ICConline - 2000s

ICConline - 2006

戦争の脅威に対する、韓国からの国際主義者宣言

200610月末、韓国のソウル市とウルサン市において、国際主義者の諸組織、グループおよび活動家による会議が、「社会主義者同盟(Socialist Political Alliance:以下SPA)によって召集された。そのささやかな参加者数にも関らず、SPAは、極東における(我々が知る限り)、初の共産主義的左翼の原理の組織・表現であり、この会議も確かにその種において初めてのものであった。よって、その歴史的重要性を汲み、CCIは代表派遣団を送り参加することにより、全面的支持を表明した。[1]

しかしながら、会議の直前に、その目的の長期的・政治的な重要性は、北朝鮮による第1回核爆弾の爆発と、それに続いた、特にこの地域に存在する異なる諸帝国主義大国(米国、中国、日本、ロシア及び韓国)の策略により引き起こされた、この地域における帝国主義国家間の緊張を劇的に悪化させ、影を落とされることになった。従って、この問題は、会議中に広範囲に討議され、下記に記す参加者によって、次の宣言の採用を生じさせることとなった:


戦争の脅威に対する、韓国からの国際主義者宣言

 

北朝鮮における核実験に関する報道に続き、我々、ソウル市とウルサン市で結集した共産主義国際主義者は、以下の項目を宣言する:

1)さらなる別の資本主義国の手による、新たな核兵器能力の開発を糾弾する。

核爆弾は帝国主義国家間戦争における最終の武器であり、その唯一の機能は一般に民間人の大量殺戮であり、それはとりわけ労働者階級の殺戮を意味する。

2)北朝鮮の資本主義国家によって踏み出された戦争への新たな一歩を、断固として糾弾する。北朝鮮は、このようにして、自らが労働者階級や共産主義と全くかけ離れたものであることを再度新たに示し(それが必要であったとして)、実際は、軍国主義の野蛮へ向かう衰退的資本主義の一般的傾向の、単なる極端でグロテスクなバージョンであることを実証した。

3)米国およびその同盟国による偽善的キャンペーンを断固として糾弾する

それらの目的は、解放の単なるイデオロギー的な準備以外の何物でもなく、今日のイラクにおける状況と同じく、その可能性があれさえすれば、労働者がそのまま主要な犠牲者にとなる、自分達の先制攻撃を仕掛けることにある。私たちは、米国が、広島と長崎の民間人を絶滅させた時、核兵器を戦争に使用した唯一の大国であったことを忘れてはいない。

4) いわゆる「和平工作」を断固として糾弾する

中国等、他の帝国主義的暴力団の庇護下で現われ始めているこれらの工作は、平和などとは全く無関係な、その地域における自らの資本主義的利益に専心したものでしかない。労働者は、いかなる資本主義国の「平和的意図」にも、微小なりとも信頼を寄せることはできない。

5) 韓国のブルジョワジーによるあらゆる試みを断固として糾弾する

彼らの企ては、国家の自由、又は民主主義の擁護という口実の下、国際主義者の原則を守るために闘う労働者階級及び活動家に対する抑圧措置をとることにある。

6)北朝鮮、韓国、中国、日本およびロシアの労働者との完全なる連帯姿勢を断言する。軍事行動が発生した場合に最初に苦しむこととなるのは彼ら労働者達である。

7)世界的規模の労働者の闘いのみが、資本主義下の人類の上に降りかかる野蛮さ、帝国主義的戦争、および核による崩壊の脅威に対し、永久に終止符を打つことができると宣言する。

プロレタリアには防御する国家はない!

 

万国のプロレタリアよ、団結せよ!


この宣言は以下の組織およびグループによって署名された:

社会主義者政治同盟(Socialist Political Alliance)(韓国)20061026日のソウルのグループ会議
国際共産主義潮流(
CCI
国際主義者パースペクティヴ(
internationalist Perspectives

会議に出席した数名の同士は、さらに個人単位で上記宣言に署名した:

SJ(労働者協議会のためのソウル市グループ)
MS(労働者協議会のためのソウル市グループ)
LG
JT
JW(ウルサン市)
SC(ウルサン市)
BM

 


[1] この会議についての詳細報告は後日出版する。

ICConline - 2007

   

2006年春のフランス学生運動についてのテーゼ

以下の諸テーゼは、学生運動の続行中に国際共産主義潮流(CCI)により採用されたものである。4月4日のデモは、3月28日のデモより小規模になるであろうという政府の希望を見事に破った。特に今回のデモにおいて、民間の労働者の数は以前より増加した。3月31日のテレビ演説で、シラク大統領は「機会均等」法の採用を発表すると同時に、学生たち怒りの主な対象である「初期雇用計画(CPE)」を設立する当法の第8条が実行されないよう頼むという愚かな操りを試みた。この情けない軽業的な行為は、運動を弱めるどころかむしろ拍車を掛けることになった。それは1968年と同様、経済の生産的分野における自発的なストライキの可能性を増長させた。政府は自らの嘆かわしい操作が運動の破壊に失敗したという事実を受け入れざるを得なくなり、その結果、最終的な操作があっても、遂に4月10日にCPEを撤回した。実際には、以下のテーゼは政府が妥協しないことを予想していた。政府がこれほどまでの後退をみせたこの危機のエピローグは、これらのテーゼの中心的主張、即ちこの2006年春の日々における労働者階級の若い世代らの動員の深遠さと重要さとの主張を、確認・補強してくれるものになったことを示している。

政府がCPEを撤回した結果、その撤回を第一の要求としていた運動は動力を失ってきた。それは、明らかにブルジョアジー各層が願望するように物事が「通常に戻る」ということを意味するのであろうか?決してそうではない。テーゼが議論する通り、「(ブルジョアジーは)何万人もの未来の労働者達が数週間に及ぶ闘争において得た全ての経験、その政治的認識、発展する意識を抑圧することはできない。反CPE運動はプロレタリアートの未来における闘争のための貴重な宝の山になり、 共産主義革命への道へと辿り着く肝心な成分である」。この素晴らしい闘争の役者達は、この経験からその長・短所両方を含んだ教訓を引き出し、この宝物に実を結ばせることが極めて重要である。何よりも、彼らが引き起こしたばかりの闘争が既に孕んでおり、現在の社会が直面している展望を明らかにする必要がある。つまり、死亡危機にある資本主義が必然的に被搾取階級に対して仕掛けるますますの攻撃に対抗する為に後者にとって唯一可能な反応とは、自らの抵抗を強化し、その制度の打倒を用意することにある。終結しつつあるこの闘争のごとく、この反省は集団的に行なわれる必要がある。それは新たな集会や議論を通し実行され、とりわけ労働者階級の闘争を支持する諸政治組織に対してそれぞれの総会が開かれていたのと同様に、それらは参加を希望する万人に対し開かれたものでなければならない。

この集団的反省は、闘争においてその役者同士を強く結んでいたものと同じ友愛的団結と連帯感とを維持することによってのみ可能となるであろう。この意味において、この闘争の参加者の大多数が前の形態における闘争が終結になったことを気づいた今、後衛行動や極小数派の「最後の最後までやりぬく」ピケがふさわしい時期ではない。むしろそれらの行動は敗北へ追い込まれるのを免れず、数週間に及び労働者階級の著しい闘争を実施した人々の中に分裂や緊張を生じさせる危険を冒しかねないこととなる。

(2006年4月18日)

運動のプロレタリアート的本質

1)フランスにおける現在の学生の動員は、既にここ15年間における国内の階級闘争史上、主要な出来事と位置付けられるものになってきている。それは、少なくとも1995年秋の社会保障制度の改革に対する複数の闘争や、2003年春の公務員の年金制度改革に対する闘争と同等の重要性をもっている。現在の動員者に賃労働者はおらず(わずかの行動日と2月7日、3月7日、3月18日や3月28日に行なわれたデモの参加者を除き)、逆に未だ労働の世界へ足を踏み入れていない社会層である学生の若者が動員しているという点からすれば、この断定は逆説的に見えるかもしれない。しかしながら、この事実は全くこの運動のプロレタリアート的本質について再び問題にはしなかった。その理由を以下に述べる: 

  • 近年、資本主義経済の変化は更に有能で有資格者である労働人口を求め、大学生(未来の「技術者」(実際には有資格労働者)のための比較的短い訓練学科を提供することを請け負っている大学技術研究所を含む)の多くが卒業後、労働者階級の中に入るようになってきている(これはもはや典型的なブルー・カラー:産業労働者に限ることではなく、民間産業における事務員や中間管理職者、看護婦、小・中等教育の教師の大多数、及び公務員その他の職務等も含まれている)。
  • 同時に、学生たちの社会的出身が大幅に変わってきている。これは、労働者階級出身の学生数(上記の条件通り)の多大な増加によるものであり、学業を続ける為、或いは家族からの最低限の独立を実現する為に働くことを余儀なくされる現実を抱えた学生の増加(約50%)に繋がることを示している。
  • 学生たちの主な要求は、今日の学生たち(つまり明日の労働者)又は若い賃金生活者たちに対してのみでなく、労働者階級の全体に対し影響を与える経済的な攻撃の撤退(「初期雇用契約(CPE)」という新法案)にある。なぜなら、雇用後最初の2年間の内に即時そして理由無き解雇の可能性をもつという危険に身をさらした労働人口を職場に存在させることは、他の労働者にとってプレッシャーをかける以外に何物をももたらさないからである。 

運動のプロレタリアート的本質は、当初、総会の大多数が排他的に「学生の要求」(最近フランスに課され、ある学生達を罰することになる欧州の学位制度:LMDの取り下げの要求のように)を要求書から取り下げた時点から明らかであった。この決定は学生たちの大半数によって最初から表現された、労働者階級全体(総会では「賃金労働者」という表現を一般的に用いていた)からの連帯を求めることだけでなく、積極的に闘争に入ってくることを求める欲求に対応したものであった。

運動の核心である総会

2)運動の深いプロレタリアート的本質はその闘争の形態によってもはっきりと示され、特に最高総会という形態にて表される活気ある現実は、労組が平常呼びかける「総会」の風刺画からはかけ離れたものである。この分野において、各大学において明らかに大幅な不均一性があった。未だに労組の総会と様々な面で酷似している総会があった一方、関与性や成熟性が高い参加者による熱心な反省・熟考の過程を実現する生きた場としての総会が存在した。しかしながらこの不均一性にも関らず、初期の数日間の後に、「ある課題について投票するか否かについての投票」といった堂々巡りの問題(例えば総会における大学外の人間の存在を認めるかどうか、彼らに発言権を与えるべきかどうか等)が多くの学生たちを会から離れる結果に導いてしまっただけではなく、重要な決議が学生労組や政治団体によって可決されるに至るという事態を引き起こしたりしたにも関わらず、これらの障害を乗り超えることができた総会が数多くあったという事実は注目すべきことである。

運動の初期2週間にわたる主な傾向は、総会に参加する学生数及び彼らの諸討論への積極的参加のますますの増加であり、それに比例した労組員と政治団体らの介入の割合の減少である。総会が自らの活動を次第に自主管理してきていることは、討論会で議論を組織している学生たちが、労組と政治団体に関連した学生たちから、運動の開始以前には何らの実際的活動経験や関連をもたなかった個人に対してますます向かっていったことから明確に表された。同様に、最も良く組織された総会は毎日の議論を組織・運営するチーム(通常3人)を日々交代していた一方、最も活気に欠きあまり良く組織されていない総会は常に同じチームに「指導」され、さらに前者に比べはるかに人員過剰であった。又、後者の総会の形態が前者の総会の形態に取り替えられるという傾向があった点に注目することが重要である。そして、この展開において最も重要な点の一つは、ある一つの大学の学生代表者が他の大学の総会に参加したことにある。これは異なった総会間における力と連帯感とを高めることに加え、ためらいがちな総会が最前線にいる総会から示唆を得ることを可能にした[1]。これも、意識と理解力の高いレヴェルに至った階級運動における労働者総会の原動力がもつ重要な特徴である。

3) この期間における大学内の総会のプロレタリアート的本質の主な表現のひとつとして、総会が他大学の学生のみならず学生ではない人たちにとっても直ちに開かれていったという事実が挙げられる。当初より、総会は大学内の人々(教師、技術者および事務員)に参加を呼びかけ運動に加わるよう声をかけた上に、更にそれだけには止まらなかった。とりわけ賃金生活者に対しての運動の広がりを促す介入を行なう度に、総会は特に一般の労働者及び定年退職者、闘争中の大学生及び高校生の両親や祖父母を、概して暖かく歓迎したのである。

総会を直接的な関係のある部門や会社に雇用されていない人たちに対し、観察者としてのみならず積極的な参加者としても開くことは、労働者階級の運動の極めて重要な特徴である。投票が必要な決議がある場合、総会が基づくある生産的又は地域的な単位に属する人たちのみが決議に参加できるような形式をとることが必要になり得ることは明らかである。そうなると、ブルジョワジーの政治のプロや彼らの手配たちが総会を「詰める」ことを妨ぐことができる。このため多くの学生総会は、挙手による手の数ではなく、学生証(大学ごとに異なる)を数える方法を用いた。総会の公開性は闘争にとって、そして労働階級にとって決定的な問題である。「通常」時、すなわち激しい闘争の期間外において、労働者にもっとも影響を与える者は、資本階級の組織会員(労組、又は「左翼」諸党)である。総会を閉じたものにしておくことは、彼らにとって労働者を管理し続け、闘争の動力を妨害し、ブルジョワジーの利害に仕えるためのすばらしい方法である。総会を公開することは、階級の最も進んだ分子、特に革命的組織にとって、闘争中の労働者の意識発展へ貢献することを可能にさせ、それは階級闘争の歴史上においてプロレタリアの方向性を守る潮流と資本家の秩序を守る潮流との分け目を常に設けてきたのである。

その例は多数挙げられるが、中でも最も重要な例の一つとして1918年12月中旬のベルリンにおける労働者評議会の総会が挙げられる。これは、その前月、11月の反戦兵士たちと労働者とによる反乱がドイツのブルジョワジーに戦争をやめさせるに至らせたのみか、カイザー(皇帝)をも退位させ、政治権力を社会民主党に譲った後に実現された。採用された代表者の選任方法に加え、労働者階級における意識の未熟性のために、この総会はロシアの革命的な評議会:ソヴィエトの代表者を禁じ、さらに「労働者ではない」ことを名目に革命運動の二大偉業者であるローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトの参加を禁じた社民党に支配されてしまった。この総会は遂にはその全権力を社民党が先導する政府に丸ごと渡し、この政府がその翌月にローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトを暗殺することになる。もう一つ関連する例として挙げられるのが、国際労働者協会(IWA:第一インター)の総会である。1866年の総会において、ブロンズ彫金工のトランとその他のフランスの指導者は、「総会で投票権をもつのは労働者のみである」という規則 -カール・マルクスとその近親の同志たちを主に狙った規則- を押し付けようとした。1871年のパリ・コミューン当時、マルクスがその規則の熱烈な擁護者であった一方、トランはヴェルサイユ市にて3万人もの労働者の虐殺を伴うコミューンの潰滅の責任を負う組織に入っていたのである。

現在のの学生運動に関して、総会を公開するためにもっとも抵抗を示したのは学生労組、UNEF:全仏学生連盟(社民党の指揮下)のメンバーであり、UNEFの影響が最小であった時にこそ総会がより公開性をもっていたという事実は重要である。 

1995年や2003年と違い、ブルジョワジーはこの運動によって驚かされた

4)フランスにおける階級闘争の現代のエピソードにおいて最も重要な特徴の一つは、この闘争がブルジョワジーの全部門とその政治的な機構(右翼、左翼党および労組組織)をほとんど完全に奇襲したということである。これはこの運動の活力と深さを示すと同時に、今日のフランスにおける支配階級の非常に脆い立場を理解させてくれる特徴である。この点において、現在の運動と1995年秋および2003年春の大規模の諸闘争とをはっきり区別しないといけない。

1995年の社会保障制度の改革を掲げた「ジュペ計画」に反対する労働者の動員は、現実には、政府と労組との間において為された非常に巧妙な手分けのもとに指揮・組織化されたものであった。当時の首相アラン・ジュペは彼特有の傲慢さでもって、社会保障に対する攻撃(公・民両部門の従業員に影響を与えるもの)に、SNCF(フランス国鉄)の労働者およびその他国営運送会社の労働者の年金に対する特定な攻撃を加えた。よって、これらの労働者たちが動員の先頭になった。クリスマスの数日前、ストライキが数週間に至った頃、労組らのアピールの後、政府は自らの特別年金制度の計画を取り下げ、その報いに該当する部門を職務に復帰させた。

この最も直接的な影響を受けた部門の労働者の職務復帰は、当然のことながら、他の全部門における運動の終結を意味した。彼らとしては、運動の拡大を呼びかけたり定期的な総会を開くことによって、労組のほとんど(CFDTを除く)がかなり戦闘的に行動した。その運動の規模にもかかわらず、労働者の動員は勝利には終わらず、社会保障制度改革を掲げるジュペ計画の取り下げという基本的要求を呑ませることができなかったため、根本的には敗北に終わった。しかしながら、政府による特別年金制度の計画の取り下げを持って、労組は敗北を勝利に粉飾させることができ、90年代における労働者闘争に対する度々の妨害工作で悪名高い彼らの評判を改装することになった。

2003年における公共部門の動員は、退職年金受給資格を得るための最低勤務年数を増加させるという決定に対する反応であった。この政策は国家公務員の全員を対象にしたが、この年金に対する攻撃に加え、いわゆる「地方分権化」に乗じた更なる攻撃で苦しんだのは、教育機関に携わる教師たち及びその他の従業員たちであった。後者の政策は一般に教師たちをターゲットに据えたものではなかったが、同僚に対する攻撃とそれに反対する動員に、彼らは特に動かされた。さらに、労働者階級の複数の部門(職業訓練に費やす年月のため、23歳或いはさらには25歳より前に労働を開始できない労働者達を指す)にとって最低勤務年数を40年間あるいはそれ以上に増やすことは、法律上60歳とされた定年年齢をはるかに超えて、より過酷で疲労の激しい状況で働き続けることを余儀なくされるということを意味していた。

ジャン=ピエール・ラファラン首相は、ジュペ首相とは又違うスタイルで、「支配するのは街頭ではない」と宣言し、同様に強気な発言をしてみせた。結局、教育部門の労働者の闘争性とその不屈の精神(6週間にわたるストライキを決行したものもあった)にも関わらず、又、68年5月以来最大のデモの一つであったにも関らず、この運動は政府を押し返すことができなかった。政府は、動員が弱くなり始めた時に、教育機関の非教員の職員達に影響を及ぼす特定な政策を撤回することを決定したにすぎず、その魂胆は様々な職業のグループ同士の団結を破り、それによって動員の動力を蝕むことにあった。学校職員の必然的な職務復帰は運動の終結を意味し、1995年と同様に、年金に対する政府の主な攻撃を押し返すことは出来なかった。しかし、労組が1995年の出来事を「勝利」として示すことによって全ての労働者上への影響力を強めることが可能であったのに対し、2003年の職務復帰は主に敗北として感じられた(特にほぼ6週間分の賃金を失った教師たちのうち大多数にとって)。これは労組に対する労働者の信頼に対し多大な影響を及ぼした。

フランス右翼の政治的弱点

5.1995年と2003年における労働者階級に対する攻撃の主な特徴を以下の様にまとめることができる。

  • 両者ともに、第二次世界大戦後に築かれた福祉国家の機構、特に社会保障制度や年金制度の破壊を続けることが、世界的な経済危機や公的金融の赤字と直面した資本主義にとって不可避な必然であるという事実に対応したものである。
  • 両者ともに、様々な資本主義の機関、特に右翼政府と労組組織によって慎重に用意された。その目的は労働者階級を経済的のみならず政治的且つ観念的なレヴェルにおいても敗北に追いやることにある。
  • 両者ともに、特定な部門に対する攻撃を積み重ね、より一般化した動員を引き起こし、そしてその後に運動全体を和らげるために元の部門に対するある特殊な攻撃を「取り下げる」方法を使った。
  • しかしながら、ブルジョワジーによる攻撃の政治的側面は、その攻撃の方法における類似にも関わらず、両者共が同じケースに当てはまるものではなかった。1995年において動員の結果が労組の功績になる「勝利」として発表されなければならなかった一方、2003年は、その敗北の明白な事実が士気をくじく要因であり、労組に対する信用の損失にもなった。

現在の動員に関して、ある数の事実が明らかである。

  • CPE法はフランス経済にとって不可欠な措置では全くなかった。これは雇用者と右翼議員の大多数が不賛成であったという事実により明白に示された。政権のメンバーの大多数も同じく、特に直接に関与した雇用大臣(ジェラール・ラルシェ)及び「社会団結」大臣(ジャン=ルイ・ボルロー)に関しても同様であった。
  • 資本家の立場から言えばこの措置が不可欠ではなという事実と共に、CPE法を通過させる用意はほとんど無に等しかった。1995年と2003年の攻撃が労組との「討論」によって事前に準備されたことに比べ(両年ともに、その準備は周到であり、社民党と連携のある最も主力な組合の一つであるCFDT:民主労働同盟が政府の案を支援したほどである)、CPE法は「機会均等法」と命名された法案の一部に含められた一連の諸処の措置の内の一つであり、事前に労組との話し合いも持たず、急いで国会に提出された。この法案のもっともいやらしい面の一つは、雇用不安に対して闘う法案であるかのように主張する一方で、26歳未満の若年層労働者の不安定を制度化し、又2005年の秋に反乱を起こした「問題のある」郊外団地の若者にとって有益な法案であることを主張する一方で、その同じ若者たちに対し、例えば職業訓練という名目にかこつけて14歳以上の若者たちに労働を、15歳以上の若者たちに夜勤を課す等、数々の攻撃をしかけたという事実にある。

