ICConline - 2011

”怒れる”スペインの人たちとの連帯 - 未来は労働者階級の手にある!

多くの国で、強姦未遂で逮捕されたIMF専務理事であったドミニク・シュトラウス=カーンを巡るスキャンダルに光が当たっていた時、より重大な出来事がヨーロッパを揺るがしていた - 5月15日のマドリッドのプエルタ・デル・ソル広場の占拠に端を発したスペインでの暴力的な社会的抗議行動だ。この動きは、膨大な数の民衆、特に失業やサパテロ政権の切り詰め政策、政治家の汚職などに憤慨している若い民衆が担っている。この社会運動はFacebookやTwitterなどのソーシャルネットのおかげでバルセロナ、バレンシア、グラナダ、セビリア、マラガ、レオンと国中の大都市に急速に飛び火した。しかし情報がピレネー山脈を越えてフランス方面に行き渡ったとは言いがたい。フランスではソーシャルネットワークとオルタナティブ・メディアのみで5月中旬以降の出来事を写真やビデオで報じられたに過ぎないからだ。ブルジョア的メディア、とりわけフランスのメディアが今回の出来事に関して突如「停電」し、ドミニク・シュトラウス=カーンの事件を巡る犯罪ドラマで埋め尽くそうとするのは、この運動が、資本主義に潜む袋小路に対抗する社会運動と世界の労働者階級の闘いの進展に向けた重要なステップを明示しているからだ。

"怒れる"スペインの人たちによる行動は2010年9月29日の年金改革に反対するゼネスト以来徐々に熟してきた。このストライキは労働組合が政府との合意の席に着き、改革案を受け入れたことによって敗北に終わった(現在40-50歳代の従業員は年金受給開始時の受取金が現行より20%削減されることになる)。この敗北は労働者階級の強い屈辱を呼び起こした。そしてこの年金改革を巡る闘いを積極的に支援した若者、とりわけピケに参加した多くの若い人たちの間には強烈な怒りが溜まることになった。

2011年の初めにこの怒りはいくつかの大学で沸騰した。3月には隣のポルトガルで"若い貧民"グループによってインターネットでデモの告知がなされた。その後約25万人がリスボンでのデモに参加した。この流れは瞬く間にマドリッドを中心としたスペインの大学に広がった。殆どの学生や30歳以下の若者は、ちょっとした仕事によってもたらされる月に600ユーロ以下の収入で糊口を凌いでいる。このような背景に基づき100名ほどの学生からなるグループは"未来のない若者たち"(Jovenes sin futuro)というグループを立ち上げた。これら労働者階級出身の持たざる大学生たちは、「家なし、仕事なし、怖いものなし」というモットーのもと結集した。彼/女たちは4月7日のデモを呼びかけた。5000人が参加したこのデモは、"若い貧民"グループを勇気付け、5月15日のデモを計画することとなった。その間マドリッドで、左翼からも右翼にも属しない非政治的だが失業と市場の独裁に対抗するプラットフォームとなる"今こそ真の民主主義を"(Democracia Real Ya)コレクティブが立ち上げられた。"今こそ真の民主主義を"も同様に5月15日に集会開催をその他の都市で呼びかけた。マドリッドでそれは最も成功し、25万人がデモに参加した。整然とした抗議の列はプエルタ・デル・ソル広場で解散するはずだった。

未来のない若者の怒りは全住民に飛び火する

"今こそ真の民主主義を"が呼びかけた5月15日の集会は成功裏に経過した。集会は住民、とりわけ職業訓練や学業の後の失業に疑問を持つ若者の間に広がる不快感を反映した。すべてはそこで終わるはずだったが、マドリッドとグラナダの集会では最後に"ブラックブロック"による衝突が起こった。警察は暴力的に対応し20人を逮捕した。警察に虐げられた逮捕者たちは結集し、警察の暴力を告発する共同声明を出した。声明は、瞬く間に治安組織の横暴に対する大きな怒りと連帯意識を引き起こした。約30名の無名で組織されていない人たちは、マドリッドのプエルタ・デル・ソル広場を占拠し、キャンプ場を設置することを決定した。このイニシアティブはすぐさま飛び火し、住民の強い同情を引き起こした。このような例は、同日、バルセロナやグラナダ、バレンシアなどの都市でも起こった。警察による一連の新たな暴力は火に油を注ぐこととなり、以来70を超える都市で雲霞のごとく抗議者たちが集い、その数は増え続けている。

5月15日の運動のオーガナイザーは5月17日に無言による抗議行動および演劇を予定していたが、広場に集まった人たちは、集会の開催を要求した。集会はマドリッドやバレンシア、その他の都市で午後8時に始まった。5月18日水曜日以降、この集会の様相は公共の場での一般にも開かれた集会へと変わった。

