって決然さに欠けていた、知名人物や会の精神が著しく優勢であったという点もその理由である。
このように、最も知名な人物(山川、荒畑及び堺)の中でも特に1918年当時の山川はさらに「マルキシズム批評」を書く必要があるという確信に満ちていた。しかし、『新社会』の5月号において、堺、荒畑と山川はボルシェヴィキへの支持を表明する。1920年2月、彼らは自らの機関誌『新社会評論』誌上にて共産主義インターナショナル設立に関する報告を発表する。同誌は同年10月には『社会主義』と改題される。これと同時期に、これらの革命家は金曜会(社会主義研究会)や水曜会(社会問題研究会)といった様々な研究会において目ざましく活動する。彼らの活動は、組織の構築よりも、大抵において短命であり何らかの組織への構造上の結びつきをもたない機関紙の発行へと向けられていた。こういった日本の革命家の間における組織的問題に関する混乱や躊躇を背景に、共産主義インターナショナルは組織の構築への様々な試みにおいて重要な役割を果たしてゆくことになる。
[1]総計194名の党員が発表された。その内、商人18名、職人11名、自作農者8名、記者7名、事務員5名、医者5名、救世軍の士官1名が含まれていた。明らかに労働者の党員は少数であった。女性の組織的行動への参加は未だに禁止されていた為、女性の党員は認められていなかった。更に、党員の大多数が40歳未満であった。1907年1月、『日刊平民新聞』が創刊される。一地域内に止まらない販売に成功し、初刊には3万部が発行された。
[2]荒畑と大杉は1914年10月から1915年3月にかけ月間『平民新聞』を、1915年10月から1916年1月にかけ『近代思想』を出版する。これらは全てインターナショナリストの声であった。
[3]『新社会』誌上において、国際情勢に捧げる「万国時事」という特集頁が設けられた。発行部数は少ないものであり続けたものの、SPDの裏切りに関する多数のニュースやインターナショナリストによる諸処の活動が記載された。同誌上にはドイツのインターナショナリズムの中で最も威信のある者の代表として、ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトの写真が記事と共に掲載された。記事の見出しを例に挙げると、以下の通りである:「クラーラ・ツェトキーン逮捕 / ジョレス暗殺後のフランス社会党の状況 / 1914年8月4日、ライヒスタークにおけるカウツキーとリープクネヒトの戦費に関する態度 / SPDの分裂 / シャイデマンの好戦的態度と中立的なカウツキー / 戦時中のイタリアにおけるストライキと蜂起 / ローザ・ルクセンブルグ釈放 / ロシアにおける囚人の状況 / ツィンマーヴァルトの宣言についての解釈 / リープクネヒト逮捕 / キエンタールにおける社会党の第二回国際大会と左翼による新たなインターナショナル設立の好機 / 社会民主主義反戦少数派、「ツィンマーヴァルトの宣言」のプロパガンダを理由に逮捕 / SPD党大会の状況 / アメリカの鉄道員によるストライキの脅威」。