6.この政府がとる手段の挑発的な性格は、その乱暴な法案通過の試みによっても明らかにされた。議会投票なしでの適用を可能にする憲法の規定を用い、高校や大学の長期休暇中に決議したのである。しかしながら、ヴィルパン及びその政府は、この「賢明な操作」にしくじってしまった。学生たちの反応を回避するどころか、彼らは学生達を余計に怒らせることになり、この法案を抵抗する意志を固めることになった。1995年、ジュペ首相の挑発的な言動と横柄な態度とがストライキ行動を急進化させた時と同様である。しかしその当時は、ブルジョワジーが労働者の反応を予想し、対応することができるという自信をもっていたため、挑発は意図的であった。いわゆる「社会主義」諸国の崩壊をめぐり進行中の観念的なキャンペーン(それは確かに闘争を発展する可能性を減少させるに違いない)の重みに労働者階級が未だ苦しんでいるという状況において、労組に対する信頼性を一新するためにこれら諸処の事件を操作する事は可能であった。一方、今日においてヴィルパンは、この政策が学生のみならず労働者階級の大多数の怒りをも挑発することになろうとは予想だにしていなかった。2005年、ヴィルパンは何の支障も無く「新雇用契約」(CNE)法を議会で通過させることができた。この法律は、従業員数が20人以下の会社に、2年以内に雇用された労働者を、その年齢を問わず、又特定の理由も無しに解雇することを認めるものであった。CNE法の規定を公共と民間部門の会社の両方にまで適用し、ただし26歳未満の労働者に限り影響を及ばすこととなるCPE法は、その通過時には同様の受容がなされることと予想していたのである。それに引き続いた諸処の出来事は、メディアとブルジョワジーのあらゆる政派が政府が深刻な判断の間違いを起こしてしまったことを認めた為、政府が極めてもろい状況に追いやられたことを示した。ところが実際のところ、この非常な難局に立たされたのは政府だけでなく、ヴィルパンがとった手法を批判する全政党(両右翼、左翼)と労組にとっても、非常な当惑を引き起こす結果を招いたのである。さらに、ヴィルパンは自らこのアプローチをとったことに対し「後悔」していると発言し、ある程度までは自らの誤りを認めることになった。

政府、そしてとりわけその元首であるヴィルパンが明らかな間違いを犯したことについて議論の余地はない。左翼と労組たちの多数は、ヴィルパンを「自閉症患者」[2]、或いは「人民」の実際的な要求が理解できない「気高いお人」として形容している。彼の右翼の「友達」(特に、当然のことながら彼の第一のライバルであるニコラ・サルコジと親しい者たち)は、彼が一度も選挙を勝ち抜いて政権に就いたことがない点を指摘し(数年間にわたる下院議員(MP)や重要都市の市長[3]としての経験をもつサルコジと違って)、それ故に一般の投票者や自分の党内にも存在する庶民の気持ちを理解することができないと指摘している。又、ヴィルパンは詩や文学を好む故、一種の「芸術愛好家」に過ぎず、政治理解に関しては素人芸程度でしかないとも言われている。しかし、今回のこの攻撃を受ける以前から、ヴィルパンが受けていた批判の中で最も多かったのが、「社会的アクター」であり「中間団体」とも(メディア社会学者たちの用語を用いれば)形容される、労組たちとの相談に失敗したという批判であり、この批評は雇用者側からも同様のものであった。最も辛辣な批判が、労組のなかでも最も穏健であり、1995年と2003年における政府による攻撃を支援した労組・CFDTによってなされたのである。

こういった事情により、フランス右翼は世界一「愚劣」な右翼であるという評判に十分に応えたと言えよう。より一般的に言えば、フランスのブルジョワジーが、過去1981年や2002年と同様に、選挙上の「事故」を導いた政治的ゲームを今も変らずマスターできないという自身の無能さに対し、ある意味では再びそのツケを払っていることを示している。1981年の場合では、右翼が団結を欠いていたため、左翼が政府に入り、他の諸大国(特にイギリス、ドイツ、イタリアおよび米国)のブルジョワジーが社会状況に対してとった方針の流行に逆らった。2002年の場合では、左翼が(こちらも同じく団結を欠いていたため)大統領選挙の第二回(決戦)投票に至ることができず、ル・ペン(極右翼の指導者)とシラクとの決勝戦を迎えるに至った。両者のうちの「より少ない悪」の選択として左翼の全投票が移されたことにより、シラクは再当選を果たした。

このようにシラクの再当選は左翼のおかげであったため、左翼のチャンピオン、リオネル・ジョスパンを負かして当選した場合よりも、シラクには戦略的な政策転換を行なう余裕が少なかった。このシラク当選の正当性における縮小は、労働者階級に直面し攻撃するための当政府の弱みを説明する要素の一つである。とは言え、右翼(および広い意味でフランスのブルジョワジーの政治機構)のこの政治的弱点は、労働者の年金に対する猛攻撃の実行を止めさせるには至らなかった。とりわけ、この弱点が現在の運動の規模や、特に数10万人の若い未来労働者の動員、そして運動の動力およびこの真にプロレタリア的な闘争形態の採用について説明することはできない。

労働者闘争の復活および階級意識発達の表現

7.1968年における学生たちの動員および労働者の巨大なストライキ(900万人が数週間にわたるストライキを決行、ストライキ決行日の総数が1億5000日)も、ある程度はシャルル・ド・ゴール政権がその終焉に起こした間違いの結果として発生したものであった。学生たちに向けた当局の挑発的な態度(5月3日、100年ぶりにソルボンヌ大学に突入した警察が、強制撤去に反対しようとした学生たちの多数を逮捕・投獄)が、5月3日から5月10日にわたる1週間の巨大な学生動員の引き金となったのである。5月10日と11日の激しい弾圧の後、又それが世論に与えた影響の結果、政府はソルボンヌ大学の再開とその前週に逮捕された学生の釈放という、学生たちの二つの要求を呑むことを決定した。

5月13日の政府の撤退と労組に呼びかけられたデモの成功[4]とは、クレオンにおけるルノーやナントにおける南方航空事業(Sud Aviation:シュド・アビアシオン)といった大工場での数々の自発的就業拒否に力をつけた。主に若年労働者によって行われたこれらのストライキの理由のひとつとして、学生たちの決意が政府を後退させることに成功したのだとすれば、自分たち労働者も政府を後退させる事が可能に違いないということに気付いたということがある。しかも、労働者たちにはストライキという、学生たちよりはるかに強力なプレッシャーを与える武器がある、ということを認識させられたのである。クレオンとナントの労働者たちが示した例はたちまち飛び火し、労組をも追い越し拡大していった。完全に圧倒されることを恐れた労組は、その2日後に時流に乗らざるを得ずストライキを呼びかけ、このストライキは900万人労働者の参加を伴いその後数週間にわたり国の経済を麻痺させることとなった。既にこの時点において、これほどまでの規模の運動が純粋にある地方やある国内に限定される原因に基づいたものであると判断するのは極めて甘い近眼的な読みであっただろう。それは、国際的なレベルにおけるブルジョワジーと労働者階級との権力バランスにおける変化の結果、しかも労働者側にそのバランスが傾いたという重大な変化による結果であったことは間違いない[5]。翌年、この事実は1969年5月29日アルゼンチンにおける「コルドバゾ」[6]、1969年イタリアにおける「熱い秋」(這う5月とも呼ばれる)、さらにはバルト地域における大規模のストライキの数々、1970~71年の「ポーランドの冬」、及びその他のより目立たない多数の運動のすべてによって確認され、1968年5月が単なる線香花火のようなものではなく、40年間以上も続いた反革命からの、世界のプロレタリアの歴史的な復活であったことを表明したのである。

8.フランスにおける現在の運動を、ある特殊な状況(ヴィルパンの「間違い」といった)、又は単なる国内の要因に基づくものとして説明することはできない。実際のところ、これは2003年よりCCIが言い続けてきたもの、つまり国際的な労働者階級闘争の復活と階級における意識の発展という傾向の、見事な確証なのである:「フランスとオーストリアにおける2003年春の大規模の動員は、1989年来の階級闘争における転換期を意味する。これらは1968年以降の最も長い逆流期間後の、労働者の戦闘性回復の第一歩である」(インターナショナル・レヴュー 117号、「階級闘争報告」より)。「そのあらゆる困難にも関らず、この後退時は「階級闘争の終焉」を迎えたことを意味していたわけでは全くなかった。1990年代には、プロレタリアがその闘争性の無欠の蓄えを未だ保持していたことを示す数々の運動が散在した(1992年および1997年がその例として挙げられる)。しかしながら、これらの運動のうち、意識のレベルにおける実際的な転換を意味しているものは皆無であった。故に、より最近の運動の重要さは、フランスにおける1968年の運動が一夜にして成し遂げたもののインパクトと劇的効果に欠けてはいても、それが階級権力のバランスにおける転換期を構成する点にある。20032005年の諸闘争がもつ特徴は以下の通りである。

  • 世界的資本主義の心臓部にある国々における労働者階級の重要な諸部門が含まれた(2003年フランスと同様)。
  • より明白な政治的問題に専心した:特にフランス及びその他の国における闘争によって取り上げられた年金問題は、資本主義社会が我々あらゆる人間にもたらす未来の問題を提起している。
  • 過去の革命波以来初めて、労働者闘争の焦点としてのドイツの再出現が見られた。
  • 80年代の闘争時のいかなる時より、階級連帯の問題がさらに広く明白な形で取り上げられてきた。特に最近のドイツの運動においてそれは最も顕著である。
  • 政治的な明瞭さを求める新しい世代の出現と共に発生した。この新世代は、公然と政治化された分子の新たな到来と同時に、初めて闘争に突入した労働者の新たな層の中に現れてきた。いくつかの重要なデモで証明されたとおり、この新世代と「68年世代」、つまり60年代と70年代にかけ共産主義運動を再建した政治的少数派、および68年から89年間における階級闘争の豊富な経験を持つより広い労働者層との間に団結の基盤が造り上げられているところである」(インターナショナル・レヴュー122号I、 "Resolution on the international situation":「国際情勢に関する決議」、CCI第16回会議より)。

第16回会議において我々が強調したこれらの特徴が、現在のフランスの学生運動においても十分に明示された。

世代間のつながりは学生総会において自発的に形成された:この総会は年配の労働者たち(年金受給者を含む)に発言権を与えただけではなく、彼らの積極的な発言を激励し、彼らより若年の世代は彼ら自身の闘争経験についての介入を暖かく傾聴した[7]

彼らの目下の状況に限らず未来についての懸念がまさしくこの運動の核心にあり、この事実はCPE法に直面しなくてはならなくなるまでまだ数年間ある若者たち(多くの高校生にとって、それは5年以上も先の現実である)をも引き込むことになった。この未来に関する懸念は、多数の若者がデモに参加した2003年の年金問題時に既に浮上していた。これはすでに労働者階級における世代間の連帯の兆しであった。

現在の運動において、労働不安つまりは失業に反対する動員は、暗黙の、そして増え続ける学生と若年労働者にとっては明白な問題を提起する。それは未来の資本主義が社会にとってどのような未来をもたらすことになるのかという問題であり、その懸念は「私たちは子供たちにどういう社会を残すことになるのか」と自問する多くの年配の労働者たちによって表現された。

世代間における連帯だけではなく、労働者階級のそれぞれの部門間の連帯という問題が運動の肝心な論点になってきている。

  • 先頭にあり最も組織化された学生達は、難局に直面した同志たちを手助けするべく努力し、学生たち自身の間での連帯を築いた(総会が組織された方法と同様に、比較的消極的な学生たちに手を延べ動員を募ったこと等)。
  • 政府の攻撃が労働者階級の全部門に向けられているという事実を主張することにより、賃金労働者にアピールを行なった。
  • 行動日とデモへの参加を通してのみであり、闘争の広範化にはつながらなかったとは言え、労働者間において連帯感情が存在した。
  • 多くの学生たちが、雇用不安に最も脅かされているのが自分達ではなく(学位や卒業証書を有さない若者たちにとっての影響はさらに甚大である)、彼らの闘争は、最も恵まれていない若者たち、特に去年秋の暴動に参加した「問題のある郊外団地」出身の若者たちにとって、一層関係するものであるという認識をもった。

若い世代が闘争の松明を手に取る

9.現在の運動の主な特徴の一つは、この運動が若い世代によって指導されているという点にある。これは単なる偶然などではない。数年前からCCIは、新世代における目立たずとも深い熟考過程が進行していることを指摘してきた。それは特に若者たちが共産主義的な政治に引き付けられているという、もっと顕著な傾向によって表され、実際彼らのうちには既に私たちの仲間入りをした者もいる。

これはプロレタリア新世代のさらに広範な部門において進行している意識発展の単なる氷山の一角にすぎず、いつか巨大な社会闘争へと導くことになる一過程である。「階級の立場に近づいている少数派である「求める分子」の新世代は、未来の階級闘争において、空前の重要性をもつ役割を果たし、その闘争は、196889年間の諸闘争よりもにはるかに深くその政治的影響に直面することになるであろう。ゆっくりとでも、重要で徹底的な意識の発展を既に表しているこれらの分子は、階級のいたるところにおける大規模な意識の拡大にとって、主要な貢献をもたらすであろう」 ( インターナショナル・レヴュー113号、「CCI第15回会議における国際情勢についての決議」参考)。

フランスにおける現在の学生運動は、数年前に動き始めたその地下の過程の出現を表している。これは、1989年に発動された「共産主義の終焉」や「階級闘争の消滅」といった観念上のキャンペーンが、今や私たちの後ろに過ぎ去ったことを意味している。

1968年の世界的プロレタリアの歴史的再出現の後、我々はこう確証してきた:「今時のプロレタリアの状況は30年代の状況と大きく違ったものである。一方、ブルジョワジーのイデオロギーのあらゆる他の支柱と同様、過去にプロレタリアの意識を圧迫していた神秘化は、その一部において徐々に消耗されてきた。ナショナリズム、民主主義の幻影、反ファシズムなどは全て、過去半世紀にわたり集中的に用いられてきたが、それらは今やその過去おける重要性と同様の影響を持たない。他方、労働者たちの新世代は前身たちの敗北によって苦しんだ経験を有していない。今日、危機に直面したプロレタリアが、前世代の労働者と同じ経験を有していないとすれば、彼らの時と同じ意気沮喪によって玉砕させられることは、もはやないのである。

19681969年の危機の最初の兆しに対する反発以来、労働者階級がもたらしてきた偉大なる抵抗は、ブルジョワ階級がこの危機に対応しうるものとして唯一思いつく措置を今日押し付けることは不可能になったことを意味している。その措置とはつまり、新たな帝国主義的ホロコーストである。それが起こる前にはまず、ブルジョワジーは労働者階級を敗北させなければならない。しかし現在の見通しは帝国主義的な戦争ではなく、一般化した階級闘争である」(1976年1月CCI第1会議で採用されたCCIマニフェストより)。

13年後、私たちCCIの第8回会議では、その国際情勢報告書に以下の分析が補完された。「30年代から60年代における反革命により傷跡をつけられてきた世代は、世界プロレタリアがその傷と衝撃とを乗り越える力を見つける為に、これらを経験せず無傷な別の世代へと道を譲らなければならなかった。同様に、(但しこの比較は、68年世代とそれ以前の世代との間には歴史上の小休止があったのに対して、それに続いた者たちとの間には継続性があることを強調することにより、控えめに行なわなければならない)革命を起こすことになる世代は、その歴史上最大の反革命の後、世界プロレタリアに新たな展望を開く本質的・歴史的任務を果たした世代と、同一にはなり得ないだろう」。

数ヵ月後の、いわゆる「社会主義」諸国家の崩壊及びそれが引き起こした労働者階級の大退却は、この予測をさらに具体化する必要をもたらした。あらゆる差異を考慮しても、現在の階級闘争の復活は、40年間の反革命の後の1968年の歴史的復活とに比較しうるものである。この敗北と、何よりもブルジョワジーによる神秘化の絶大なプレッシャーとに苦しんだ諸世代は、階級間対立におけるこの新たなエピソードの最前線にいることはできなかった。同様に、これら観念的な反共運動・キャンペーンが最高潮に達していた折まだ小学校にいて、その直接的な影響を受けなかった今日の世代は、今、闘争のたいまつを引き継ぐ第1人者になる。

1968年時よりはるかに深い、労働者階級の一部であるという意識

10.今日のフランスにおける学生動員と1968年5月の出来事とを比較することにより、現在の運動の最も重要な特徴を引き出すことができる。今日闘争中の学生の多数は「我々の闘争は68年のものとは違う」と断固として主張している。それは確かに真実ではあるが、その理由を理解することが重要である。

第一の相違点であり同時に最も基本的である点は、68年5月の運動が世界資本主義経済の公然な危機のまさに始まりに起こったという事実に対し、一方今日ではその危機は、1974年の急激な悪化以後ほぼ40年来になるという点である。1967年以降、数々の国々において失業の増加が見られ始め、特にそれはフランスやドイツにおいて学生間に発生し始めた動揺や労働者階級の闘争突入の根源であった。とはいえ、今日フランスにおける失業者数は68年5月の数の10倍増であり、この膨大な失業(公式な統計によると現役人口の10%に至る)は既に過去数10年来続いてきたものである。これにより多種多様な相違が発生している。

この危機の初めの兆候が1968年の学生たちの怒りのきっかけの一つであったとしても、当時の状況は今日とは全く比べ物にならない。当時は、卒業後における失業や就労不安という脅威が存在していなかった。当時の大学生たちの主な懸念は、大学卒の前世代と同じ社会的地位を得ることが不可能であるという事にあった。実際のところ1968年世代は、かつてもっと名声のあった管理職のプロレタリア化にやや容赦のない形で直面した初の世代であり、これは当時の社会学者にとっても大いに研究される的となった。同じ現象はその数年前、大学生の数の甚だしい増加に続き、公然とした危機が未だに現れていない時点から既に始まっていた。

この学生人口の増加は、経済の要求の結果であっただけではなく、第2次世界大戦の窮乏を耐え抜き、子供たちが自分たちよりもより良い社会的・経済的な状況にたどり着けることを望んだ両親たちの希望と要求の結果でもあった。この学生人口の「マス化」は、特に権威主義の色濃い雰囲気の中、選ばれた小人数にのみ門を開いていた時代から引き継がれた構造と慣例をもつ大学において固執された結果、数年間にわたり一つの不満感を高めることになった。学生世界において、特に1964年以降アメリカで表現された不和感のもうひとつの要素に、ヴェトナム戦争があった。この戦争は西洋民主主義の「文明化」的役割の神話そのものに傷をつけ、多くの学生・若者たちをチェ・ゲバラ信奉者やマオイスト(毛沢東主義)といった形態の第3世界主義思想へと導いた。

これらの思想は、ヘルベルト・マルクーゼのような自称・革命的思想家たちによりかきたてられたものであった。彼らは「労働者階級の統合」や、被抑圧少数派(アフリカ系黒人、女性等)や第3世界の農民たち、又はまさしく...学生たち自身による「新たなる革命的部隊」の登場を予告した。当時の学生たちの多くは、チェ・ゲバラやホー・チ・ミン、毛沢東といった人物を革命家と見なしてしたように、自分たちも「革命家」だと見なした。最後に、当時の状況の構成要素の一つに、あらゆる種類の批判の対象になった「旧世代」と「新世代」間にあった大きな溝が挙げられる。具体的には、旧世代は第2次世界大戦がもたらした窮乏やさらには飢饉といった状況から逃け出す為に必死に働いてきたことから、その為に、物質的充足にしか関心が無かったという非難を受けた。よって、「消費者社会」の幻想と「絶対に働くまい」といったスローガンは成功を収めた。反革命の最強の力に苦しんだ世代の所産である1960年の若者たちは、自分たちより前の世代が体制順応的であることや資本主義の規範に服従していることを非難した。一方多くの両親たちにとって、子供たちにより良い人生を与える為に自分たちが負った犠牲が、自らの子供たちにそれほどまでに軽蔑されるということを理解したり受け入れたりすることは不可能であった。

今日の世界は1968年と大きく異なり、今日と1960年代の学生・若者たちとの間には共通点が少ない:

  • 今日の学生たちの多くを影響しているのは、単なる将来の地位の劣化に対する懸念だけではない。プロレタリアとして、彼らは学費の支払いのために既に働くことを余儀なくされており、又教育課程終了後に彼らの前に栄えある社会的特権が待ち受けているといった幻想もほとんどもってはいない。彼らは特に卒業証書が最も悲劇的な形を有するプロレタリアの状況に加わる「権利」を与えてくれるに過ぎないことを知っている。すなわち、失業か就労不安、返答されることのない数100枚の履歴書の送付、低賃金の見習い期間や短期契約で扱き使われた後に、僅かながらもより安定した仕事を求めての派遣会社での長蛇の列、そして最後には彼らの専門や希望にほぼ関連のない仕事への就労、といった状況である。
  • この点において、今日学生たちが労働者に対して感じる連帯感は、お互いが被搾取者の世界という同じ世界に属し、搾取者という同じ敵に対して闘争しているということに気がついたことに基づいたものである。この認識は1968年の学生運動が労働者階級に対して表した本質的にプチ・ブルジョワ的(小市民階級的)な態度とは大幅に異なるものである。当時は、マルクス主義の古典や或いは全くマルキストとは異なるスターリン主義者や隠れスターリン主義者の作家たちの作品の誤読により培われたヒーロー、すなわち神話的な肉体労働者にある種魅せられていたことは事実としても、依然労働者たちに対しての態度は往々にして謙遜により特徴づけられていた。1968年以降、知識人たちの間で流行した「労働者と共に」あるために工場へ働きに行くとような現象は、今日返り咲くことにはならない。
  • 「消費社会」のようなテーマが、例え少数の時代遅れのアナーキストもどき達に未だに振りかざされていようと、今日の学生たちの中に響くことが無いのはこのためである。「絶対に働くまい」というスローガンにしても同様で、それはもはや微塵もラディカルな計画などではなく、今や恐ろしく苦痛な脅しに似たものとなったのである。

12.故に、逆説的にも「ラディカルな」そして「革命的な」テーマが、今日の学生たちの討論および心配の中にはあまり存在していないのである。1968年の学生たちがしばしば革命問題や労働者評議会などについて議論するために大学を不変的なフォーラムの場に変えたことに対し、今日行われている討論の多くは、CPE法とその影響や就労不安、又は闘争の方法(封鎖、総会、連携、デモなど)といったはるかに「地に足のついた」現実的問題をその中心としている。しかし、CPE法の撤退要求をめぐる学生たちの分極化は、1968年の野望より一見ずっと「ラディカル」さにかけて引けを取っていることを示していながらも、それは現行の運動が38年前の運動よりも深みに欠けているという意味にならない。事実はその逆である。1968年の学生たち(実際のところは運動の「前線」を形成した少数派)の「革命的な」没頭は確かに誠実なものではあったが、それは第3世界主義(ゲバラ主義、毛沢東主義など)又は反ファシズムに強く特徴付けられたもの、もしくはせいぜい無政府主義(ダニエル・コーン・バンディにならった)、或いは状況主義に影響されたものであった。学生たちの革命観はかなりプチ・ブルジョワ的なロマン主義、又はスターリン主義の単なる過激な付録にしかすぎなかったのである。

しかし「革命的な」思想を生み出している諸潮流には、それがブルジョワ的或いはプチ・ブルジョワ的であろうとも、労働者階級が革命へ向かうことを可能にする具体的な過程をいくらかでも把握したものは一つも存在しなかった。まして、反革命期の終末の最初の表現になった巨大な労働者ストライキの重要性さえも把握してはいなかった程である[8]。今日、現在の運動において「革命的な」没頭はまだ際立って存在しているわけではないにしろ、その確固たる階級的本質と、動員が行われている領域、即ち資本主義的搾取の要求や条件(失業、労働不安、上司や経営側の専断的行為など)に対し屈服するばかりの未来を拒否することは、現在の闘士たちのうちの多数が確かに資本主義打倒の必要性を認識することになる原動力の一部である。

この意識の発展は、1968年に流行したような様々な妄想に基づいたものではない。当時の妄想は、運動の指導者たちの多くをブルジョワジーの正式な政治機関の中で再利用することを可能にしたり(ベルナール・クシュネルやジョシュカ・フィッシャーは大臣に、アンリ・ヴェべールは議員に、ダニエル・コーン・バンディはヨーロッパ議会で緑の党代表、セルジュ・ジュリは新聞編集長に等々)、又他の者たちを悲劇的な政治テロの袋小路へと導いたりしてしまった(イタリアの「赤い旅団」、ドイツの「赤軍派」やフランスの「直接行動」)。この当時の妄想とは全く異なり、今日の意識の発展は、プロレタリア革命を必要とし可能とする基本的条件の理解に基づいている。つまり、克服不可能な世界的資本主義の経済危機、この制度の歴史的な行き詰まり、そしてプロレタリアの防衛的闘争を最終的な資本主義打倒に向けた数々の準備の一つとしてみなすことの必要性等の理解である。1968年の「革命的」没頭の急速な発展は、大部分において彼らの浅薄さと理論・政治的な一貫性の欠如から来ており、彼らの基本的にプチ・ブルジョワ的な本質に対応していた。労働者の闘争がさらに急進化する過程は、例えそれが一時的に驚異的な加速を伴うことがあっても、はるかに長期的な現象であり、それはまさに比較的にならないほどずっと深遠なものだからである。マルクスが述べたように、「急進的であることは物事の根底に迫るということ」であり、このようなアプローチには必ず時間がかかることになり、過去の諸処の闘争経験から教訓を引き出すことに基づくであろう。

13.実際、運動の深遠さは運動やそれが生み出した討論の「急進的」本質によって計る事はできない。この深遠さは、CPE法の撤回要求により提起された根本的な問題から引き出された。即ちそれは危機期の資本主義が若い世代に提供している、この制度の歴史的な破綻を意味する不安定と失業との未来という問題である。さらに大部分において運動のもつ深遠さは闘争の方法や組織の形態によって示され、それは要点2と3において前述した通りである。つまり、活気に満ち、公開され、統制のとれた総会である。そしてこの総会は反省・考察および集団的統制に対する本物の関心をもち、さらには委員会、ストライキ評議会および総会に責任を負う代表団の任命を行い、労働階級のあらゆる部門に闘争を拡大する意志を通して示されるのである。「フランスに於ける内乱」でマルクスは、パリ・コミューンにおける真にプロレタリア的な本質は、コミューンが採用した経済的な措置(子供の夜勤廃止や家賃の一時支払停止)によってではなく、むしろそれを採用した組織の手段と方法とによって示されたと述べた。マルクスの分析は現在の状況にも大変よく応用できる。労働者階級が遂行する闘争の最も重要な面は、ある瞬間に設けられ、運動がさらに進んだ局面において捨てられることになるような偶発的な目的にではなく、闘争を真に引き受ける力量とこれを達成する為に採用する手法とにある。未来に向けて動く階級の力量の最高の保証となるのは、まさしくこれら闘争の手段と方法なのである。これは、1905年のロシア革命から教訓を引き出した「大衆ストライキ」においてローザ・ルクセンブルクが述べた要点のひとつである。現代の運動が当然のことながら1905年の政治的段階とは全く異なるレヴェルにあるという事実にもかかわらず、その採用した手段は、萌芽的な形ではありながらも、特に1980年8月のポーランドで表現されたような大衆ストライキの手段そのものであった。

14.この学生運動の深遠さは、数回に渡りブルジョワジーによって仕掛けられた、「暴力的破壊者」の操作・使用を含めた暴力の罠に陥ることから免れることを可能にしたその力量によっても表現された。「破壊者」はソルボンヌ大学の占拠事、3月16日のデモの終わり、3月18日のデモ終結時の警察の突撃の際、更には3月23日のデモにおけるデモ参加者に対しての暴力等によってその姿を顕にした。特にアナーキスト的観念に影響された学生たちのごく少数派が警察との対決に引っ張られたことがあっても、学生たちの大多数は運動が弾圧権力との繰り返しの対決へと引きずり込まれないようにする必要性を認識していたのだ。この点において今日の学生運動は1968年の学生運動に比べ、はるかに成熟したものであることがを示された。1968年の5月3日~10日間の、CRS(フランス共和国保安機動隊)やバリケードとの対決という暴力は、5月10~11日の夜の弾圧と政府の言い逃れとに続き、労働者階級の巨大なストライキ突入へと導く扉を開いた運動の要素の一部となった。しかしそれ以降、バリケードと暴力とは、とりわけ大多数の人々や特に労働者階級の人々から学生が得た多大な共感をくつがえし、政府や労組に再び状況を制御することを可能にさせる要素となってしまった。

左翼の諸党や労組にとっては、革命の必要性を語る者たちと車に放火したりCRSとの対決に行き続けたりする者たちとの間を「=」の印で結ぶことが容易くなっていった。実際、多くの場合においてそれらが同じ人たちであったという事実は更に事を容易にした。自らを「革命家」と見なした学生たちにとって、68年5月の運動は既に革命そのものであり、日々彼らが作り上げたバリケードは1848年やコミューンの子孫と見なされた。今日学生達は、運動の一般的な展望に問いを投げかけ、革命の必要性の問題を提起する時でも、運動の力は警察との衝突の中にあるのではないということをよく分かっている。事実、革命についての問題提起、つまり資本主義転覆の為の闘争におけるプロレタリアの階級暴力の問題についての考察からは未だほど遠い所にあるとしても、運動はこの問題に直面することを余儀なくされ、プロレタリアの本質と闘争との気迫でもって応えることができるようになった。プロレタリア運動はその初まりより搾取階級の極端な暴力と対決してきた。自らの利益を擁護しようとする時の抑圧、帝国主義的戦争、そして日々の搾取といった数々の暴力である。搾取階級と違い、共産主義を担う階級は暴力を担う階級ではない。そしてその階級は、暴力の使用を余儀なくさせられたとしても、暴力を自らのものとしてそれに従うことはない。特に、資本主義の転覆のために使われなければならない暴力は重大な決意によって用いられなければならず、そのためその暴力は必然的に意識的で組織化された暴力であり、それは搾取に対する様々な闘争を通し得られる意識や組織の発展の全ての過程によって先行されなければならない。よって現在の学生動員は、特にその自己組織の能力と、暴力の問題を含んだ直面する諸処の問題についての討論・考察の能力とにおいて、1968年5月のバリケードよりも革命、すなわちブルジョワ階級秩序の転覆へと向けたより明確な一歩を踏み出したことを示している。

15.2006年春の学生運動と2005年秋の郊外における暴動との差異を示す本質的な点の一つが、まさにこの暴力の問題である。これら2つの運動には共通の発端があったことは明らかである。それは労働者階級の子供たちに失業や不安定の未来を提供するのみである、資本主義的生産様式の克服不可能な危機である。しかしながら、基本的にはこの状況に対する完全な絶望の表現であった郊外における暴動を、階級闘争の形態の一つとして見なすことは全くもって不可能ある。特に、プロレタリア運動の不可欠な成分である連帯、組織、闘争を集団的且つ意識的に管理する試みは、これらの暴動において全く存在しなかった。これらの絶望した若者たちは、彼らが火をつけた車の所有者に対していかなる連帯ももってはいなかった。放火された車の所有者が失業や就労不安の犠牲者であろうとも、その行為にはいかなる連帯の感情も存在しなかったのである。暴徒達が示した意識性はかなり低く、彼らの暴力と破壊とは盲目的な方法でしばしばゲームの様に繰り広げられた。組織や集団的な行動に関しては、仲間内で最も暴力的なメンバーであるということから権威を得、誰が一番多く車に放火できるか競争した、組長に指揮された街のギャングの形態がとられていた。実際に、2005年10月と11月の若い暴徒たちのアプローチは警察のあらゆる種類の操作のいいカモにされただけではなく、資本主義社会の分解の効果がプロレタリア闘争や組織の発展にとってどれほどの妨害になり得るかを我々に示唆することとなった。

「問題のある郊外団地地帯」の若者たちの説得 

16.現在の運動中、若いストリート・ギャングのメンバーの集団はデモをダシに再三街の中心部に繰り出し、彼らの大好きなスポーツに勤しんだ。そのスポーツとはつまり、警官とと闘ったり商店の窓を割ったりすることで、それは海外の各メディアが大喜びで飛びつき、2005年末に暴動のショック・ホラー映像を新聞の第1面及びテレビにて報道したおかげで既に周知の通りである。これらの暴力の映像が、ある期間においてフランスの国外のプロレタリアに報道された唯一の映像であったことは明らかである。これらの映像はフランスで実際に何が起こっているかを明らかに示さないよう報道管制を強化し、世界の労働者階級からその意識の発展を助長する資料を取り上げるための大変優れた方法であった。しかし、このギャングによる暴力は他国のプロレタリアのみに対して使われたものではなかった。フランス国内においても、学生運動を昨秋の暴力の一種の「リメーク」として発表するのに使われたのである。これは流石に大した成功を収めることはなく誰も鵜呑みにはしなかった為、次にサルコジ内相は素早く言葉遣いを変えて、学生たちと「ゴロツキども」との間には明らかな差異があると声明した。そしてその後、できるだけ労働者や大学生、高校生たちがデモに参加しないように暴力を最大権に煽り立て、それは3月18日のデモの際にはとりわけ顕著であった。にも関らず、これらデモの参加者数の異例なレベルは、この操作が効果をあげなかったことを示した。3月23日、最終的に警察に認められた「破壊者」たちは、デモ参加者自身に対し理由無しに殴りかかったり盗難を働くという襲撃をしかけたのである。

学生たちの多くはこれらの攻撃によって士気をくじかれた。「CRSに殴られる時は反撃したくなる一方、私たちが闘っているのは彼らのためでもある郊外出身の子供たちに殴られるとなると、本当に意気消沈してしまう」。それでも学生たちは再び自らの成熟性と意識の高さとを示した。3月23日のデモの際「破壊者」の若者たちに殴りかかり警察列まで押しやったりした労組役員たちとは違って、学生たちは「破壊者」に対する暴力的な行動を組織せずに、恵まれない環境の若者たちと話し合う任務を負った代表者を数々の場所で任命した。これは、大学生や高校生たちの闘争が大規模の失業と社会的排除との絶望に陥った全ての若者たちのための闘争でもあるということを説明するためであった。学生たちの多数は、ある直感的な方法により、労働者運動の歴史を知らずとも、「労働者階級の中に暴力なし」という経験から生まれた肝心な教訓を実行に移した。階級の全体的な利害に反する行動に引きずり込まれそうなプロレタリアの部分に直面した時、これらの部分がブルジョア国家の単なる従者(例えばストライキ破りの特攻隊)ではない限り、説得と意識へのアピールとが彼らに対する行動の基本的な手段となるのである。

17.現運動の高い成熟度の理由の一つとして、特に暴力の問題における若い女性たちの運動への多大な参加がある。一般的に、この年齢における若い女性たちは同年代の男性の同士たちよりも成熟しているというのは周知のことである。さらに、暴力の問題に関して、概して女性たちは男性たちよりその領域に引きずり込まれないことが明白である。1968年には女子学生たちも運動に参加したが、いったんバリケードがその主な象徴になると、彼女達に与えられた役割は、バリケード上に立ちマスクをかぶった「英雄たち」を応援し、負傷者たちにとっての看護婦と化し、CRSとの数々の衝突の間に若い男性たちが回復できるようサンドウィッチを運ぶといったものであった。今日の状況は当時と全く異なっている。大学の門前のピケット列には女子学生が多く、彼女たちの態度は運動がピケットを影響した意味を体現していた。つまり、ピケットは授業に行きたい学生たちに対する威嚇の手段ではなく、説明、討論および説得の手段であったのである。総会や様々な委員会において、一般的に女性たちは男性たちほど「声高」ではなく、又彼らほど政治的組織に従事していないとはいえ、総会や委員会の組織、規律および効果において、又集団的思考の能力においても、要の成分であった。プロレタリア闘争の歴史はこれまでに、運動の深遠さは女性労働者の参加の度合いによってある程度まで計ることができるということを示してきた。「通常」時においても、労働者階級の女性たちは男性たちよりもさらに重い抑圧にさらされがちなため、概して男性よりも社会運動に参加する数が少ない。プロレタリアの層の内最も抑圧された層が闘争や階級において起こっている一般的な考察へと身を投じることになるのは、これらの運動が大いなる深遠さに達成した時のみである。現運動における若い女性たちの高い参加率と、運動の中で彼女たちが果たしている肝心な役割とは、この運動の確かなプロレタリア的本質だけでなく、その深遠さの更なる明示である。

18.このように、フランスにおける現在の学生運動は、ここ3年間来の世界のプロレタリアの新たな活力と、拡大しつつある階級意識との重要な表現である。ブルジョワジーは明らかにこの運動の将来的な影響を制限するようあらゆる手段を尽くすであろう。もしそれが可能であれば、彼らは2003年の敗北よりフランス労働者階級を影響してきた無力感を維持するために、運動の要求を拒み続けていくであろう。いずれにしても、運動の活力を弱らせたり参加者の士気をくじいたりすることや、労組や左翼党によって運動を統合することによって、彼らは労働者階級が意味深い教訓を引き出すことを避けるようにあらゆる手立てを尽くすであろう。しかし、ブルジョワジーがどのような操作をしようとも、何万人もの未来労働者たちにより繰り広げられた数週間に及ぶ闘争から得られたすべての経験、その政治的覚醒、発展する意識とを抑圧することは不可能である。これはプロレタリアの未来の闘争における貴重な宝の山になり、共産主義革命への道へと辿り着く肝心な要素である。現在の経験から最大の得を得て、それを未来の闘争の為に使えるようにこの運動に完全に参加することは革命家の務めなのである。

ICC, 3rd April 2006

2006年4月3日 CCIより



[1]闘争が可能な限りの力と統一とをもつ為に、学生たちはそれぞれ異なる総会の代表者たちの「全国調整」を構成する必要を感じるようになった。この動き自体はまさに正しいものであった。ただし、それは代表者の多くが学生界に存在する諸処のブルジョワ的政治組織のメンバー(LCR:トロツキー革命的共産主義者同盟など)であったという限りにおいて、毎週の調整会議は、しばしばこれらの組織を動かす政治家たちの操作の為の劇場と化してしまった。彼らは、現時点までは未だ成功に至ったことがないものの、自らの政治的道具になる「調整機関」を形成しようとした。今までにも我々の出版物でよく述べてきた通り(特に1987年イタリアのストライキ波や1988年フランスの病院ストライキ等)、あらゆる拡大した闘争にとって必要な中央集権化は、その根底すなわち総会において高度の注意・警戒に基づいた場合にのみ、運動の発展にとって実際的な貢献をもたらすことができる。なお、LCRなどの組織がメディアを前にこの学生運動を自らの「宣伝の代弁者」として提供しようとしたことについても述べておくべきであろう。現運動においてメディアのりの良い「リーダー」が存在していないという事実は、弱点を示す指標ではなく、その逆に運動の真の深遠さを表現している。

[2] テレビでは彼が「頑固なナルシスト」であるという発言をした政治心理学の専門家もいた。

[3]実はサルコジが市長であったヌイイ・シュル・セーヌ市近辺は典型的なブルジョワの町である。よって、サルコジが「人民に話す」能力を身に着けたのはこれらの投票人民と話すことによって習得したわけではないことは確かである。

[4] これは、シャルル・ド・ゴールが権力を再び握る結果になった1958年5月13日のクーデターの10年目の記念日であったため、象徴的な日付であった。デモ参加者の主なスローガンの一つは「10年、じゅうぶん」であった。

[5] 1968年1月、ヴェネズエラにおける我々の刊行誌「Internacionalismo」(その当時に存在したCCIの唯一の刊行誌)の出版は、国際的レヴェルにおける階級衝突の新時代の幕開けを声明した。「私たちは予言者ではなく、未来の出来事がいつ、どのように発展していくのかを知っているようなふりはできない。しかし、資本主義が陥っている窮境に関して言えば、それが改良や通貨切り下げ、その他のいかなる資本主義の経済措置によっても阻止することはできないものであり、危機にしか至らないということを確信している。同じく、一般的なレヴェルで私たちが実際に経験している階級の闘争性の発展の逆の過程が、労働者階級を、資本主義国家を打倒するための残酷で直接的な闘争に至らせるだろうことを確信している。

[6] この日、軍事革命政権の熾烈な経済攻撃と鎮圧とに対して立ち上がった数々の労働者街における一連の動員に続き、コルドバの労働者たちが警察と軍隊(戦車を伴った)とを完全に圧倒し、コルドバの町を支配した(ブエノスアイレスに次ぎ国内で二番目)。翌日軍隊がまとまって到着した後になって初めて、政府は「秩序を回復」することができた。

[7]年上の世代を「年寄りの馬鹿ども」と見なした(同様に彼らは学生達を「若い馬ども」と見ていた)1968年の多くの学生たちの態度から長い道のりを経て、今日我々は程遠いところに居る。

[8] 1968年の真の意義についてのこの盲目が、スターリン主義やトロツキー主義から生まれた諸潮流にのみ影響を与えたのではないということは指摘しておくに値する。これらの諸潮流にとって「反革命」とは存在せず、彼らは第2次世界大戦以降に台頭した「社会主義」諸国家や「歪んだ労働者」国家、或いは同時代に始まり以後数10年間続いた「人民解放闘争」の出現をもって「革命」の継続性の存在を主張している。実際のところ、左翼共産主義者の分子の内の多数、特にイタリア左翼の分子は、1968年に起きたことについてあまり理解しなかった。今日に至ってでさえ、ボルディガ派やバタグリア・コミュニスタは、我々が未だに反革命を克服してはいないと考えている次第なのである。

ICConline - 2008

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一つの階級、一つの闘争

かつてないほど、そして同時に、世界の国々は労働者の闘争によって揺れている。これは国際的規模で高まる労働者階級の攻勢と戦闘性の証左 である。ブルジョワ的メディアによる報道管制に対して、われわれは2008年初頭より世界中で闘われてきたいくつかの例を紹介する。(場所、地域、資本・ 企業名などの固有名詞については英語発音のカタカナ表記・ローマ字読みを付した。)

ヨーロッパ

ベルギー 3月にGenk(ゲンク)市のフォード社で複数のストライキ。Mortsel(モルトセル)市にて臨時 契約の導入に反対するストライキ、Bruxelles(ブラッセルズ)市では交通ストライキが闘われる。BP石油化学会社で山猫ストライキ(一部の労働 者・組合員が労働組合の規範・方針とは別個に敢行するストライキ)、Ceva(セヴァ)物流会社でリストラに反対するストライキが起こる。

ギリシア 年の初めから、「年金には手を触れない」と公約し再選された保守政権が行なおうとしている年金の「改善」に反対する24のゼネスト。現在も保守派は年金の 30~40%削減、既存の定年制度を変え、男性の場合は65歳以上、女性は60歳以上へと支給開始年齢を引き上げることを提案している。ストライキは社会 保障の「改善」(基金の合併、安全基金の削減。低賃金労働者への援護廃止)へも向けられた。そしてそれは国の主要な経済活動、つまり運輸、銀行、郵便、 通信、鉄道などを麻痺させた。3月19日の最後のストライキでは、数百万人がデモに参加した。

アイルランド  4月上旬に15日間以上に及んだ看護士4万人のストライキが、10%の賃金上昇や1週間の労働時間を35時間以内に短縮することを要求に掲げた。 Belfast(ベルファスト)市で、空港内の新ターミナル開設に伴う新たな労働条件に反対したAer Lingus(エアーリンガス)社のパイロットたちが闘争に決起。Limerick(リメリッキ)市で、新しい賃金契約を要求するバス運転士25人が、労 組の指揮を聞かずに、山猫ストライキを実行。

イタリア    ナポリ地域では、Pomigliano(ポミグリアノ)市のFiat(フィアット)社工場の労働者が316の人員流出に対して、4月10日にストライキを決行(会社のこの方針が常態化することを労働者たちは恐れている)。

ロシア 労働者3000人によってボーキサイト鉱山が1週間以上占拠された。労働者たちは50%の増給や最近抑えられた公的給付金の復旧を求めていた。この運動は、国全体そして地元住民の多くの支持を得た。経営側は、公的給付金の一部と20%増給を承認した。

スイス  Bellinzone(ベリンゾーン)市のCFF運送会社で、430人の機械工が126人のリストラに対して1ヶ月間のストライキを行った。他の労働者たちも参加したBerne(ベルン)市でのデモののち、4月9日にリストラ計画は断念された。

トルコ  イラク・クルディスタンで起こっている戦争にも関わらず、マルマラ海のテゥズラ造船所で4万3千人の労働者が巨大なストライキを決起。警察に弾圧された2 月28日のデモの後、数千人の労働者たちが2日間ストライキを闘い、造船所にて座り込みを行った。座り込みは警察によって攻撃され、労働者たちには暴行が 加えられ、75人が逮捕された。「僕らの人生は犬どもより価値が低い」と怒りを込めて叫んだ労働者たちは、尊厳のために闘う意志を示していた。逮捕された ストライキ参加者が釈放されて、彼らの要求に対するわずかの要求(衛生や安全性の改善、賃金支払いに関する社会的な保障、出勤日を7時間半に限ることを管理側に約束させ、労働者は仕事に戻った。イスタンブール市で、警察とデモに参加している労働 者たちとの暴力的な衝突。

アフリカ

アルジェリア  4月13日、賃金値上げと新しい賃金制度を拒絶する公務員(150万人におよぶ賃金労働者) による、「違法」なストライキが3日間に及ぶ。マシラ地域におけるハンマム・ダラーにてセメント労働者207人が、労働条件について17項目の要求書を抱 えてストライキを実行。

カメルーン     2007年11月から2008年3月にかけて、ベルギーの会社やフランスのBolloré (ボヨーレ)貴族と関連しているSocapalm(ソカパルム)社が経営しているヤシ油の農園で、非人間的な労働条件に反対した数度のストライキ。

スワジランド   3月末に、よりましな賃金や賞与を獲得するために、アフリカの旧植民地のこの国で、繊維労働者1万6000人によるストライキの動きが起きる。

チュニジア     4月6日と7日に、ゼネストと2008年1月の怒りの爆発(しかしそれは残虐なかたちで制圧され、300人が死亡)の後、リストラに反対して闘っているガ フサ盆地の炭鉱地域の労働者に向けて、抑圧や逮捕の新しい波が発生。3月10日に、4000人を雇用するTeleperformance社でストライキが 行われる。 

北米、中米

カナダ            Vallée Jonction (ヴァイェー・ジョンクション)にてOlymel(オリミール)社の豚肉加工場に山猫ストライキが発生。労組が、雇用安定に関する保障と引換えに、賃金 30%削減や7年間の給料凍結を受け入れてより1年弱。遅刻出勤した労働者に対する懲戒処分が下ろされて、労働者320人による自然発生的ストライキが続 いていた。経営者側は労組と手を組んで、労働者たちが仕事に復帰し、生産現場での減産・怠業を終結するよう呼びかけてもらった。その直後に、労働者の 70%は、4月20日から非公認、無期限のストライキを行なうことを総会において決定した。

アメリカ合衆国         映画脚本家のストライキはよく知られているが、MTV社の労働者も5000人の戦闘的なストライキを起こした。2月26日にデトロイトやバファロー市に て、Axle and Manufacturing Holding(GM社やChryslerに部品を補給する会社)で、給料や既得権の削減に反対する労働者3650人がストライキ。5月1日に、アフガニ スタンやイラクの戦争に反対する港湾労働者が仕事の一時停止を実行した。

メキシコ          1月11日、(Sonoraという北の州の)Cananea(カナネア)市の国内最大の銅山で、賃上げや労働者の健康と安全管理面の改善を訴え、ストライ キ。このストライキは違法であると国は宣言、警察や特殊部隊による暴力的攻撃が行なわれる(けが人20~40人、逮捕者数人)。最終的に法廷はストライキ の合法性を認める。1月21日には27万人の炭鉱労働者が参加する新しいストライキが行われた。

ベネズエラ    Guyana州にて、鉄鋼労働者による巨大なストライキ(製鉄は同国第二位の産業)。「21世紀社会主義のチャンピオン」と名乗るチャヴェズ氏に支配されている国家により、労働者たちは厳しい抑圧に遭わされる。

アジア

中国   1月17日に、麻涌(マチョン)の港湾に、Maersk社でに雇用されている労働者たちが反乱を起こす。広東、深川(シェンジェン)や香港を含む地域 (10万社からなり、1000万人の労働者を雇用している)だけでも、今年に入ってから少なくとも毎日1件、1000人の労働者が関係するストライキが あった!

アラブ首長国連邦   ドバイ市の建設労働者の巨大な反乱の後に譲歩が引き出されてから、「典型的な」鎮圧が施され、「ストライキを煽り立てる」ということで45人の労働者が解 雇、または6ヶ月の実刑を言い渡された。だが、その闘争は影響を持ち続け、4月上旬、隣国のバーレーン首長国で同じく酷い労働条件を苦しんでいる1300 人の建設労働者が1週間のストライキを実行。闘いが地域へ拡大する兆しがますます強くなったこともあり、賃上げは早期に実現できた。6つの湾岸首長国で は、1300万人以上の外国からの出稼ぎ労働者が働いている。

イスラエル   3月、エル・アル航空会社の荷物係による山猫ストライキ。賃金値上げを要求し、超過労働や不安定な雇用契約に反対するためにテルアビブの証券取引所職員がストライキを起こし、金融市場に重大な不安定状態をもたらした。

 

日本における労働者運動

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日本における労働者運動:1882-1905間

日本における革命的運動の歴史に関する以下のノートは、労働者階級と前衛的革命家の発達過程の本質そのものを具体的な諸要素と共に明示するものであり、それは

世界資本主義転覆を目的とした全世界的な戦いとその利益との根本的な一致によって特徴付けられている。

世界的なレヴェルにおいて立証されているこの経過は、それぞれの国ごとに異なる方法やリズムによって表現されている。それは不均衡な形ではありながら、各国が相互に影響を与え合いつつ表明されている。様々な歴史的理由から、西ヨーロッパは世界的共産主義革命の重心を成している[1]。日本における革命的運動の歴史は、それが西欧世界にて生じた進歩の最後尾に繋がり生じたことを数度にわたり明確に示している。

しかし、この事実はいわゆる「ヨーロッパ中心主義」による道徳的判断や、プロレタリアが最も進んだ国に高得点を与えんとする意思を表現しているわけではない。その逆に、日本における革命的運動の様々な要素は、西ヨーロッパにおける革命的運動と世界のその他の国々との間に存在する密接な繋がりを浮き彫りにしている。これ程の分析枠は、将来の世界的革命の力学を理解することを可能にする唯一の枠組みであり、その中において日本の労働者階級のような世界のプロレタリアの分派が極めて重要でかけがえのない役割を果たさなければならない枠組みなのである。

日本における労働者運動の歴史を研究する時、我々は同国と世界のその他の産業諸国においてプロレタリアが直面する諸処の問題とそれに対して与えられた答えとが根本的に酷似しているという事実によって驚かされざるをえない。この類似は、日本がその他の大産業国から比較的孤立した位置にあり、また並外れた速さの産業成長を遂げたという点を考慮に入れると、ますます重要な意味をもっている。この産業成長はわずか1860年代以降に始まったものであり、日本の世界経済と対外環境への開国はアメリカのペリー提督率いる「黒船」軍およびそれに直ちに続いたヨーロッパ勢力等により成されたものなのである。それまでの日本は、密閉された封建主義の中に凍結され、世界のその他の国々からは完全に切り離された状態にあった。たった30年、すなわちたった一世代足らずの間に、日本は世界的帝国主義の闘技場に足を踏み入れる大産業諸国の最後尾に並ぶこととなった。この台頭は、とりわけ1905年の旅順港におけるロシア艦隊の破壊により、想像を絶した華々しさをもって成し遂げられた。

このことは、ヨーロッパの労働者たちが一世紀やそれ以上をかけて培った経験や概念が、日本においてはその僅か四分の一世紀において達成されたことを意味している。マルクスの諸出版物の初の和訳が1904年まで発行されていなかったにも関わらず、日本のプロレタリアはマルキシズムが既にヨーロッパの労働者運動に多大な影響を与えていた時期(特に第一インターナショナルを通して)に誕生した。これから見ていく通り、労働者運動の始まりに特有のものであった概念は、その最も近代的な表現と共に存在していたと考えられる。

革命家の最初の集結

19世紀末の数10年間に至るまで、日本における労働者運動は、社会の調和と個人の参加が共同体の利益の中にのみ存在するという孔子の伝統に色濃く影響を受けたものであった。1882年5月、東洋社会党が設立されユートピア的な社会主義とアナーキズムを主張するが、その後まもなく解散することとなる。

1880年代は社会主義の古典に自らを適応させ、ヨーロッパにおける労働者運動の議論や闘争に慣れ親しむことを目的とした数々のサークルの出現によって特徴付けられている。特に「国民の友」や「社会問題研究会」等がその例である。これらのサークルの活動は常任の組織に基づいたものではなく、また1889年に設立された第二インターナショナルとは未だいかなる連携をも持ってはいなかった。

1890年、アメリカにおいて日本出身の移民労働者が初めて「職工義勇会」にて結集する。このグループはどちらかと言えばアメリカと西ヨーロッパの様々な国における労働者の問題を研究することを目的とした勉強会であった。アメリカの労働組合はこのグループに対し多大な影響をもっていた。

1897年、5千7百人の会員と共に「労働組合期成会」が結成する。この会は日本における労働者運動の歴史上初めて自らの機関紙を創刊した。片山潜により編集されたこの会報『労働世界』は毎月二回発行され、労働組合と協同組合との設立が運動の目的であった。2年後、同組合組織は既に42部門、5万4千人の会員を含んだものとなる。これらの組合の規約および立場はヨーロッパのモデルに基づいたものであった。鉄道機関士の組合は一般投票権導入の為のキャンペーンを展開し、1901年3月、「労働者の状況への唯一の決定的な答えは社会主義である」と宣言する。

1898年10月18日、東京ユニテリアン教会にて知識人による小規模のグループが合流し、社会主義研究会を結成する。彼らの会合は毎月一回催され、この会の6人の発起人の内5人は常に自らをキリスト教的社会主義者とみなした。

渡英、渡米の後、片山は1900年、40数名の会員を含んだ社会主義協会の設立に貢献する。彼は初めて第二インターナショナルのパリ大会に代表員を送ることを決意するが、財政難によりこの計画は遂行されなかった。

労働者運動の第一段階である「機械の破壊」(ある点においては18世紀と19世紀の変わり目においてイギリスで起こった労働者による「ラッダイト運動」に対応するものである)を通過するのは1880年代末まで待つことになるにしても、このようにして1897年と1899年間のストライキ波への道が拓かれたのであった。とりわけ、鉄工、機械工および鉄道員たちはその戦闘意欲を発揮する。日清戦争(1894年-1895年)は新たな工業的飛躍をもたらし、それに従い1890年代中頃の日本には42万人の労働者が存在した。そのうち僅か2万人ほど、即ち近代工業の5パーセントの労働者のみが労組員であり、大抵の組合の規模は縮小され500人を超えないものであった。しかしながら日本のブルジョワジーはこのますます戦闘的な労働者に対し当初から非常な暴力をもって反応した。1900年、ブルジョワジーは「治安警察法」という法律を制定する。これは1878年にドイツにおいてSPD(ドイツ社会民主党)を禁じたビスマルクの反社会主義者の法をモデルとしたものであった。

1901年5月20日、社会民主党が結成される。この党は以下の要求事項を主張した:

  • 「貧富の差を根絶し、社会主義と真の民主主義によって世界に平和主義の勝利を約束する」
  • 「あらゆる人種および政治的差異を超えた国際的友愛」
  • 「世界平和、及びあらゆる軍備の廃止」
  • 「富財の正当で均等な分配」
  • 「あらゆる国民の政治権力への平等な参加」

これらの要求はこの時期において日本の労働者運動が繰り広げられた状況にまさに特有のものであり、それらには同時に以下の特徴が組み合わされている:

  • 階級闘争の初期段階において典型的であり、ヨーロッパやアメリカのユートピア主義者の潮流に属する、少々ナイーブな「無階級主義」的な洞察
  • 人種に基づく不平等の撤廃が主張されており、アメリカにおける日本人移民労働者の経験の確固たる影響が伺われる
  • 第二インターナショナルの修正主義派のものと似通った民主主義・平和主義的な文章表現法

社会民主党は法を尊重する意思を言明し、アナーキズムや暴力を明白に拒絶し、また議会選挙への参加を支持した。あらゆる階級を超えた国民の利益を擁護し、経済的不平等の清算を行い、全ての労働者が一般投票権を得るよう戦うことにより、同党は世界平和構築へ貢献することを期待した。

しかし、議会の活動を自らの優先的な活動とみなしていたにも関わらず、社会民主党は即時に非合法化されることとなる。一政党を構築する試みはここで失敗に終わる。新たな組織は再び討論サークルといった組織以上のものになることはできず、その上抑圧によって非常に大きな敗北がもたらされることになる。会報の発行はいかなる組織の後ろ盾もなく続行された。こうして、講演や会合の管理・組織および文章の発行がその活動の本質を成していった。

反戦の闘い

1903年4月5・6日、大阪で開催された社会主義協会の大会において、参加者は社会の社会主義的変革を求める。「自由、平等、博愛」の要求が常に存在していた一方、同時に階級とあらゆる抑圧との廃止、同様に侵略戦争禁止の要求が現れる。1903年末、平民社が反戦運動の核となった頃、日本は満州と韓国への侵略を続行しロシアとの戦争にまさに突入しようとしていた。平民社の刊行誌は5千部に達したが、これもまた強力な組織的機構の後ろ盾をもたない発行物であった。幸徳伝次郎(幸徳秋水)がこのグループの最も有名な演説者の一人であった。

1903年から1907年の間に日本を離れていた片山[2]は、1904年に第二インターナショナルのアムステルダム大会に出席する。彼のプレハーノフとの握手は、1904年2月から1905年8月まで続いた日露戦争の真っ最中における重要な象徴的行為として重んじられた。

平民社は戦争勃発時当初より反戦の立場を明白にしていた。人道的平和主義の名における立場をとったのである。武装部門の利益のための軍備競争は告発され、1904年3月13日、平民新聞はその紙面上でロシアの社会民主労働党への公開状を発行し、日本の社会主義者と団結して戦争に反対するよう呼びかけた。37号には『イスクラ(iskra)』紙からの返書が発表されている。同時に日本の社会主義者は、ロシアの戦争捕虜たちに社会主義文学の配布を行った。

1904年には3万9千の反戦ビラが配られ、およそ2万部の平民新聞が刷られる。

このように、日本の徹底的な帝国主義活動(1890年代における日清戦争、1904-1905年の日露戦争)は、プロレタリアが戦争の問題についての立場を表明することを妨げていた。帝国主義的戦争の拒否が未だマルキシズムにしっかりと根を下ろしたものではなく、平和主義的方向に常に強く印付けられていたとしても、労働者階級はインターナショナリズムの伝統を発達させていたのである。

『共産党宣言』の初翻訳版が掲載されたのも1904年の平民新聞紙上であった。この時まで、マルキシズムの古典を日本で入手することは不可能であった。

政府が革命家を弾圧し、彼らのうちの多くを裁判にかけ始めるや否や、平民新聞は廃刊となり、まもなく週刊『直言』が発行される。この刊行誌はまたもや平和主義思想がかなり色濃いものであった。

資本は軍事費を労働者階級に負わせ、物価は倍高に、そして3倍高になる。軍事費をまかなう為に負債政策を始めた政府は労働者階級を課税攻めにすることになる。

1905年のロシアにおいてと同様に、日本における労働者の生活状況の深刻な悪化は1905年には数々の猛烈なデモを勃発させ、1906年-1907年間には造船場と炭鉱とにおける一連のストライキを引き起こした。いかなる時においてもブルジョワジーは一瞬のためらいも見せることなく労働者に対し警察隊を送り、あらゆる労働者の組織が違法であることを再び表明するのであった。

革命家の組織は未だ存在せず、存在したのは反戦の革命的討論会だけであった一方、日露戦争はそれと同時に強度の政治的集中を引き起こすことになる。その最初の明確化は木下と安部を中心としたキリスト教的社会主義者、幸徳を中心とした派(1904-1905年以来反議会の確固たる立場をとった)、そして片山潜と田添鉄二を取り巻く派との出現によって生じる。


[1] 1982年発行、インターナショナル・レヴュー31号「労働者闘争の国際的一般化の中心にある西ヨーロッパのプロレタリア:『最も弱い鎖の環』理論批判」参照。日本や北アメリカといった圏域は、革命にとって必要な諸条件の殆どを網羅しているにも関わらず、革命的経過の発展にとって最適な場ではないことは、これらの国のプロレタリアの意識の発展における遅れと経験不足とがその原因である。

[2] 1903年から1907年の海外在住時の前半期に、彼はテキサスにおいて日本人農業者と共に数々の農業実験に従事している。これはカベやロバート・オーウェンによる空想(ユートピア的)社会主義の概念に沿ったものであった。弾圧後、偶然にも第一次大戦勃発後に彼は再度日本を後にし、渡米する。そして再び日系移民の中で活動を続けることになる。1916年にはニューヨークにてトロツキー、ブハーリン及びコロンタイらと対面し、この接触が成された直後に自らのキリスト教的思想を放棄し始める。1919年にアメリカ共産党に入党し、アメリカにおける日本人社会主義協会を設立する。1921年にはモスクワへ発ち、そこで以後1933年まで生活する。スターリニズムに対して批判の声を上げたことはなかったようである。1933年にモスクワにて死去、国葬により埋葬された。

日本における労働者運動に関するノート:第二部

闘争手段に関する討論

1905年のロシアにおける革命的事件の数々は、あらゆる労働者運動を大きく揺るがす大地震を引き起こした。労働者評議会が形成され、労働者たちが大衆ストライキを始めるや否や、社会民主党の左派(ローザ・ルクセンブルクは『大衆ストライキ』及び『党と組合』、トロツキーは『1905年』に関する著作、パネクークは諸処の文書、特に議会に関する文書を発表)はこれらの闘争から教訓を引き出すことを始めた。評議会における労働者階級の自主組織化についての力説、ローザ・ルクセンブルク及びパネクークにより特に主張された議会制度の批判は、アナーキスト的な気まぐれの結果などではなく、資本主義的生産方法の衰退の始まりにおいて新しい状況がもたらした教訓を理解し、闘争の新しい形を解釈しようとする為の最初の試みであった。

日本の革命家は国際的に比較的孤立していたにも関わらず、闘争の条件と手段とに関する討論は彼らの間でも繰り広げられ、世界規模の労働者階級およびその革命家の少数派にまでこの興奮が反映されていたことを示している。それまでよりも更に明確な形で二つの傾向が対立していくことになる。幸徳を中心とした第一のグループはその全主張が「直接行動」、即ちゼネストと革命的サンディカリズム(労働組合主義)をめぐって行われた為に、アナーキストへの強い傾化を見せ始める。幸徳は1905-1906年間に渡米し、IWWの労働組合運動の立場をよく調べ、ロシアのアナーキストたちとの接触を確立する。アナルコ・サンディカリストの潮流は1905年から機関紙『光』を発行する。他方、片山は『新紀元』において社会主義の議会活用を無条件に擁護する。その数々な相違にも関わらず、1906年にこの二派は合体し日本社会党を設立、片山が提唱したように「国法の範囲内」において社会主義の為に闘う。この日本社会党は1906年6月24日から1907年7月22日まで存在し、1906年12月まで『光』紙が発行される[1]。 

1907年2月、日本社会党の第二回党大会が開かれ、様々な見地における対立が浮かび上がる。第二インターナショナルのシュトゥットガルト大会へ送る代表員の選出の後に議論は始まった。幸徳は議会政策論に真っ向から反対し、「直接行動」論の方法手順を主張した:「革命への道は普通選挙や議会政治によって拓かれるものでは断固としてない。社会主義の目的を達成するには団結した労働者自身による直接行動の他に手段はない。3百万人の人間が選挙の準備をする、そんなことは革命には何の役にも立たない。(なぜならそれは)3百万人の人間が自覚し組織化されているわけではないからだ」。田添は厳格に議会の陣地における闘いを擁護し、多数が堺によって提案された折衷案に賛成する。それは「国法の範囲内で」という言葉を規約から取り下げるだけに止まったものであった。それと同時に、党員は普通選挙運動や非軍備主義運動、及び非宗教運動への随意の参加が許されることとなった。幸徳の立場はアナーキズムへと堕ちてゆき、第二インターナショナルの左分派が発展させ始めた社会民主主義の日和見主義や議会主義およびサンディカリズムに対する批判に、何とか自らを適用することはできなかった。

この論争の後、1905年以降幸徳は自らをアナーキストと認め、ますます組織構築にとっての障害として振舞うようになる。彼の見解は特にマルキシズムの知識と理解とを深めることを求める数々の分子を妨害することとなる。政治的立場の理論の徹底的な検討を奨励することによって組織の構築に貢献する代わりに、幸徳は「直接行動」論の見地を提唱することを望み、熱狂的な直接行動主義へと駆り立てられていった。会議終了直後に、この日本社会党は警察によって結社禁止処分にあうこととなる。 

1907年のストライキの復活後、1909年と1910年間にはまた別の階級闘争の後退が見られる。この間、警察による革命家狩りが行われたのである。赤色の旗を携行するという単純な行為が既に違法行為として扱われた。1910年には幸徳が逮捕され、その他多くの左翼社会主義者たちが後に続く。1911年、幸徳と他11人の社会主義者たちは天皇の暗殺を謀ったという口実の下、死刑宣告を受ける。社会主義の出版物はその会合と同様禁止となり、書店や図書館で入手することができた社会主義の文献は焼かれた。この弾圧に直面し、多くの革命家は亡命か或いはあらゆる政治的活動から身を引くことに至った。こうして長い日本の「冬の時代」が始まったのである。亡命を試みなかった革命家や知識人たちはそれ以降、出版団体・売文社を利用し自らの文書の発行を非合法に行った。検閲を免れる為に記事は曖昧な方法で書かれた。

ヨーロッパにおいては、反社会主義の法律の強制と弾圧とは社会民主主義政党(例えばSPD:ドイツ社会民主党、或いは更に過酷な弾圧を受けたロシアPOSDRS:ロシア社会民主労働党や、ポーランドとリトアニアのSDKPL)の拡大を押し止める事はできなかった。日本における労働者運動は弾圧下という状況においてなかなか発達できず、また同様に自らを強化させ党の精神と共に機能する革命的組織を形成する力を持つこと、即ち日本の運動において常に支配的な重みをもっていた各個人とその会による主要な役割の実施という枠を超えることに、非常な困難を見出していた。アナーキズム、平和主義および人道主義の影響は常に大きく、綱領的なレヴェルにおいても組織的なレヴェルにおいても、運動が重要なマルキシストの派を生じさせることができる段階にまで到達することはできなかった。第二インターナショナルとの最初の接触の確立にも関わらず、密接な連携を結ぶまでには未だ至らなかったのである。

こういった特殊性をもちながらも、日本の労働者階級が世界の労働者階級に同化し、ヨーロッパにおける革命的運動の綱領的・組織的獲得や長い階級闘争の歴史を有していなかったにも関わらず、似通った傾向を示しながらほぼ同じ問題に直面していたことを我々は認めなければならない。この点において、日本における労働者運動の歴史はマルキシストの派が重きをなすことができず、アナルコ・サンディカリズムが常に主要な役割を果たしていたアメリカやその他周辺国における歴史と同じ列に属していると言えよう。 

労働者階級と第一次世界大戦

日本は自らの植民地の立場を占領することを目的に、1914年に対独宣戦を布告するが(その数ヵ月後に日本は青島(中国)にてドイツの太平洋上の植民地の前哨を占領、この戦闘によって傷つけられた日本側の領土は皆無であった。戦争の中心部がヨーロッパにあったため、日本は第一段階においてのみ直接的な参戦をすることなった。対独の最初の軍事的成功を収めるや否や、日本は全ての新たな軍事的活動を控え、ある意味では中立的な態度をとる。ヨーロッパの労働者階級が戦争問題にますます深刻な方法で直面していった一方、日本の労働者階級は戦争がもたらした経済の「急発展」に面していた。実際、日本は武器の一大供給国となり、膨大な労働力の需要があった。1914年と1919年間に工場労働者の数は倍増する。1914年には1万7千の会社にて約85万人の賃金労働者が働いていたのに対し、1919年には4万4千の会社にて182万人の労働者が見られるようになる。それまでは男性の賃金労働者は労働力の僅かな部分を占めていたに過ぎなかったのが、1919年にその数は全体の50%を占めることになる。戦争末期には45万人の炭鉱労働者が存在した。こうして日本のブルジョワジーは戦争から多大な利益を引き出したのである。戦時中の武器部門における大雇用のおかげで、日本は農業部門によって主に支配されてきた社会から工業社会へと発展することが可能となった。1914年と1919年間の生産成長率は78%であった。

同様に、日本が大戦へ制限された形でのみ参戦したというこの事実は、日本の労働者にとってヨーロッパの労働者と同じ状況に直面する必要を生じさせなかった。ブルジョワジーはヨーロッパの大国においてそうであったように社会を軍事化する為の大量召集を行う必要がなかったのである。この事実は日本の組合にとって資本との「神聖同盟」を結ぶことを回避させ、この点もまたそれが現実に行われ資本主義の支柱としての正体を暴かれることになったヨーロッパの組合とは事情が異なっていた。ヨーロッパでは労働者が食糧不足と2千万人もの死を引き起こした帝国主義的大虐殺に直面し、塹壕戦や恐ろしい殺戮が労働者階級のただ中において繰り広げられていた一方、日本の労働者はそれらの全てから免れていた。ヨーロッパ、特にドイツやロシアにおけるもののような、労働者の闘いを急進化させる反戦の闘いによって構築される推進力が日本に欠けていた理由はこの違いにある。ロシア兵士とドイツ兵士との間に生じたような友好は一切存在しなかった。 

第一次大戦下における世界のプロレタリアの様々な部門間でのこれほどの状況の対照は、当時の革命家が考えていたものに反し、帝国主義的戦争が世界的革命の発展と一般化にとって最も最適な条件ではないという事実の表現であった。

大戦勃発直後よりインターナショナリストとしての立場と国際的展望とを主張し、1915年の夏にはツィンマーヴァルトにおいて、そしてその後にはキエンタールにおいて合流したヨーロッパの革命家たちは、第一次大戦前の時期の革命家の伝統にのっとっていた(即ち19世紀のマルキシストの立場およびシュトゥットガルト及とバーゼル大会にける第二インターナショナルにおける決議である)。それとは反対に、日本の社会主義者はその孤立の代償を支払わなければならず、インターナショナリストの抵抗はマルキシズムの上にしっかりと根を下ろした確固たる伝統を拠り所とすることができなかった。1914・1915年においてと同様に、聞いてもらえたのは主に平和的・人道的な声であった。事実、日本の革命家はツィンマーヴァルトにおいて前衛革命家たちによって広く普及された展望を引き継ぐ力をもっていなかった。その展望とは、第二インターナショナルは死に、新たなインターナショナルが結成されなければならない、戦争を止めさせるには帝国主義的戦争を内戦に転化することによってのみ可能である、といった諸事実の分析を拠り所としたものであった。

にも関わらず、少数であった日本の革命家たちは自らが担っている責任を認識することを知っていた。彼らは発売禁止の新聞や雑誌においてインターナショナリストの声を聞かせ[2]、秘密の会合を重ね、限られた力にも関わらずインターナショナリストとしての立場を普及させるために最善を尽くす。レーニンとボルシェヴィキによる活動ほどんど知られていなかったが、その一方ドイツのスパルタクス団のインターナショナリストの立場やカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルグによる勇敢な闘いは多大な注意を持って受け入れられた[3]

1918年8月の飢餓暴動(米騒動)

たとえ日本が大戦中にその戦争効果によるかなりの経済的「急発展」を迎えていたとしても、1914年の衰退期への突入は基本的にはあらゆる国々にこだました世界規模の現象であり、そこには第一次大戦の被害を免れた国々も含まれていた。日本の資本は世界市場の相対的飽和の結果である生産過剰の永続的な危機から遠ざかり続けていることはできなかった。同様に、日本の労働者階級も国際的な規模のプロレタリアに課せられた同じ諸処の条件と展望の変化とに対面することを余儀なくされるようになってゆく。

全ての産業部門における賃金が20%から30%増になったものの、労働口不足の為、物価は1914年と1919年の間には100%増に達する。実際的な賃金は全体的に減少し、1914年の賃金を基準に100とすると、1918年にそれは61にまで引き下げられた。この尋常でない物価の高騰は労働者階級を一連の防衛闘争へと駆り立てることとなる。 

1917年と1918間に、米の価格は二倍高となる。1918年の夏を通し、労働者たちはこの米価の暴騰に反対するデモを開始する。工場におけるストライキやその他の分野への要求の拡大があったかどうかについては情報が無いが、何百人もの労働者が路上でのデモに参加したようである。しかしながら、これらのデモはそれ以上に特記すべき組織化された形態をもつまでには至らず、特定の要求や目的に行き着くこともなかった。商店は略奪にあったようであり、特に農業労働者とその折近くにプロレタリア化された労働口、および被差別「部落民」はこの略奪において大変活動的であり、目立った役割を果たしたようである。多くの家屋と会社とが荒らされ、そこには経済的要求と政治的要求との間にいかなる統一もなかったと見られる。ヨーロッパにおける闘争の発展とは反対に、いかなる総会も労働者評議会も行われなかった。この運動の弾圧後、約8千人の労働者が逮捕され、100人以上が殺された。政府は戦術の理由上退陣する。労働者階級は自発的に蜂起したのであったが、同時に彼らのうちにおける政治的成熟の不足は悲劇的にも明白な事実であった。

労働者の闘争は自発的に発生しうるものであっても、その運動は政治的・組織的成熟を拠り所にして初めて全力を発揮し発展できるものである。この更に深い成熟がなければ、運動は早急に崩壊してしまう。それが日本のケースである。日本における数々の運動はその発生とほぼ同じ速さで崩壊してしまった。政治組織による組織化された介入も存在しなかったようである。ボルシヴィキやスパルタクス団による執拗な活動なしにはロシアやドイツにおける諸処の運動は早急に転覆させられていたであろう。しかし、こういったヨーロッパと日本とにおける様々な条件の違いにも関わらず、日本の労働者は大きく一歩前進することになる。 

日本におけるロシア革命のこだま

1917年2月、ロシアの労働者階級が革命的な過程の口火をきり、同年10月に権力の掌握に成功する時、このプロレタリアの初の蜂起は日本にまでこだますることになる。日本のブルジョワジーは直ちにこのロシアにおける革命が表す危険を察知する。彼らは、早や1918年4月より反革命の軍隊の戦闘態勢を整えることに最も断固とした形で参加し始めた最初のブルジョワジーたちのうちに数えられる。日本は1922年11月にシベリアにおける軍隊を撤退させた最後の国であった。

ロシア革命のニュースがたちまち西側諸国へと伝わり、ロシアにおける革命的発展が絶大なインパクトを -特にドイツにとって- 与え、中央ヨーロッパの諸軍隊を不安定にさせるまでに至ったにも関わらず、日本におけるそのこだまは大変限定されたものであった。地理的条件がこの事実に大きく影響しているとは言え(革命の中心であったべトログラードやモスクワから日本は数千キロも離れた地にある)、それだけが理由ではなく、戦時中における日本の労働者階級の急進化の度合いが弱かったという点が特に影響していたと言える。それでも日本の労働者階級は、1917年から1923年の間に繰り広げられた数々の世界的闘争の革命波に、その最も進歩的な分子と共に参加することになってゆくのである。 

革命家たちの反応

当初、ロシア革命のニュースは大幅な遅れをとり断片的な形で日本に伝わった。この事件が初めて社会主義者の出版物の紙上に現れたのは1917年5月と6月のことである。堺は違法の条件下において祝いの言葉を送り、それはアメリカの片山によって移民労働者の新聞『平民(Commoners)』、IWW(世界産業労働組合)の雑誌『International Socialist Review』誌上及びロシアの各新聞紙上において発表される。日本では高畠が売文社よりソヴィエトの役割についての初の報告論文を発表し、革命家の決定的な役割を強調する。しかしながら、革命時に諸政党が果たした役割に関しては未だ知られていないままであった。

ロシアにおける様々な事件とボルシェヴィキとに関する不知のレヴェルは最も知名の革命家たちによる初の宣言を通して見受けられる。1917年2月、荒畑は以下の様に述べている:「我々の中でケレンスキーやレーニン、トロツキーといった名前を知っている者は皆無である」。1917年の夏を通し、堺はレーニンをアナーキストとして語り、それだけではなく1920年4月には「ボルシェヴィズムとはある意味でサンディカリズムと似たものである」と断言している。アナーキストの大杉栄でさえ、1918年に「ボルシヴィキの戦略はアナーキズムの戦略と同一である」と述べている。 

ロシアで起こっていることに感銘を受けた高畠と山川は1917年5月、東京にて宣言「決議文」を書き、POSDR(ロシア会民主労働党)へ送付する。しかし郵送の混乱の中、これはロシアの革命家の手元には届かず仕舞いであった。亡命中の諸革命家と革命の中心部との間には直接的な接触が事実上ほぼ無かった為、この「決議文」が発表されたのはその2年後、1919年3月の共産主義インターナショナルの創立大会においてであった。

この日本の社会主義者によるメッセージは以下のように主張している:

「ロシア革命の当初以降、我々は感激と深い賞賛と共に諸君の勇敢な活動に注目してきた。諸君の成果は我々の国の国民の意識に多大な影響を与えた。今日、我々は我が国の政府があらゆる口実の下にシベリアへ軍隊を送ったことに対し非常に憤慨している。この事実が諸君の革命の自由な発展にとって一つの障害となることに疑いの余地は無い。我が国の帝国主義的政府が諸君に与えている災禍に反対するためには我々が無力すぎることを、我々は痛切に悔やんでいる。政府による弾圧の攻撃に遭い、我々は全く身動きが取れずにいる。しかしながら、近い将来、日本の全土において赤色の旗が振りかざされる日がまもなく来ることを確信してもらいたい。

この書簡に、1917年5月1日の我々の会議における決議書の写しを同封する。

革命的親愛をこめて、東京および横浜の社会主義者の会・執行委員会」 

彼らの決議文は以下の通りである:

「我々、1917年5月1日に東京にて集結した日本社会主義者は、ロシア革命に深い共感を抱き、賞賛をもって注目してきたことをここに表明する。我々は、ロシア革命が中世的絶対主義に反するブルジョワジーの政治的革命であると同時に、現代の資本主義に反するプロレタリアの革命であるということを理解している。ロシア革命を世界革命へと変貌させることは、ロシアの社会主義者だけの問題ではない。それは世界中における社会主義者の責任である。

今や資本主義制度の発展段階ははあらゆる国において最高点に達し、我々は完全に発達した帝国主義の時代へと突入した。帝国主義の観念論者たちによって騙されることがないよう、万国の社会主義者はインターナショナルの立場を揺ぎ無く守らなければならず、世界のプロレタリアの力の全ては我々の共通の敵である世界資本主義に対して向けられなくてはならない。そうすることによってのみ、プロレタリアがその歴史的任務を遂行できることになるであろう。 

ロシアとその他あらゆる国の社会主義者はこの大戦に終止符を打つべく持ちうる全力を尽くし、戦時下にあるプロレタリアに、今日塹壕線の反対側にいる自分たちの兄弟に銃を向けることを止めさせ、自国の支配階級に向けるよう支援しなければならない。

我々はロシアの社会主義者の勇気と世界中の同志とに信頼をもっている。我々は又、革命の精神が万国に拡がり浸透していくことを強く確信している。 

東京社会主義者の会・執行委員会」(1919年3月「共産主義インターナショナル創立大会」にて発行)

東京・横浜の社会主義者の1917年5月5日の決議文は以下の通りである: 

「ロシア革命は商・工業の発展と共に台頭した階級による反中世的政治体制の政治的革命である一方、それと同時に、平民階級による反資本主義の社会的革命でもある。

それ故、この際において大戦の緊急終結を決然と要求することは、ロシア革命の責任であると同時に世界中の社会主義者の責任なのである。戦時下にある全ての国の平民階級は集結し、彼らの闘争の力が各国の支配階級に対して向けられるよう再指導されなければならない。我々はロシア社会党の英雄的闘いと万国の同志たちに信頼を置き、社会主義革命の成功を待ち遠しく思っている。」 

同会はレーニンに電報を送り、その写しをUSPDとドイツのSPDにも送付する:

「世界の社会再組織の時、即ち我々の運動が再構築され、万国の同志と共に我々の最善をもって働くその時は、おそらくそう遠くはないであろう。休戦のこの極めて重要な段階、この重要な時において、諸君と連絡を取ることが我々にとって可能になるであろう。近々予定されている社会主義インターナショナルの創立に関して、可能であれば我々の代表員を派遣するつもりであり、現在その方向に向けて準備中である。我々の組織(売文社)の承認、及び諸君の支援と数多き助言とを期待しつつ・・・

敬具 東京社会主義者代表団」 

このメッセージは国際的な方向決定を示しており、集結への努力と新たなインターナショナル結成への支持とを明らかにしている。しかしながら、当時売文社がとりかかった準備というものが実際にはどのようなものであったかについて明言することは難しい。このメッセージは秘密警察により傍受され、おそらく一度もボルシェヴィキたちに受領されるには至らなかったようであるが、それに反しSPDやUSPDは受領後内密に保管し、決して公表されることはなかった。

これらの宣言が証言しているように、革命は強力な火花として革命家たちの間に拡がっていった。それと同時に、国内の労働者階級全体に革命がもたらした衝撃というものはそれよりずっと弱いものであったことは確かである。ロシアの西に位置する諸国(フィンランド、オーストリア、ハンガリー、ドイツ等)においては、ツァーリの打倒と労働者評議会による権力掌握のニュースが大熱狂と抑えきれない連帯感の波とを引き起こし、各国において「自国における」労働者闘争の強化へと導いていたのに反し、日本においては労働者大衆の内に直接的な反応を見ることはできなかった。第一次大戦末期、闘争意欲は高揚していたが、それはロシアにおいて革命が始まっていたからではなく、むしろ経済的理由がその原因となっていた。つまり、戦時中の輸出ブームが戦争終結と共に急速に燃え尽き、労働者の怒りの矛先が物価の高騰と解雇の波とへ向けられていったのである。1919年には35万人の労働者を巻き込んだ2千4百の「労働紛争」が数え上げられ、1920年には運動は僅かな減少を見せ13万人による千の紛争が繰り広げられ、1920年以降には後退の一途をたどることとなる。諸処の労働者運動は多かれ少なかれ経済的領域内に止まり、政治的要求は事実上皆無であった。ヨーロッパやアメリカ、又はロシア革命が西海岸とブエノスアイレスの労働者に刺激を与え運動を急進化させたアルゼンチン等の国々における場合と異なり、日本には労働者評議会が全く存在しなかった理由はここにある。

1919年と1920年の間、約150の労働組合が結成されるが、その内の全てが労働者の急進化に対する障害として振るまう。諸処の組合はますます高揚する闘争意欲を妨害する為に支配階級の尖兵かつ最も有害な軍隊となってしまう。そうして、1920年には「労働組合同盟会」が設立される。その時まで組合運動は100を超える組合により分かれていた。 

同時期、1919年にはブルジョワジーの支援の下、普通選挙権と選挙制度改革とを主張した一大「民主主義運動」が展開される。ヨーロッパのその他の国々と同様、議会政治制度が革命的闘争の楯として仕えることになる。日本でのこの要求の主な中心人物になったのはとりわけ学生たちであった。

闘争の新たな方法に関する討論

ロシア革命の衝撃と世界的闘争波に乗り、日本の革命家たちの間でも同様に熟考の過程が生じる。この熟考の過程は必然的に数々の矛盾を際立たせることになる。一方ではアナルコ・サンディカリスト(或いは自らをそう名乗った者)たちが、国家転覆を狙った革命を成功させた唯一の者であるとしてボルシヴィキの立場に同意する。この潮流はボルシヴィキの政策が、自分たちの純粋に議会的な方向決定に対する拒否の正当化を証明すると主張した(「直接行動」論の流れに反する「議会政策」論という論争である)。

1918年2月のこの討論の際、高畠は経済的および政治的闘争の問題が非常に複雑なものであるという考えを擁護する。闘争は直接的な行動と議会の闘争との二側面において展開することが可能である。議会制度とサンディカリズムの二つだけが社会主義運動を構成する要素ではない。高畠は大杉の個人主義的態度に反対するのと同様、アナルコ・サンディカリズムによる「経済的闘争」の拒否にも反対する。高畠は極めて不明瞭な形でもって「直接行動」と大衆運動とを同じ次元においていたにも関わらず、彼の文章は当時の闘争方法の明確化の一般的過程の一部を成したものであった。山川は政治的運動を議会制度と同一視することは通用しないと力説し、更には「サンディカリズムは私には十分に理解できない理由により退化したと思う」とまで言明した。 

限られた経験と、これらの問題に関する理論・綱領的明確化の限られたレヴェルとにも関わらず、日本におけるこれらの声が組合の旧手順と議会闘争とを根本から問いかけんとし、新しい状況への答えを捜し求めていたという点を認めることは重要である。この事実は労働者階級が同じ問題に直面し、新たな状況に立ち向かおうとする過程と同じ過程内に日本の革命家たちも含まれていたことを表している。

ドイツのKPD(ドイツ共産党)創立大会において、模索的な方法でありながらも、組合と議会の問題に関する新時代の教訓が引き出され始める。新時代における闘争の諸条件に関する討論は、世界的・歴史的重要さをもっていた。これほどの問題は討論の枠と組織が存在して初めて明確化することができるものである。国際的に孤立し、いかなる組織ももたなかった日本の革命家の境遇は、この明確化を推し進めるにあたり大変な困難に遭うことを余儀なくしていた。その為に、アナーキズムの罠に陥ることなく、組合と議会との旧式の手順に対する根本的な問題化が成されたこの時期における彼らの努力を認識することは、一層の重要性をもっている。

明確化と組織形成への試み

ロシアにおける革命は、資本主義の衰退の歴史的新条件であり、国際的闘争の波の拡大は日本の革命家に挑戦を挑むことになる。これらの問題に対する答えの模索と明確化はマルキシストの根拠という軸を無くしては前進できないことは明白である。このような軸の形成は、その前提条件があらゆる革命的組織に反対するアナーキストの党派と、革命的組織の必要性を断固として主張しつつも未だ決定的な方法で自らの構築にとりかかることができていない党派との間における明確化にある為、数々の大きな障害にぶつかることになる。

日本の政治界は、その時々の任務を果たすに至るまでに長い時間をかける。それは自国の内のみに焦点を合わせるという傾向が自らの進歩に足枷をかけていたからである。又、ごく近い過去に至るまでマルキシズムに接近することはなく、プロレタリアの戦闘組織の構築にとって決然さに欠けていた、知名人物や会の精神が著しく優勢であったという点もその理由である。

このように、最も知名な人物(山川、荒畑及び堺)の中でも特に1918年当時の山川はさらに「マルキシズム批評」を書く必要があるという確信に満ちていた。しかし、『新社会』の5月号において、堺、荒畑と山川はボルシェヴィキへの支持を表明する。1920年2月、彼らは自らの機関誌『新社会評論』誌上にて共産主義インターナショナル設立に関する報告を発表する。同誌は同年10月には『社会主義』と改題される。これと同時期に、これらの革命家は金曜会(社会主義研究会)や水曜会(社会問題研究会)といった様々な研究会において目ざましく活動する。彼らの活動は、組織の構築よりも、大抵において短命であり何らかの組織への構造上の結びつきをもたない機関紙の発行へと向けられていた。こういった日本の革命家の間における組織的問題に関する混乱や躊躇を背景に、共産主義インターナショナルは組織の構築への様々な試みにおいて重要な役割を果たしてゆくことになる。



 

[1]総計194名の党員が発表された。その内、商人18名、職人11名、自作農者8名、記者7名、事務員5名、医者5名、救世軍の士官1名が含まれていた。明らかに労働者の党員は少数であった。女性の組織的行動への参加は未だに禁止されていた為、女性の党員は認められていなかった。更に、党員の大多数が40歳未満であった。1907年1月、『日刊平民新聞』が創刊される。一地域内に止まらない販売に成功し、初刊には3万部が発行された。

[2]荒畑と大杉は1914年10月から1915年3月にかけ月間『平民新聞』を、1915年10月から1916年1月にかけ『近代思想』を出版する。これらは全てインターナショナリストの声であった。 

[3]『新社会』誌上において、国際情勢に捧げる「万国時事」という特集頁が設けられた。発行部数は少ないものであり続けたものの、SPDの裏切りに関する多数のニュースやインターナショナリストによる諸処の活動が記載された。同誌上にはドイツのインターナショナリズムの中で最も威信のある者の代表として、ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトの写真が記事と共に掲載された。記事の見出しを例に挙げると、以下の通りである:「クラーラ・ツェトキーン逮捕 / ジョレス暗殺後のフランス社会党の状況 / 1914年8月4日、ライヒスタークにおけるカウツキーとリープクネヒトの戦費に関する態度 / SPDの分裂 / シャイデマンの好戦的態度と中立的なカウツキー / 戦時中のイタリアにおけるストライキと蜂起 / ローザ・ルクセンブルグ釈放 / ロシアにおける囚人の状況 / ツィンマーヴァルトの宣言についての解釈 / リープクネヒト逮捕 / キエンタールにおける社会党の第二回国際大会と左翼による新たなインターナショナル設立の好機 / 社会民主主義反戦少数派、「ツィンマーヴァルトの宣言」のプロパガンダを理由に逮捕 / SPD党大会の状況 / アメリカの鉄道員によるストライキの脅威」。

日本における労働者運動に関するノート:第三部

共産主義インターナショナル(IC)と日本 

1917年10月、労働者階級はロシアで権力を掌握するが、日本の革命家が革命の中心と国際的運動との直接的な接触を確立するまでにはそれから長い時間がかかることになる。よって、1917年-1918年間の日本の革命家とロシアの革命家との間における接触は皆無であった。その上、1919年3月の共産主義インターナショナル創立大会には日本からの代表者の出席は全く見とめられず、アメリカ在住の片山潜が東京と横浜の代表者として委任されていたにも関わらず、この大会への参加は叶わなかった。極東共産主義団体の第一・二回大会は1918年と1919年の11月にモスクワにて開催され、日本の代表者が招待されていたが、この会議にも同様に不参加であった。しかし、1920年9月のバクー会議には、アメリカから来た日本の代表者の参加を確認することができた。この代表者はIWW(世界産業労働組合)のメンバーであったが、日本のいかなる組織の委任も有せず、自らの意志と判断とによる参加であった。

日本の革命家の世界の他の国々からのこの長引く孤立には幾つかの理由があり、第一に、内戦のために日露間のコミュニケーションが大部分において遮断されていた点が挙げられる。この内戦はプロレタリア革命の最も猛烈な対抗者であった日本軍を巻き込み、1922年のシベリア撤兵まで続いた。第二に、革命家たち自身の政治的虚弱さが挙げられる。彼らの内で、組織の構築や国際的な革命運動への統合を目指す原動力となる分子として行動することができたグループは皆無であった。それ故、共産主義インターナショナルが常に連携を確立しようと試みたにも関わらず、日本において拠点をもつことは実現されなかった。

新組織の基礎を築くことのできる分派の不在は大きな弱点となる。長期的な成熟の過程と組織的問題のマルクス的理解への困難な闘いとの結果がまさに、分派が成し遂げる党結成の為の準備的仕事そのものなのである。

共産主義インターナショナルが完全に日和見主義的な政策にすがりながら慌てて新組織設立へと行動し始めたのは、革命的運動の退潮が始まった後になってのことである。

1920年、第三インターナショナルは上海において韓国と中国の革命家が参加する極東書記局を設立した後、同年10月には日本のアナーキスト、大杉との接触を確立する。ICの極東局は日本における組織設立の資金として二千円を提供する。

しかし、共産党結成においてアナーキストがもち得る組織的・綱領的信用性とは一体どういうものであったのか?大杉は各々の「国内支部」における自治を求め、国際的連絡事務所の設立という点に関してのみ同意していた。彼はいかなるグループの委任も有せず、上海から帰国した折に自らの機関紙『労働運動』を刊行したのみであった。その他の革命家は常に極めて分散したままであり、1920-1921年間にこの組織設立計画を巧く実行に移すにあたって決然とした態度を見せた者はほとんどいなかった。大杉はと言うと、ロシアで諸処の事件が発展した間も一貫して自らのアナーキスト的方針に忠実であり続け、1921年のクロンシュタットの悲劇の後にはソヴィエト政府の転覆を呼びかける。共産主義インターナショナルはその後彼との連絡を一切絶ち、その結果組織設立への努力は失敗と終わった。

その日本において、1920年末期より山川、堺、荒畑の三人が勢力を団結させるべく尽力する。こうして1920年8月に集結したメンバーにより同年12月「日本社会主義同盟」が結成されることになる。様々な理論的・綱領的展望を持つ異なる潮流がここで集結し、約千のメンバーが加盟する。この同盟の公式な機関紙は『社会主義』と命名される。

その当初から、警察はこの組織の弾圧に邁進する。1920年8月から11月の間に諸処の準備会は解散させられ、同年の12月9日に予定されていた東京での創立大会も同様に警察によって解散させられる。ここでも再び組織設立への試みが警察の強力な弾圧の下失敗させられるのである。分散と分裂・崩壊とによりろ過と結集の過程とは決して最後まで成し遂げられることができず、その当然の結果としてそれぞれのグループが各々の機関誌を発行し続けることになる。堺と山川編集による『社会主義研究』、荒畑による『日本労働新聞』、大杉による『労働運動』等がその例である。1921年5月、「日本社会主義同盟」は結社禁止命令を受ける。

再結成の焦点の役割を果たすはずであった社会主義同盟のグループは、明確な境界線を設置し、問題解明のろ過作業を通して淘汰を行い、団結した革命組織設立の基礎を築くことのいずれも全く実現することができなかった。その代わりに、その周囲に数人の分子を集結させ、それぞれの機関誌を発行し続けた様々な人物の存在が、革命的舞台を支配し続けてゆく。

大杉との失敗に終わった会見は、ICの上海ビューローの代表員たちを、1921年、党設立の任務を山川に提案することへと導く。大杉と親しかった山川と堺はその時まで日和見主義的態度をとっていたが、それ以降山川と近藤および堺は綱領の推敲という仕事に取り掛かり、「共産党暫定執行委員会」の規約を念入りに準備することになる。しからしながらこれらの同志は1921年春においても未だ共産党を結党する意志を固めてはいなかった。革命的闘争において前衛的役割を果たすはずの戦闘組織としての共産主義組織の概念は、当時は未だ意識の中にしっかりと根を下ろしたものではなかった。唯一強調されたのは思想の普及と共産主義のプロパガンダのみであった。にもかかわらず、これらの同志の意志は共産主義インターナショナルとの連携を強化する方向へと向かっていく。

1921年5月、共産主義インターナショナルとの結びつき促進を目的に、近藤が上海へと送られる。近藤の政治的軌道は在米時よりIWWから多大な影響を受けており、その以前には大杉の機関紙、『労働運動』の発行に参加していた。ICの代表員たちとの会合の際、彼は組織設立を目指した進化が殆ど成されていなかったのが現実であった為、既に達成された進歩について誇大報告する。近藤に感銘を受けた代表員たちは経済的援助を約束し、彼は6500円と共に帰国するが、その資金は組織設立の為に使われることはなかった[1]

東京に戻ると、インターナショナルとの間に確立された同意に反し、近藤は自らのグループ「暁民共産党」を結成し、1921年8月にそのリーダーとなる。1921年5月の「日本社会主義同盟」の解散という失敗を未だに消化しきっていなかった山川と堺とは、「共産主義のプロパガンダのグループ」を党に変えるという提案を拒否する。1921年12月の警察の一斉検挙の後、近藤のグループは違法扱いになり壊滅する。それと同時にICの代表員であり経理担当者でもあったグレイが接触先の情報リストと共に検挙され、諸処の書類が警察の手に渡ることとなる。これはICの党結成援助の努力における新たなもう一つの失敗となった。

1921年夏をかけ開催された第三インターナショナルの第三回大会の際、日本からの代表員は未だに欠席のままであった。唯一の出席者はアメリカから来た在米日本人の同志たちであった。再び、日本における革命家たちはモスクワで行われたICの方法と状況に関する中心的討論から切り離されていた。この会議において、その後IC内において拡大する日和見主義的傾向に対して闘う、後の「左翼」共産主義(左翼反対派)となる潮流の代表員たちが知られるようになる。

その間、共産主義インターナショナルはラデックを調整役とした日本の為の諸処の委員会を設立し、普通選挙権導入の為のキャンペーンを決議する。このキャンペーンはICの第一回会議がブルジョワ民主主義と議会主義制度の危険な役割を暴いた時に現れ、その第二・三回会議にてイタリア左翼とドイツ・ハンガリーの同志が同制度の行使という誘惑に抗わなければならないと説いていたものであった。

共産主義インターナショナルは1921年秋、極東諸民族会議を呼びかける。この会議は同年11月に極東における勢力範囲の分割を計画し集結していた帝国主義の列強によるワシントン会議に対抗する、二者択一的な会議として直接的に組織された。

日本の異なるグループが、この極東諸民族会議への参加に招待される。山川と近藤の各グループと「暁民共産党」がそれぞれ代表員を派遣し、それに二人のアナーキストとその他の分子たちが加わる。最終的には1922年1月にべトログラードにて開催された同会議において、近藤による「暁民共産党」を代表した高瀬が、共産党が既に結成されたと宣言するが、これは明らかにはったりであった。他方では、この会議に感銘を受けたアナーキストの吉田が、共産主義に「改宗した」と告げる。にも関わらず、日本への帰途において既に、彼はその発表を早くも取り消しアナーキストの立場への忠義を再び断言することになるのである。

同会議においてブハーリンは、日本における労働者闘争の次段階がプロレタリア独裁の即時の確立計画にではなく完全に民主主義的な体制の構築にあるとし、それに専心することを求める。更に、最も重要な目的は帝国主義制度の廃止にあるべきだと述べる。1922年1月当時、ジノヴィエフは未だ日本を帝国主義大国として言明していたが、その数ヶ月後に共産党が結党されることになる時、日本はもはや帝国主義国としてはみなされなくなる。

1922年1月にべトログラードにて集結した革命的勢力による努力にも関わらず、日本における革命家たちは引き続き分散されたままの状態にあった[2]

組織構築において決定的な進歩を達成するにあたっての数々の困難は、様々な事情から生じていた。さらに深刻な他の諸理由を別にしても、第一にその孤立と、日本の国外との連携構築へ向けた尽力不足の為に、共産主義インターナショナルが日本における革命家界の異なる構成部分についての事情をほぼ全く把握できていなかったという事実が挙げられる。最も重要な責任を負った分子たちの間における組織的問題についての過小評価、困難な情況下における接触確立への自発性の欠如等、それらの全ての要因がICが繰り返した諸処の失敗に大きく作用したのである。

ICがアナーキストの大杉や極めて個人主義者にして予測不可能な近藤を「信頼できる人物」として選んだのは、日本の最も確実な分子たちが共産主義インターナショナルとの直接的な接触を確立する必要性を理解していなかった為である。彼らはこのイニシアティヴをアナーキストや彼らほど確実ではない分子たちに委ねきっていた。

インターナショナルによる日本の革命勢力に対するあらゆる種類の支援提供の試みにも関わらず、日本における世界的政党の必要性に対する革命家たちの信念不足を取り繕うことは不可能であった。階級に対し革命家が担う責任は、革命家が生活する一地理的区域内に限定される「一国内」の責任において結びつけられるものではなく、インターナショナリスト的運動上にその基礎が置かれるものでなければならない。

このように、議会主義問題に関する衰退から教訓を引き出す為のマルキシズムの見地に立った批判的試みが欠如していたという点は、同時期に頭角を現した「左翼」共産主義・左翼反対派の諸勢力と日本の革命家との連携が皆無であっただけに、ますます深刻であった。孤立を破るにあたってのこれらの困難は、政治的・綱領的混乱へと導いた。

1920年から革命の波が引き潮へと向かう時、日本の労働者階級は革命家の実際的介入をその内に有すること無しに闘った。共産主義インターナショナルは、既に日和見主義の流れへと進んでいた時に党結成への参加を望む革命家たちの結集に献身する。1922年7月15日、日本共産党(PCJ)の創立が実現するにはこうした状況を背景としていた。

日本共産党(PCJ)の創立

日本共産党は組織的経験を殆どもたない様々なグループのメンバーと指導者たちによって結成され、いかなる実際のマルキシストの派、とりわけ組織的問題についてのいかなるマルキシストの派も備え持ってはいなかった。ICによって連絡を受け養成された旧指導者、即ち堺、山川、荒畑たちも入党し、その時まで彼らが指導していたそれぞれのグループも共に参加することになる。山川の「水曜会」及び『前衛』の発行に携わっていたグループ、堺の『無産階級』を中心としたサークル、「暁民共産党」、及び1921年に結成された労働組合の組合員たちである。同党は1923年には約50名のメンバーを有したが、入党の概念そのものに問題があった。というのは、同党は個人的なメンバーを一切数に入れて記さず、彼らは党結成の為に集結された様々な異なるグループの一つに属していたからである。更に、いかなる綱領、規約、選定された中央機関も存在しなかった。党員は特に各出身グループ内において活動的であり、山川と堺とを中心としたグループが党員の大多数を占めていた。

統合された単一団体の構築という役割に取り組む代わりに、党の生命は「細分化」させられ、これらのグループや旧来の指導的人物たちの重みにより強い影響を受けてゆくことになる。綱領に関するろ過が十分に成されていなかった為、現実的にはいかなる計画も練られてはいなかったのである。

その上、非合法という状況故に同党はいかなる自主的な機関紙の出版も許されず、いかなる公式な宣言も発行できなかった。党員たちが様々な政治的発行物において各々による個人的立場をとっていたのはそれが理由である。『前衛』、『無産階級』、『社会主義研究』の三誌が合併し、党の機関紙として『赤旗』の創刊が実現するのは、1923年4月まで待つことになる。

これと同時に、同党は大衆政党となることを求め、山川はインターナショナルの方向決定に従いつつ、その方針に沿って傾化してゆく。この大衆政党は「全ての組織化・非組織化された労働者、農民、中産階級の下層、そして全ての反資本主義運動および組織」を内包するとされた。従ってPCJは共産主義インターナショナルの方向決定を再度その手に取り戻したとは言え、それは自らの日和見主義的政策の表明でもあった。事実、この大衆政党の時代は当時ドイツのKPDにより明白に分析されたように過ぎ去っていった。

日本支部に関する綱領は1922年11月、ブハーリンを議長としたインターナショナルの委員会によって推敲された。この綱領は第一次大戦中の日本の急速な経済発展をについて論じていたが、特に以下の点が強調されていた:

「日本の資本主義は過去の封建的関係の遺制を今も表しており、その最も重要な名残が政府の最高位に就く「みかど」の存在である。(中略)封建制度の残滓は現在のあらゆる国家管理構造の中において同様に支配的役割を演じている。国家の諸機関は今も尚、商工産業のブルジョワジーと大地主による様々な諸部分から成るブロックの手中にある。この国家特有の半封建的性格は、特に国家憲法内における「元老」の持つ主要な役割によって如実に表されている。この状況を背景に、労働者階級や農民、小ブルジョワジーだけでなく、現行政府へ反対の立場をとることに利益をもつ自由主義ブルジョワジーを名乗る更に広い階層から、反政府勢力が生じて来る。ブルジョワ革命の達成は序幕となり、又ブルジョワジーに対する支配とプロレタリア独裁の確立を目指した前奏曲となることが可能である。(中略)封建的領主とブルジョワジーとの間における闘いは確実に革命的性質を帯びていくことになるであろう」(Houston p60、本誌による翻訳)

その創立大会の宣言において、共産主義インターナショナルはあらゆる場所における革命を喫緊の問題としていたにも関わらず、衰退したICは1922年より世界の各地域に従う各プロレタリアにそれぞれ異なる歴史的役割を割り当て始める。

日本を中国とインドとの同一計画内に含んで割り当てたのは、当時の日本にはまだ農民人口の比率が大きく、そしてとりわけ天皇と封建制の名残とが存在していたからであり、ICは日本の労働者階級にブルジョワの諸グループと同盟を結ぶことを提言する。共産主義インターナショナルのみならず日本共産党も、日本において既に深く根を下ろしていた国家の資本主義の現実の発達を過小評価していたのである。

天皇が常に政治的代表としての役割を演じていたにも関わらず、それは日本社会における階級構成にも、労働者階級が直面していた数々の歴史的任務にも、いかなる変化をももたらしてはいなかった。日本における資本主義の発達の歴史は他国と異なっていた為、同国における私的産業は確かに他の産業諸国においてほど発展してはいなかった。しかし、資本主義的生産様式の拡張以来、国有資本に対して私有資本の占める割合が比較的少ないという日本資本の特徴は、国家の高度成長によって「埋め合わせ」られていた。国家は非常に素早く日本の国家利益を守るための積極的かつ干渉主義的な役割を買って出た。前述の日本共産党と共産主義インターナショナルの立場には、この国家の資本主義のレヴェルを深刻に過小評価していたという背景があったのである。実際にはこの国家の資本主義ははるかに莫大な比率を占め、ある点までにおいては殆どの欧米諸国においてより日本において更に発達していたのである。

資本主義の上昇局面における資本の私有部門の発達が乏しかった為に、ブルジョワ諸政党がヨーロッパにおいてほど存在しなかったとしても、又、全体として議会制度の重みと影響とが他国に比べ少ないものであったとしても、それらの事実は日本の労働者階級が他と異なる歴史的任務を負い、ブルジョワ民主主義の議会制度のために闘わなければならなかったということを意味していたのではない。

PCJのこの方向決定はその内部において抵抗にぶつかることになる。山川は、もしブルジョワ民主主義が存在せず日本が軍隊と官僚とによる徒党に支配されていたとすれば、インターナショナルの分析とは逆に、ブルジョワ革命を実現するいかなる利益も存在しないと断言する。その結果、彼は選挙という場における党の結集に反対する立場をとる。

この主張は1923年3月の党会議にて議論されるが、いかなる決議も採られることはなかった。佐野学はプロレタリア革命が日本においても同様に喫緊の問題であるという基本的方針を含んだ綱領草案の代案を提案する。普通選挙権の要求に関しても同様に数々の不一致が存在し、佐野は議会への参加を拒否、同じく山川も選挙への参加反対の意見を述べる。

この批判の徹底的検討を助長することができたはずのヨーロッパの「左翼」共産主義・左翼反対派の声が日本には届かなかった為に、この批判が掘り下げられ綱領的基本の上に根を下ろすまでに至ることはなかった。

国際的レヴェルにおいてと同様、日本国内においても革命波の数々の闘争は衰退期にあった為、JPCは戦火の只中における介入の試験を実行することができなかった。その限られた組織的経験と日和見主義的で政策的に混乱した立場とを考慮に入れると、闘争組織として行動しその前衛的役割を果たすにあたって同党が最大限の困難にぶつかったであろうことが推定される。

日本のブルジョワジーによる戦略は、その他あらゆる支配階級による戦略と類似したものであった。即ち日本共産党に対する弾圧と侵入との行使である。1923年6月5日、同党は禁止処分を受け、約百名から二百名の党員が検挙され、警察に知られた全党員が投獄される。

1924年3月24日、同党は完全に解党させられる。荒畑はこの解散に反対し、党の存在維持の為に闘う必要性を擁護する一方、堺は違法の前衛政党は既に必要でもなく望まれてもいないと唱え解党を支持する。山川はと言うと、このような政党は労働者から離れてしまい、ブルジョワジーによる弾圧の餌食になるだけであり、マルキシストの革命家は労働組合や農民組合といった大衆組織に加わり将来の合法的なプロレタリア政党の確立を準備するべきであると説いた。こうして、強固な一集団ではなくむしろ様々な人物の結集であり、いかなる組織的構造も持たず、党の精神にのっとって機能することもなかった最初の共産党は、最後まで全くその任務を果たすことはできなかった。

世界的レヴェルにおける諸闘争の退潮の後、革命家たちは同一の任務に直面する。退化したICが大衆政党の設立と統一戦線という合言葉を持ち出し、そうすることによりますます疲労しますます方向を見失った労働者たちの間に混乱を増殖させていた一方、その結果革命家たちは分派の機能を発展させるという任務に専心することを余儀なくされてゆく。

しかし、ここでもまた日本の革命家はこの任務の遂行にあたり数々の大困難に衝突しなくてはならない。彼らの陣地からはインターナショナルの退化と戦い将来の政党の基礎を築く為の、いかなる分派も出現しない。

日本における反革命の高まり

日本の労働者階級に対する攻撃を増加させる為に、ブルジョワジーは自らに有利な形の力関係を行使する。第一次世界大戦下とそれに続いて生じた革命波の中において、労働者階級は他の国々においてほど急進化されてはおらず、その闘争への参加は周辺的な方法のみであったにもかかわらず、今度は1920年代を通し高まりを見せる反革命による過酷な仕打ちに遭うことになる。1923年の検挙以降、政府は労働者階級に対しさらに厳しい弾圧を加えるまたとない機会に飛びつく。その機会とは、同年9月1日に東京を襲い、10万人以上もの死者を出し、都心の大部分を破壊するという甚大な損害を与えた大震災がもたらした効果である。言論と思想を取り締まる警察(「特別高等警察」)が設置され、それに次ぐ数年の間に大量検挙が強行される。1928年には4千人、翌年1929年には5千人、1932年には1万4千人、その1933年には再び1万4千人の労働者が逮捕されることになる。

ヨーロッパは1920年代に微かで短命の経済復興を見せるものの、日本はそれより更に早い時期に世界的な経済恐慌に襲われ、国内の労働者に対する諸処の攻撃を強める原因になっていた。1929年の株の暴落の2年前、1927年の日本の大恐慌勃発までに、主要諸工業における生産力は既に40%も低下していた。日本の輸出額は1929年と1931年の間に50%減となる。

日本資本は新たな軍事的征服へと向かってゆく。ロシアへの介入が最大であった1921年の前後には国家予算のほぼ50%に達していた軍事費は、第一次大戦後にも現実には全く減少させられることはない。ヨーロッパやアメリカとは逆に、実際的な非武装化は実現されなかったのである。軍事費における僅かな減少があったものの、それによって浮いた費用は直ちに軍備の近代化へと還流された。日本の労働者階級は資本主義の攻撃と戦争へ向かう流れに対し微少な抵抗によってしか挑むことはできなかった。こういった背景において、日本の国家はヨーロッパの諸国家よりもはるかに早く経済における支配的立場を確立し、軍事的征服の道へ決然と臨んでゆきながら、非常に拡大した国家の資本主義体制を発達させ始める。

ヨーロッパにおいてよりもはるかに低かった労働者の生活水準は、さらに低下することになる。彼らの実際収入は1926年を基本に100とすれば、それは1930年には81、その翌年1931年には69にまで引き下げられ、地方では飢饉が広まるまでに至る[3]。労働者階級が衰弱させられ、資本が攻勢をかけていたこの環境の下、数々の闘争を人為的に扇動したり大衆政党の設立を試みることにより、この不利な力関係を何としてでも乗り越えようと試みた革命家たちが存在した。

PCJ、スターリニズムの従僕となる

1923年の革命波の末期、ロシアとICの懐においてスターリニズムが強化されていった時、共産主義の諸政党はますますモスクワの支配に服従しその道具と成り果ててゆく。PCJの発展はこの事態を如実に明示している。

ICはロシアの利益を守るため、どんな代価を払ってでも新政党を結成しようとする。1924年3月の解党後、共産主義インターナショナルは1925年8月に新たな共産主義のグループを設立し、このグループは1926年12月4日に新政党の宣言を発するが、これは単なるモスクワのオウムに過ぎなかった。1925年から既に、共産主義インターナショナルは『上海テーゼ』において旧同党の立場と機能とに関する批判を始めていた。明治維新と共に始まったブルジョワ民主主義革命は、今だに封建制度の名残(特に封建的地主)とブルジョワジーとが残存しているが故に、完成を遂げられなければならないというのがインターナショナルの指示であった。よって共産主義インターナショナルは「日本の国家は、国家そのものが日本の資本主義の強力な要素である。産業と経済部門への全投資の30%が国家出資である日本ほど、国家の資本主義導入が進んだ国はヨーロッパにはまだ一つも存在していない」点を認めながらも、封建制の残滓について強調していたのである。

しかしながら、インターナショナルによると日本の国家は現実にブルジョワ民主主義になる必要があるということであった。山川は国家と大金融資本家との間における政治的同一視を引き合いに出し、この分析に反対する。彼はブルジョワジーが日本においてかなり以前から権力を掌握してきたことを明言し、プロレタリアはモスクワが擁護したような「二段階革命」を拒否することによって、農民たちと反ブルジョワジー同盟を確立しなければならないと主張する。山川は労働者運動の内における左翼、もしくは農民・労働者の政党が、禁止された日本共産党に替わりその空席を埋めることができるという考えを支持していた。彼は1927年12月、雑誌『労農』の創刊に取り掛かる。

共産主義インターナショナルは「労働組合に対する潜入工作と征服」の政策を推し進める。これは1925年5月に結成された「日本労働組合評議会」に多大な影響を与える。

1928年の議会選挙において、PCJはその他「資本主義左翼」諸政党と共に「統一戦線」を張る。この諸政党の党員は増員しており、この内「無産大衆党」を含む内七党が結党し「日本大衆党」を結成していた。

1928年3月の新たな弾圧の波の後、左翼の全政党が結党禁止となり、諸政党の指導者たちが投獄される。彼らは違法な政治活動を続行すれば死刑宣告が下ることになると脅迫される。しかしながら、ひとたびPCの旧リーダーたちが警察によって投獄されると、モスクワは同年11月には新たに同党を再建できるようになる。つまり、モスクワの指示に厳密に従うことのできる別の中央委員会を配置することができたのである。日本共産党の中央委員会と幹部とは、それに続いた数年の間にインターナショナルの政策の変化に応じ取り替えられる。弾圧と逮捕との新たな波が去る毎に、常に新たな指示がモスクワにより送り出され、このようにして党の生命は「人工的に」維持され続けた。しかし、このように発揮されたあらゆる努力もむなしく、モスクワは加入者を明白な形で増やすことには全く成功しない。PCJはモスクワの単なるオウムに成り果てていた。

1928年に共産主義インターナショナルが、トロツキスト反対勢力と同様、現存していた「左翼」共産主義者・左翼反対派の闘士の全員を追放する「一国社会主義」を自らの公的な政策として宣言する時、日本共産党はいかなる反論もしない。同党はこれを共産主義インターナショナルによる労働者階級の利益に対する裏切りとはみなさなかったのである。5年来モスクワにより組織的・綱領的そしてあらゆるレヴェルにおいて「養われてきた」PCIはモスクワに対する完全な忠誠を守り、この状況に対しいかなる小さな抵抗をもって反対することもできない。1927年にて既に、水野成夫によって指導され後に逮捕されたPCJのグループは、インターナショナリズムを拒否し、「国家社会主義」の理念の擁護に取り掛かっていた。

言語の問題とこの時期の諸文献へのアクセスにおける困難は、我々が日本共産党の態度に決定的評価を下すにあたり慎重さを要求する。しかし、本テキストの執筆時点までに、スターリニズム化や「一国社会主義」理念へ反対した結果としてPCJから追放または分裂したグループを我々は知らない。PCJがいかなる批判もせず、スターリニズム化に対しいかなる抵抗をもって反対することもなかったと我々が推論できるのはこのためである。いずれにせよ、例え反対の声があったとしても、彼らがロシアにおける反対派、及びロシア外の「左翼」共産主義・左翼反対派の諸潮流と接触をもつことは一切なかった。隣国の中国において1927年に起こり、インターナショナル内および国際的レヴェルにおいても激しく討議された諸処の事件に関してさえ、我々の知る限り、インターナショナルのこの惨憺たる政策を告発する批判の声を日本から聞くことは全く無かった。

共産主義インターナショナルによる「一国社会主義」政策発表の後、党がまだ裏切られていなかったとしても、インターナショナリストの立場のために闘う事によって何らかのプロレタリア的抵抗を同党が誕生させることはできなかった。

日本の帝国主義戦争への道:

スターリニズムによるインターナショナリストの声の抹殺

日本資本が直面していた労働者階級はヨーロッパのプロレタリアよりも少ない抵抗を示していた為に、ヨーロッパの敵対諸国よりも早く徹底した戦争への競争に邁進し始めることが可能となる。1931年9月、日本軍は満州を占拠し、傀儡国家満州国を建国する。

戦争への競争が国際的に加速し、また1930年代半ばにおけるスペインの内戦がヨーロッパにおける数々の対決と第二次世界大戦とを目指した総稽古を意味していた時、1937年から1945年にかけ日中戦争が勃発することになる。

第二次世界大戦の開始以前から既に、日本の帝国主義は高度な残虐行為の螺旋を動かし始める。1937年、南京において数日の内に20万人以上の中国人が虐殺され、この戦争中に総7百万人が殺害される。

『BILAN』を出版した「左翼」共産主義・左翼反対派のグループは、スペイン内戦中に(分裂をその代価に)インターナショナリストの立場を擁護した稀なグループの一つであった。このグループはあらゆる革命勢力にとって根拠の焦点を代表している。一方日本においては、1905年の日露戦争と第一次大戦中に存在していたインターナショナリズムの貴重な伝統は、スターリニズムにより沈黙させられていた。ドイツにおけるヒットラーのNSDAPに比較し得る、1931年に結成された「日本国家社会党」と同国の社会民主党とは、日本の資本家の戦争への帝国主義的競争の参加を公然と支持する。「社会大衆党」も同様に「軍は資本主義とファシズムとの両方に対して戦う」という限りにおいて、1934年10月、日本軍の「国防努力」を支持し、同党の幹部は対中国戦争を「日本国民による聖戦」と形容する。日本の労働組合の全国大会において、「全総(全日本労働総同盟)」は1937年、労働者ストライキを違法とすることを決議する。

他方、「左翼」共産主義者・左翼反対派が唯一インターナショナリズムを擁護していたにも関わらず、スターリン主義の日本共産党とトロツキー自らが、中国の対日防衛を呼びかける。

1932年9月、日本共産党は次のように宣言する:「満州における日本帝国主義の戦争は、まず最初に中国革命とUSSRに反するよう向けられた数々の帝国主義戦争の新たな一連の始まりを示している。(中略)もし世界中の帝国主義者たちが我々の祖国・USSRに対し敢えて挑戦しようとするのであれば、世界のプロレタリアが武器を手に彼らに対し蜂起することを彼らに見せるであろう。(中略)ソヴィエト連邦の赤軍万歳、ソヴィエト中国の赤軍万歳!(Langer、1968年『Red Flag in Japan』より、当誌による翻訳)」。「帝国主義戦争廃止」、「中国への侵略を止めよ」、「革命的中国とソヴィエト連邦とを防衛せよ!」を合言葉に、同党は日本の資本家に対しロシアと中国を支援するよう呼びかける。日本共産党はモスクワの最高の従僕となっていったのである。

しかし、同様にトロツキーも第一次大戦中に擁護していた立場を船外に投げ捨てることになる。「現在の満州における日本の冒険は、日本を革命へと導くことができる」(1931年11月26日「ファシズムは実際に打ち勝つことが可能か?国際情勢の鍵はドイツにある」より、本誌による翻訳)という完全に間違ったヴィジョンを元に、彼はソヴィエト連邦に中国の軍国化を呼びかける:「日中間におけるこの巨大な歴史的戦いにおいて、ソヴィエト政府は中立を保っていることはできず、中国と日本とに対し同等の立場をとることはできない。ソヴィエト政府は中国国民を全面的に支援する義務を負っている」。「進歩的戦争の可能性」が今もなお存在していると考え、彼は次のように宣言する:「この世界に正義の戦争があるとすれば、それは中国国民による自らの圧制者に対する戦争である。中国における労働者階級の全ての組織、全ての進歩勢力は、この解放戦争において自らの綱領と政治的独立とを放棄することなしに自らの義務を果たすこととなるであろう」(1937年7月30日、本誌による翻訳)

「ブルジョワの新聞紙上の声明において、私は中国のあらゆる労働者組織の義務について語った。彼らの綱領と自立した活動を全くもって放棄することなく対日戦争の最前線へ積極的に参加するという義務についてである。しかしエイフェル派たち[4]はこれを「社会愛国主義」と呼ぶ。即ち『それは蒋介石を前に降伏することを意味している!これは階級闘争の諸原理に反することである。(中略)帝国主義戦争において、ボルシェヴィズムは革命的祖国敗北主義の為に闘っている。スペイン内戦と日中戦争とは共に帝国主義戦争である。(中略)我々は中国における戦争に関し同様の立場をとる。中国における労働者と農民にとっての唯一の救いとは、日本と中国両者の軍隊に対する独立した勢力として行動することである。』と彼らは主張するのである。(中略)1937年9月1日のエイフェル派の文書におけるこの数行は、彼らが裏切り者かまたは完全な愚か者であることを明らかにしている。しかし愚かさもこれほどまでの比率に達すると、それは裏切りとなる。(中略)圧制国と被圧制国とを区別することなしに一般的に革命的祖国敗北主義について語ることは、ボルシェヴィズムを惨めなカリカチュアへと変形し、このカリカチュアを帝国主義に奉仕させることである。中国は我々の目前で日本により植民地化されようとしている半植民国である。日本に関して言えば、同国は反動的な帝国主義戦争を導いている。中国はと言うと、進歩的な解放戦争を導いている。(中略)日本の愛国主義は卑劣で醜悪な顔をした国際的略奪行為である。中国の愛国主義は正当であり進歩主義的である。この二つの愛国主義を同じ次元に置き「社会愛国主義」として語ることは、レーニンを全く読んだことがなく、帝国主義戦争におけるボルシェヴィキの態度を全く理解していないことを表し、それを擁護することは単にマルキシズムを侮辱することに他ならない。(中略)我々は第四インターナショナルが日本に対する中国の側についているという事実を強く主張しなくてはならない」(「日中戦争について」ディエゴへの手紙より抜粋、本誌による翻訳)

帝国主義の二つの陣地に対する容赦なき闘いの全ての伝統は、トロツキーにより放棄された。この帝国主義的対決の際にインターナショナリストの立場を明白に擁護したのは、「左翼」共産主義・左翼反対派のグループたちのみであった。『BILAN』のグループはこの戦争に関し次のような立場をとる:「世界的プロレタリアが、共産主義インターナショナルとソヴィエト・ロシアとによって中国における(1927年の)ブルジョワ的・反帝国主義革命の可能性を検討するよう差し向けられた際、実際には世界的資本主義のための犠牲となったことは、過去の経験が証明している」(1937年11-12月、「日中戦争に関するインターナショナル「左翼」共産主義イタリア分派、執行委員会による決議」)。

「そして、まさに諸処の国民戦争が美術館行きの骨董品扱いになっているこの歴史的段階において、労働者を中国国民の「国民解放戦争」へ動員しようとしているのである」

「今日、一体誰が中国の「独立戦争」を支持しているのか?(中略)ロシア、イギリス、アメリカ及びフランスである。全ての帝国主義諸国がこの戦争を支援している。(中略)そしてトロツキーまでが帝国主義戦争の流れによって再度引きずられ、中国国民の「正当な戦争」の支援を奨励している。(後略)」

「戦線の両側に強欲なブルジョワジーが存在し、この支配者はプロレタリアを虐殺することのみを目的としている。中国の労働者が、例え暫定的であれ「共に歩む」ことができるブルジョワジーが存在するなどと、又は中国の労働者が革命の為に闘い勝利を収めることを可能にするにはただ日本の帝国主義のみを打倒すれば良いなどと信じさせようとする事は、偽り、完全なる偽りである。帝国主義は至るところで先頭に立っており、中国もその他の帝国主義諸国の玩具に過ぎない。革命的戦闘の道を垣間見る為には、中国と日本の労働者が互いに歩み寄って進むよう導く階級の道を見つけなければならない。即ち、友愛でもって彼らの搾取者に対する同時襲撃を強固にしなければならないのである(後略)」

≪共産主義インターナショナルの左翼反対派の諸分派のみが、全ての裏切り者や日和見主義者たちによる諸潮流に反対し、革命の為の闘争の旗を勇敢にかざしていくであろう。唯一これらの分派のみが、アジアを血で染めている帝国主義戦争を、労働者を搾取者に対して向かわせる内戦へと転化する為に闘うであろう。即ちそれは、中国と日本の労働者との友愛、「国民戦争」の戦線の破壊、中国国民党に対する闘い、日本帝国主義に対する闘い、労働者間において帝国主義戦争の為に行動するあらゆる潮流に対する闘いである。≫

「世界のプロレタリアはこの新たな戦争の中で、自らの死刑執行人と裏切り者から逃れ、それぞれが各ブルジョワジーに対する戦闘を勃発させることにより、アジアの同志たちへの連帯を表明する力を見つけなくてはならない。

中国における帝国主義戦争打倒!中国のブルジョワジーと日本の帝国主義に対する全ての被搾取者による内戦万歳!」(BILAN、「中国における帝国主義的殺戮を停止させよ!直ちに戦争を内戦へと転化するため、全ての死刑執行人に反対せよ」1937年10-11月)

これは、第一次世界大戦の革命家たちの立場の唯一の継続である、「左翼」共産主義・左翼反対派よるインターナショナリストの伝統の表現であった。しかしながら、このインターナショナリストの旗が日本の革命勢力によって引き取られることは皆無であったようである。

ヨーロッパではブルジョワジーが「人民戦線」政策に着手する。この戦術の目的は、ヒットラー率いるファシスト・ドイツに対し「民主国家」防衛の帝国主義戦争へと労働者階級を徴募することにあった。労働者をこの戦争に動員させる為に、ブルジョワジーは「民主主義」の擁護という名目により労働者を騙す必要があったのである。一方日本においては、労働者階級は既にその大部分が敗北させられていた。

ソヴィエト連邦の擁護を目的とした左翼の諸政党による統一戦線の構築を目指したPCJによる初の呼びかけは、日本国家の利益に与していた同諸政党により拒否される。PCJ自身も就くべき陣営を決定していた。

日中戦争の勃発以前より既にまたもや禁止処分下にあったPCJの生存者たちは、日本に対するソヴィエト連邦の擁護を呼びかける。

戦争中、同党の中でまだ活動を続けていた者たちは「日本の軍事・封建的秩序を「ブルジョワ民主主義革命」により破壊」するよう呼びかけ、「その過程においては資本主義諸国家との積極的な協力が必要になる」と宣言する。このような議論を基に、日本共産党は「帝国主義日本!」に対する紛争中のアメリカとロシアとを支持するのである。

1945年から1946年の冬にかけて、アメリカの占領下PCJは再編成される。綱領は1927年と1932年のテーゼにならって推敲され、「二段階革命」の計画が準備されていた。喫緊の任務は「帝国主義制度を乗り越え、日本において民主主義と土地改革とを実現する」ことにあった。

この戦略はアメリカと共に日本の非武装化と動員解除にとっての協力の基本を提供することになる。連合国軍とアメリカの最高司令官たちは、ブルジョワ民主主義革命を達成する歴史的任務を負った進歩主義ブルジョワジーの一部として見なされた。

世界中どこにおいてもそうであるように、戦後の労働者階級はかつてないほど衰弱しきっていた。

復興はこのひどく敗北し士気を失った階級と共に行われる。何十年もの間、支配者階級は日本の労働者階級を、長時間の労働と低賃金とに耐える、従順で盲従的な、打ち負かされ屈従させられた階級のモデルそのものとして喜んで紹介することになる。

1968年のヨーロッパ、特にフランスにおける数々の巨大なストライキの後、世界の労働者階級は50年以上続いた反革命に終止符を打つことにより再び歴史的舞台にその姿を現す。そして、左翼共産主義・左翼反対派の伝統を再度見出すことができたいくつかのグループを含む数々の小さな革命的グループを再び続けざまに誕生させることになる。しかし日本においては、資本主義左翼のグループが政治的舞台を完全に支配していた。我々の知る限り、歴史的プロレタリア政治界、つまり左翼共産主義・左翼反対派の伝統を主張するグループたちとの連絡を確立できた勢力は存在しなかった。

復興期の後、経済恐慌への突入と事実上10年来の日本における公然たる景気後退と共に、日本の労働者階級がさらに質的に進んだレヴェルの恐慌による攻撃に対し、自らの身を護ることを余儀なくされる立場に陥ることは単に時間の問題である。この階級衝突は革命家による最も決然たる介入を必要とするであろう。にも関わらず、革命家がその任務を達成できる為に出現するプロレタリア政治の分子は、世界のプロレタリア政治界との連結を確立し、自らをこの国際的実体の一部として理解することが必要となるであろう。

100年以上ものほぼ完全なる政治的孤立は乗り越えられなければならない。この任務に取り掛かる為の諸条件が今日ほど揃っていたことはかつてないのである。

DA

参考文献:

  • Germaine Hoston, Marxism and the Crisis of Development in Prewar Japan,
  • John Crump, The Origins of Socialist Thought in Japan, (London) ,1983
  • Beckmann & Genji, The Japanese Communist Party, 1969,
  • A Short History of The Anarchist Movement in Japan, Tokyo, 1979
  • A Political History of Japanese Capitalism, Jon Halliday, 1975

[1]日本の下関港に到着後、彼は東京行きの電車に乗り遅れ下関の町で一夜を越すことを余儀なくされる。ここで彼はICの資金の一部を芸者と酒類とに浪費する。夜が更け泥酔した彼は警察に検挙され、芸者が騙し取らずにまだ手元にあった残りの資金を没収される。獄中にて警察の密偵と話し自らの中国での任務を告白するが、それにもかかわらず釈放された。

[2] べトログラードにおける同大会開催時と時を全く同じくして、山川派のグループは『前衛』誌を創刊する。1922年4月より堺派のグループは『無産階級』誌を、同年6月には『労働組合』誌を発行する。その間、1922年1月よりアナーキストの大杉も同様に『労働運動』誌の再刊行を始めていた。

[3]地方の住民たちの間における食糧不足は非常に拡がった現象であった。繊維産業における一日の労働時間は12時間前後かそれ以上に及んだ。1930年代においてはまだ44%の割合で女性が紡績工場および繊維産業での労働に従事しており、91%の女性労働力が搾取にとって常に最も好都合なように宿舎にて寝泊りしていた。

[4] パウル・キルヒホフ(1900-1972)の変名であるエイフェルはKAPD(ドイツ共産主義労働者党)の一員である。1933年のナチスによる権力掌握後、彼はフランスに亡命し、亡命中のドイツ・トロツキストのグループのために働くが、トロツキストの加入戦術に反対する。1930年と1940年間のメキシコ滞在中、「Groupo de trabajadores marxistas」の機関紙『Communismo(共産主義)』の発行に協力する(1977年6-8月第10号、インターナショナル・レヴュー参照)。

ICConline - 2009

共産主義の左派とマルクス主義の継続

プロレタリア・トリビューン(ロシア)で元出版

1.国際革命の出来事が1920年代の半ばに敗北してから、「社会主義」、「共産主義」、「マルクス主義」という表現より歪んだ、乱用した表現はない。旧東欧圏 のスターリン主義国家、または今日にいたって中国、キューバや北朝鮮という国々は、「共産主義」または「マルクス主義」の表現だというのは20世紀における最大の嘘であり、極右翼から極左翼まで支配階級の全派閥によってわざと仕掛けた嘘でもある。1939~1945年間の帝国主義戦争のうち、人間の歴史上に最大な虐殺のためにロシアの中や外国にいる労働者を動員するためには、「社会主義母国の防御」という神話が使用され、「反ファシズム」に合わせて「民主主義の防御」も使われていた。

この嘘はアメリカやロシア指導の最大帝国主義圏による双方の競争に支配される1945~89年の中、いかにも広い範囲で使用されていた。東方では、ロシア資本の帝国主義的な要望を裏付けるため、そして西方で帝国主義間の衝突を政治思想的に隠す手段(「ソヴィエトの全体主義から民主主義を守ろう」)として、労働者階級の考え方をねじ曲げる手法の一つとしても使用されて、ロシアの強制労働収容所に指しながら、「それは社会主義だとしたら、資本主義には不備があっても、まだましだろう?」と徹底する。とりわけ、東欧圏の崩壊が始まったら、「共産主義の死亡」、「マルクス主義の破産」や労働階級の終章まで意味するといって、このテーマは著しくうるさくなってきた。そして、この傾向に加えて、特にトロツキ派左翼など資本主義の極左翼が、「官僚的なゆがみ」を批判しながらもスターリン国家の遺跡に労働者階級の基盤があったと想像して、ブルジョワの要点を裏付けてしまった。

2.こういう思想のゆがみは、20世紀における実際なマルクス主義の展開と継続性を隠すために役に立った。マルクス主義の偽造した擁護者、つまりスタリン主義者、トロツキ派、そしてマルクス「専門家」の学者、修正主義者と哲学者が注目を集めながら、本物である擁護者は逆に直接に弾圧され、封じられてなくても、追放され、意味がないセクトとして罵声されたり、まして「亡くなった世界」の化石としてはねつけられてきた。さて、20世紀におけるマルクス主義の本当な継続を再現するためにマルクス主義とはどういうことかと、初めに定義する必要がある。1848年の共産主義宣言の初めての宣伝からマルクス主義は、天才で孤立した「思想家」の考え出した成果に定義したものと違って、プロレタリアートの実際な運動の理論的な表現として定義していた。

つまり、戦闘的な理論ではなければならないという、労働者階級の直接かつ歴史的な利害を断固と擁護するもので、搾取される階級の大儀に忠実であることで自らを証明する。この擁護は、プロレタリアートの国際主義という基本的で、不変的な原則に忠実でいる能力に基づいただげでなく、労働階級の体験との生きている関係によってマルクス主義の充実を含んでいる。さらに、マルクス主義は集団的な労働と闘争を体現している階級の成果そのものとして、組織した集団、つまり革命的な分派や党のみによって発展する。そのため、共産主義宣言は、世界初のマルクス主義組織の共産同盟の綱領として作成した。

3.資本主義がまだ拡大方向で上昇する制度であった19世紀の高揚では、ブルジョワ階級は、まるで黒が白ということで、資本主義=社会主義と言い、自らの支配の搾取的な本質を隠そうとする必要がまだなかった。こういった思想のゆがみとは、資本主義の歴史的な衰退において典型的であり、ブルジョワが「マルクス主義」を困惑の道具として利用しようとする努力でよく表現している。だが、資本主義の上昇段階のときに、支配的な思想を圧倒的な形が、労働者運動に入れ込もうとした偽の社会主義の形になってしまった。その理由で、共産主義宣言の作成者がなるべく「封建的」、「資本家」や「小資本家」という社会主義から差異を強調しようとし、第1インタナショナルのマルクス主義の分派はバクニン主義の一方、ラサール の「国家社会主義」に対して闘わなければならなかった。

4.第2インタナショナルの党それぞれはマルクス主義に基づいて結成され、労働運動の様々な考えの組み合わせであった第1インタナショナルを超えた大した進歩になってきた。しかし、労働階級が主に改善に向けて注力していたときである膨大な資本主義の拡大期間で活動していたため、社民党はとくに資本主義システムに組み込まれてしまうプレッシャーを受けやすくなってきた。こういうプレッシャーは、資本主義の必然的な墜落というマルクス主義が革新した予測を「修正しなければならない」と言い、革命的な割り込みなしに社会主義に向けて平和で進化するができるだろう、ということで改善主義派の党の中で表現されてきた。

この期間では、特に1890年代後半と1900年代前半でマルクス主義の継続は、マルクス主義の基本原則の擁護に妥協しないと同時に、資本主義が上昇期間の限界にいたったうちに生まれてきたプロレタリア闘争の新しい条件を把握できた「左翼」の分派によって支持されていた。社民党の左翼を代表する名前はよく知られているだろう。ロシアにレーニン、ドイツにルクセンブルグ、オランダにパネクーク、イタリアにボルディガー、しかしこれらの闘士は独りで活動していなかったということを強調しなければならない。第2インターナショナルでご都合主義が段々と広がってしまう中、これらの左翼は組織した分派として活動しなければならなくなって、ロシアにボルシェビキ、オランダにトリビューン団などが、それぞれ党や国際的に組織してきた。

5.1914年の帝国主義戦争や1917年のロシア革命によって、資本主義が必然に「社会革命の時代に入る」というマルクス主義者の主張を確認し、労働運動の中で根本的な分裂を引き起こした。はじめて、マルクスとエンゲルスに参考していた組織がバリケードの違う側になり、正式な社会民主党の多数は、かつての「改善主義者」の手に陥った結果、初期マルクスの作文を引き合いに出して、ロシアはまだブルジョワー発展期を通らなければならないといって、10月革命を糾弾した。だが、そうしてしまい、決定的にブルジョワーの陣営になって1914年戦争をリクルートする期間する大尉になってから、1918年に反革命の活動家にもなってしまった。

これで証明したのは、マルクス主義を支持するということは、信心深い発言や党のイメージではなく、生きている実践による確認されること。帝国主義の大虐殺のなか、プロレタリアートの国際主義の方針を掲げ続けた、ロシアにおけるプロレタリアート革命を防衛するために駆けつけた、戦争の直後に発生した数多くのストライキや反乱を率いたのは左翼潮流と他ならない。しかも、1919年に設立された共産主義のインターナショナルの中核になったのは、同じその複数の潮流であった。 

6.1919年は戦後革命の波における高揚であり、創設会議では共産インタはプロレタリア運動のもっとも先端的な姿勢を表現していた。それは、民主愛国主義者との完全な決裂、資本主義の衰退期が必要にする大衆行動という労働者の方法、資本主義国家の崩壊や労働者ソビエトによる国際的な独裁という姿勢であった。この綱領の明視は、革命波の巨大な影響を反映していたし、元共産党の中に活動していた左翼分派の政治的かつ理論的な貢献にもよって準備されていた。したがって、カウツキ氏の法律尊重かつ漸進(ぜんしん)主義に反対して、ルクセンブルグ氏とパネクーク氏は革命の実として大衆ストライキを掲げ、カウツキ氏が議会に服従した姿勢に反対して、パネクーク氏、ブハーリン氏とレーニン氏はマルクスが粘ったブルジョワ国家を崩壊して、コミューンの状況を作り上げるという必要性を復活させて更新した。こういう理論的な発展は、ついに革命の鈴が鳴ったときに実践的な政治になってきた。

7.革命的な波の撤退、そしてロシア革命の強制孤立が、共産インタとロシアにおけるソビエトの力が衰退していく過程を引き起こした。ボルシェビキ党はますます、プロレタリアート機関の力と参加に反比例で成長していった官僚的な国家構造に結合してしまった。第2インタの中でも、大衆行動が減った時期における大衆的な支持を得るために行った試みは、日和見主義に基づいた「解決」を生み出した。つまり、議会や労組で活動しようという強調が強まり、帝国主義に対して「東方の人民」が立ち上がるようにアピールしたあげく、なによりも民主愛国主義者の資本主義本質を明らかにした理解を捨てしまった統一前線の政策のことである。

第2インタで日和見主義の成長は、左翼分派という形で反応を引き起こしたと同様に、第3インタで跳ね上がった日和見主義は共産主義左翼の諸潮流によって、対抗され、パネクークとボルディガーを含めてそれぞれ分派の先駆者の多くは、前のインタで自らマルクス主義の最高な弁護者として保証した。共産主義左翼は基本的に国際的な潮流で、ブルガリアからイギリス、米国から南アフリカまで、多国にわたって同じ姿勢が表現されていた。だが、もっとも大切なその代表者たちは、ドイツ、イタリアとロシアというマルクス主義の伝統がもっとも強い国にいていた。

8.ドイツでは、マルクス主義の深さと、実際にプロレタリアート大衆の膨大な刺激と合わせて、革命波の高揚における、とくに議会や労組問題に関するもっとも前進的な政治的な姿勢を生み出した。だが、左翼共産主義というのはドイツ共産党や第2インタで発生した御都合主義の兆しに対する反応として表れ、KPDにおける左翼反対派がとんでもない仕掛けで追い出されてから結成したKAPD(労働者共産党)に指揮されていた。当時の第2インタの指導者により、「小児症っぽい」と「アナルコ・シンジカリスト」として批判される中、過去の議会と労組を中心にした路線の拒否は、資本主義の衰退を取り上げたマルクス主義の分析に基づいた。この分析とは、議会や労組という戦略を廃れさせて、工場評議会や労働者評議会という新しい階級組織を呼びかけた。同じく、「大衆共産党」という社会民主主義を拒否して、(ボルシェビキから受け継いだ)綱領が明かりかな中核を支持した姿勢もそうであった。KAPDは、古い議会主義線路に反対している、こういった獲得した戦略の断固とした擁護によって。その運動は、パネクークやゴーターの著作により、ドイツとのつながりが強いため、とくにオランダの革命運動をはじめ、多国で表現が盛り上がっていた国際潮流の中核になってきた。

だが、ドイツの左翼共産主義は1920年代で大事な弱点が無かったというわけでもない。資本主義の崩落を、長く引き延ばされた過程より、最終的な「死亡危機」とみなしてしまう傾向は、革命波の撤退が見えなくなって、御都合主義の危険性に晒されてしまった。組織の問題も入ってしまって、共産主義インタと早まった決裂をしてしまって、1922年に新しいインタを設立しようと試んでしまった。

To be continued....

前史

CCIよりの紹介文

CCI発の「International Review」における僅かの記事、そして現地の週刊誌で述べたように、フランスにおける1968年5月の革命的な出来事は世界中にわたってより広い運動の一部にすぎませんでした。

日本にいる同士よりの記事をここで掲載しており、本記事は日本の特定や困難な歴史にもかかわらず、当時の広い運動は日本にも同様な運動があったというのをはっかり表現しています。

未来のプロレタリア革命は国際主義に基づいた国際的なものでなければ、何も起こりません。現在、世界中国際主義者の最大な義務になるのは、現場の経験を世界時事の枠に入れること、そしてある地域における労働階級の動きが世界中のより広いコンテキストの一部、またはそのコンテキストの一つの表現に過ぎないことを理解し、瀕死の資本主義を打倒させる未来のために過去の出来事をめぐって労働階級中の国際的な議論に貢献することだと思っています。したがって1968年日本の出来事を歴史的かつグローバルな枠に入れようとするケン同士の努力を称賛します。「こうして日本の「68年」の概略を振り返ることを通して、全世界の労働者階級との国際主義的団結(それは当時においても現在においても、最も重要なものである)を図ることができれば幸いである。」という彼の結論を心込めて支持しています。

記事の中で翻訳の問題、または私たちが日本歴史を不十分に把握しているせいで曖昧な点が僅かありました。日本の国際主義者の中、そして一般的にも大切な論点だと思っているため、数点を取り上げてみました。

60年代で労働者の闘争はいくつかの新しい特徴が誕生尾したのは明らかで、自主組織、敢えて自主管理までの試みのいくつかは例えばヨーロッパと同様なものが発生したようです。当時、「社会主義」や「共産主義」(つまりスターリン主義)党による労働者たちが影響されることは当然だろうが、ある程度これは総評に重点を与えるのではないかと思っています。しかし私たちにはまだ総評がどれほど労働者の本格的な表現だったのかが記事で明らかにならず、例えば山猫ストライキから新しい労組を作る無理な試みになったか、それとも支配階級の左派が労働者の不満や闘争を相和するための「よりラディカルな構造」を作るための試みでした?総評の経験から現在の労働者闘争のために、どんな教訓を引き出せるでしょうか?特に1980年ポーランドの巨大なストライキ波など、世界中労働者の闘争とどんな比較ができるでしょう?

日本の同士と話していたら私にとって明らかになったのは、主な左翼団体やセクトの内ゲバが激化した始末に一般的な政治環境に対してもトラウマになりました(今まで100人も死者が出て、1000人以上が負傷したらしい)になりました。それからどんな教訓を引き出せるでしょう?同士がおっしゃるように「既成左翼勢力の影響力は著しく低下している」のはなぜでしょうか?私たちから見ると、1968年日本の新世代は二つの欠点を背負っていて、軍隊によって占領されている国なため、反アメリカ愛国主義に向かう傾向や、参考点となりうる左派共産主義の伝統がないという二つで不利な立場になり、ローザ・ルクセンブルク氏、アントン・パンネクーク氏やゴーター氏などの著作物はほとんど知られず、イタリア左派共産主義の伝統は一切伝わっていないようです。

本記事では「ベトナムーインドシナ革命戦争」、そして「ベトナムとアジア人民

との革命的な連帯」について同士は語っています。私たちからしたら、ベトナム戦争は米国を一方で、中国やロシアがバックになったベトコンとの間に展開した帝国主義的な衝突でした。ベトナム戦争を反対した若者の中で、ほんの一部がその戦争の拒否を本当の国際主義的な姿勢に展開させて、どんな帝国主義的な戦争にも参加しない、帝国主義間の衝突における両側で階級闘争を呼びかける姿勢をとりました。歴史の悲惨に、世界中で「帝国主義」に対する闘争を強化すると考えて多くの若者が民族解放闘争を応援するように引き寄せられてしまいました。40年間後になっての判断で、当時の戦争の本質をより深く把握するのは肝心だと思います。いわゆる民族解放闘争について、どんなバランスシートを作成できるでしょうか?

翻訳の量を減らすためにこの紹介文をなるべく短くしました。明らかに、本記事で出てきた論点は討論する必要はあるが、上記に書いた3点がもっとも大事ではないかと思います。本記事がCCIのコメント付きで英語や日本語で掲載されることによって、「日本の68年」のより良い理解に貢献する、そして国際主義に基づいた左派を強化する国際的な議論を励むように願っています。そういう意味で「世界は広くなる同時にも小さくなる!」

CCI、2008年7月


戦後史において画期的な高揚をみせた60年安保闘争(日米安全保障条約反対闘争)以降、沈滞したかのように見えた日本の反体制運動は、全国の大学における学生自治会運動として一定の大衆的基盤を保持していった。65年、日韓闘争(日韓条約締結反対闘争)等を経て、やがてベトナム反戦運動、全国学園闘争-全共闘運動、70年安保-沖縄闘争という政治の季節をむかえることとなる。

労働運動においては戦後最大の労働争議となった三井三池闘争(59~60年)、60年安保闘争を率いたSOHYO(General Council of Trade Unions of Japan )が反戦平和と民主主義的諸課題を掲げ、組織の定着を図っていった。

また、既成政党である日本社会党・日本共産党、その影響下にある学生・労働者-総評傘下の労働組合以外に、共産主義者同盟(Japan Communist League[BUND]、60年安保闘争時における全学連主流派)各派、日本革命的共産主義者同盟(Japan Revolutionary Communist League 、日本トロツキスト聯盟を母体とする)各派などが闘いを牽引した。

これらのグループはハンガリー事件(56年)等に関連したソ連邦-スターリン主義批判、日本共産党の路線転換への批判をとおして50年代後半~60年代に結成された団体である。

全国学園闘争-全共闘運動

全世界的規模でベトナム反戦運動が拡大するなか、日本においても大学における闘いが高揚してゆく。

64年慶應義塾大学、65年早稲田大学、66年中央大学で、学費値上げ反対闘争が闘われた。

68年、東京大学において、「登録医」制度に反対して医学部が無期限ストライキ。全学共闘会議(全共闘)が結成され、10学部で無期限ストライキ-バリケード封鎖。翌69年、8500名の機動隊導入により、安田講堂を始めとする封鎖が実力解除される。東京大学構内での逮捕者は600名以上。同年の東京大学の入学試験は中止となる。

当時日本最大の私立大学であった日本大学では、不正入学斡旋に関する教授の脱税、20億円をこえる使途不明金発覚が闘いの端緒となった。68年、大学当局と右翼・体育会系学生との武装的対決の中で、全学無期限バリケードストライキが開始された。大学側全理事が出席せざるを得ない状況下で開催された大衆団交には3万5千人におよぶ学生が集まった。

東大闘争・日大闘争に象徴される日本の学生運動-全共闘運動は、全国300以上の大学・高校において展開された。バリケード封鎖・ストライキによる闘いは70年前夜まで続き、折りしも高揚するベトナム反戦運動・70年安保-沖縄闘争と連携し、その隊列は街頭へ歩を進めてゆく。

60年安保闘争時の全学連と全共闘の決定的な差異は組織論にある。

全学連はその名の通り「全日本学生自治会総連合  All-Japan Federation of Students' Self-Governing Associations 」であり、大学-学部-クラス-個人(自動的全員加盟)というタテ構造を支えとし、「Potsdam自治会」と批判されたようにその性格はアメリカ占領軍による戦後処理の一環-「上からの民主化」に対応していた。

一方、全共闘は自治会-全学連運動-党派主義とは対極の、自由参加を前提とした直接民主主義的な大衆的運動体を目指した。 そもそもは個別闘争課題を軸とした評議会的性格の濃い横断的組織であり、その多数はノンセクト・ラディカルズだった。

ベトナム反戦運動

60年安保-反戦反基地闘争、日韓条約反対闘争等の成果を受け継ぐなかで、日本においてもベトナム反戦運動が始まった。

65年「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)が結成される。規約や会員制度もなく、参加する個人の自発性・自立性に依拠したその運動は全国に広がり、300以上のグループが活動した。

学生-全学連と社会党-総評などの労働組合や反戦青年委員会が中心となり、様々な闘いが展開されてゆく。

67年10月、第一次羽田闘争。佐藤栄作首相南ベトナム訪問を阻止する闘い。京都大学学生が死亡。

同月、国際反戦デー。各地で行われたデモや集会に140万人が参加。

11月、第二次羽田闘争(首相訪米阻止闘争)。全学連、機動隊と十時間におよぶ激闘。この日の逮捕者は全国で300名以上。

68年1月、米原子力空母エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争。

2月、三里塚空港(新東京国際空港)粉砕現地集会。空港反対同盟農民と学生、初めての共闘。3000名が機動隊と衝突。

2~3月、王子野戦病院開設阻止闘争。東京都内で実力闘争が続く。

4月、沖縄デー闘争。全国で25万人が参加。革命的共産主義者同盟(中核派)と共産主義者同盟に破壊活動防止法が適用される。

〔5月、パリでゼネスト。〕

10月、国際反戦統一行動。「ベトナム侵略戦争反対、沖縄奪還、日米安保条約粉砕」をスローガンに全国450万人が参加。共産主義者同盟-社会主義学生同盟が防衛庁、社会党・社会主義青年同盟学生班協議会解放派が国会・アメリカ大使館を攻撃、突入。中核派・社会主義学生同盟ML派・第4インターナショナル日本支部らと市民が米軍燃料タンク輸送の拠点である新宿駅を占拠。駅前、周辺で数万人の集会。国鉄労働者-動力車労働組合・国鉄労働組合が時限ストライキ。 政府は騒乱罪の適用を決定。

69年4月、沖縄デー闘争。

9月、全国全共闘連合結成集会。全国46大学178全共闘組織の学生2万6千人が東京に結集。

10月、国際反戦デー。社会党・共産党・総評など86万人が統一行動。厳戒態勢のなか、新左翼諸党派が東京各所で武装闘争。警察署・交番を襲撃。火炎瓶のみならず手製爆弾の組織的使用など、戦術がエスカレートする。1500名以上の逮捕者。

同月、国鉄労働者が、11月には全国67単産の労働者400万人が24時間ストライキ等実力闘争。

等が闘われ、70年安保闘争-沖縄闘争へと引き継がれてゆく。

労働運動とその他の闘い

60年代の高度経済成長の上に、「ソ連-社会主義圏」の存在と反帝(反米)闘争-民族解放闘争の前進、国内的には安保-沖縄-ベトナム反戦という政治課題を抱えながら、日本労働運動は社会党・共産党・総評などを軸に一定の高揚期を向かえていた。労働争議-ストライキは68年ころより急増(争議件数・参加人数とも)、74年にピークを迎える。こうして74年国民春闘(71単産227万人によるストライキ。賃上げ率32.9%を実現したといわれる)、戦後2番目の大闘争と呼ばれた75年スト権スト(国鉄労働組合・国鉄動力車労働組合などによるKOROKYO〔Federation of Public Corporation and Government Enterprise Workers'Union〕が主体)等が闘われてゆく。

新左翼諸党派は各々「階級的労働運動の創出」等の目標をかかげ、既成労働戦線へ介入し左派形成を図っていった。また未組織-中小零細-下層労働者の組織化、地域組合の結成、自主生産・自主管理闘争等、独自の方向性を目指した。

65年に社会党系の青年労働者組織として結成された反戦青年委員会(ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための青年委員会)は、、「自主・創意・統一」のスローガンのもと、所属労組や上部団体にとらわれない大衆的な広がりを持ったが、やがて全共闘運動と同じく党派のヘゲモニー争いの場となった。

反安保-反戦反基地闘争、沖縄闘争、三里塚闘争が継続的に闘われてゆくなか、70年代に入り、新左翼諸党派も入管闘争(出入国管理及び難民認定法をめぐる闘い)-在日韓国・朝鮮人・中国人への連帯闘争、韓国ASEAN人民との国際連帯運動、女性解放運動、部落解放運動、障がい者解放運動など個別の闘いに力を入れるようになる。

さらに地域住民闘争、水俣などの反公害運動、反核反原発運動、環境保護運動、寄せ場闘争

(山谷・釜ケ崎等の日雇い労働者の闘い)、反天皇制運動などが取り組まれてゆく。

「68年」がもたらしたもの

今日、日本の戦後支配体制-「五五年体制」は「崩壊」した。自由民主党一党独裁から民主党との二大政党時代へ。支配の左補完物としての日本社会党は解体、日本共産党も国会での議席を大きく減少、既成左翼勢力の影響力は著しく低下している。

日米安保体制は一層強化され、いまだ全国135ヶ所に米軍基地・施設が存在する(沖縄本島に至っては全島の約20%を米軍が占有)。そしてイラク戦争派兵や朝鮮民主主義人民共和国の「脅威」を契機に平和憲法「第九条」改悪の動きが急を告げている。

労働戦線では総評が解体、RENGO(Japanese Trade Union Confederation )へ合流した。「社会党・共産党に代わる革命的労働者党」と「階級的労働運動」の創出を目指してきた新左翼諸党派も、停滞を余儀なくされている。

こうしたなか、「68年」という世界史の分岐点が持つ意味を解読することは重要である。とりわけわたしたち日本の労働者階級にとって、国際共産主義運動の観点から日本の「68年」を総括する意味は大きい。

1)戦前コミンテルン日本支部時代、そして戦後に合法化、「自主独立」し、議会主義に転落してゆく日本共産党のもたらした成果と限界。

2)スターリン主義批判と日本共産党批判、結果としての新左翼あるいは日本型トロツキズムの誕生と停滞。

以上を前提として、学生・青年労働者を中心に発展していった日本の「68年」は、フランス・アメリカ合州国の「68年」や「プラハの春」、69年イタリア「熱い秋」、70~71年冬、やがて「連帯」へ連なってゆくポーランドの大ストライキ、あるいはベトナム-インドシナ革命戦争といかに連動し得たのか?

今後もわたしたちは問い続けてゆかねばならない。

日本の「68年」は、自らの存在や闘いも含めた「戦後民主主義」そのものの内実を問い、既成左翼-スターリン主義や社民主義等が提起する歪んだ未来を拒否する闘いだった。日本労働者階級自身が自らのヘゲモニーによって未来を現実のものとしようとした新しい闘いだった。そしてそれはプロレタリア国際主義、とりわけベトナム-アジア人民との革命的連帯を模索する闘いであり、真の世界平和とすべての差別・抑圧・排外主義の廃絶を目指す闘いでもあった。

結果としてその高揚は急進民主主義の域を大きく超えることができず、一部はテロリズムへ純化していった。5000万人労働者の多数の支持も決起も得られることなく、闘いの課題はほとんど実現できずに、今日に至っているかのように見える。

しかしわたしたちは、「68年」以降の、日本の様々な政治・経済・社会全般の制度的変化に気付く。

「外国人登録法」指紋押捺制度( 在日外国人への指紋押捺義務付け)の廃止。「男女雇用機会均等法」の制定。障がい者へのbarrier free やnormalization の概念が少しずつ浸透してくる(この国が「何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない」〔「障害者基本法」〕と初めて法的に態度を明らかにしたのは、なんと2004年!のことではあるが。)。エコロジー・省エネルギー・脱公害は、水俣の闘いが開始された時代とまったく異なり、いまや官や企業が真っ先に口にする課題とさえなった。人権擁護運動・環境保護運動・地域住民闘争のいくつかはNGO(non-governmental organization) ・NPO(non-profit organization)として形を変え、課題への取り組みを持続させている。等々・・・。

当時まったく実現不能にさえ見えた事柄のいくつかは現実のものとなっている(その有効性はともかくとして)。当然、その事柄のほとんどは「民主主義」的諸課題であり、その実現は敵階級の妥協と融和を示す象徴にほかならない。わたしたちはこうした階級協調の数々に日本資本主義の現状を見据え、いささかも警戒心を緩めることなく真の勝利へ邁進する必要がある。

しかし社会運動としての「68年」は、今日にいたっても少なからぬ影響を与えつづけている。単なる反体制運動や対抗文化という枠組みを超えて全社会へ拡散していった「68年」の種子は、今後も確実に変革への成長を遂げてゆくだろう。

「68年」という歴史の分岐点から早三十年。

こうして日本の「68年」の概略を振り返ることを通して、全世界の労働者階級との国際主義的団結(それは当時においても現在においても、最も重要なものである)を図ることができれば幸いである。

ヨーロッパで闘うすべての同志の皆さん。

世界は広がり、かつ狭くなりつつある。わたしたちはあなたがたのすぐ側で団結への機会を待っている。

(23/03/2008   Ken)