弾圧と地域および地方選挙の状況に対して、"今こそ真の民主主義を"コレクティブはスペインにおける「新たな民主主義」の目標に向かってディベートを開いた。PSOE(社会労働党)/国民党の二重政党制度を克服し、フランコ政権後の34年間にわたる「不完全な民主主義」に変わる「真の民主主義」のため、選挙法の改善が要求された。

しかし、この"怒れる人たち"による運動は、"今こそ真の民主主義を"コレクティブによるさらなる民主主義とその改革の要求以上のものとなった。運動は"月収600ユーロの失われた世代"の若者の放棄だけに留まるものではなかった。マドリッド、バルセロナ、バレンシアそしてマラガなどでのデモや占拠された場所では「資本によらない民主主義」、「PSOEとPP(国民党)-どちらもクソ」、「資本主義ではない未来を」、「あなたたちが夢を見る間も与えようとしないなら、われわれはあなたたちを眠らせない」、「集会に決めさせろ」、「問題は民主主義ではない。資本主義だ」、「仕事なし、家なし、怖いものなし ー 労働者よ目覚めよ!」、「月収600ユーロ、これは暴力だ」、「そんなに投票が危険ならとっくに禁止されているはず」といった横断幕やプラカードを見ることができた。バレンシアでは女性たちが「私たちの祖父母たちはだまされた。私たちの子供は混乱に陥れられた。私たちの孫たちまで騙されないようにしなければいけない」と叫んだ。

集会 - 未来のための武器

公約を決して守らず、留まることなく悪化していく経済危機の要請によって予算を削ることしかしない政治家を、4年に一度の選挙選ぶことに限定されているブルジョア民主主義に対して、"怒れる"スペインの人たちによる運動は、自発的に公共的で開かれた集会という労働者階級の闘争のための武器を手に入れた。街中に何十万人ものあらゆる世代のあらゆる搾取している階層以外の人々が集まった。集会では誰もが怒りを表し、ディベートではさまざまな質疑をつき合わし、提案することができる。この公共的な勢いに満ちた空気の中で人々は勇気付けられ、政治的、文化的、経済的とあらゆる社会的な人生について喋りだす。広場では互いを尊重しあう団結心に満ちた環境で議論がなされ、膨大な量のアイデアが集まった。いくつかの都市では、。誰もが自分たちのアイデアを文章で投函できるように"アイデアボックス"が設置された。運動は賢明な形でオーガナイズされている。セキュリティ要員との無用な衝突を避けるため、委員会が設置された。参加者内での暴力は禁止されている。「革命は泥酔とは違う」という名のもと、アルコール禁止が行き渡っている。毎日清掃チームがオーガナイズされている。公共食堂では食事が提供され、ボランティアの人たちによる保育所ができた。図書館と"アイデア銀行"(学術的および文化、政治、経済テーマ、芸術的事柄を扱う)が設置された。"考える日"が計画された。あらゆる人が自身の知識と能力を持ち寄る。

一見このような流れは何一つ現実的な意味をもたらさないように思える。何一つ現実的な提案はなされていないし、何一つ現実的あるいはすぐに実行可能な要求もなされていない。しかし、極度の貧困や予算削減への不安、現状の社会的規範や社会的原子化(ばらばらにされる個人)を打ち破り、再び結合し、議論し共に熟慮するための共同の意思が言葉として表された。多大な混乱や幻想にも関わらず"革命"という言葉は人々の会話や横断幕、プラカードに出てくる。そしてその言葉を人々は最早恐れない。

集会でのディベートは根本的な疑問を提起した。

我々は"民主主義の改善"に限定すべきだろうか?変革することができず乗り越えなければいけないシステム、資本主義自体に根源があるのではないだろうか?

運動は選挙後の3月22日で終わらせるべきか、それとも我々の生存条件への攻撃、失業、貧しい生存状況、住居からの追 い出しなどに対する闘いを通じて続けるべきだろうか?

集会を職場に、都市の各地区に、労働局に、ギムナジウムに、学校に、大学に広げるべきだろうか?運動を、今拡がっている一般的な闘争に唯一参加できる状況にある労働者階級のみに限定すべきではないのではないだろうか?

集会でのディベートは2つの傾向へと昇華した。

ひとつの保守的傾向、プロレタリアートに属さない層が持つ「資本主義システムは"ブルジョア(市民)による民主革命"によって変革できるだろう」という幻想が振りまかれている。

その他プロレタリアートが示す傾向。それは資本主義の超克の必要を強調している。5月22日の選挙の投票日に開かれた集会では運動の継続が決定された。多くの演説は「我々は選挙のためにここにいるわけではない。何かが起こる瞬間に立ち会っているのだ」と、強調した。プロレタリアートの勢いは失業、貧困化、社会の解体に対抗する要求によって「労働者階級に向かって運動する」という提案を通じて急速に膨張した。プエルタ・デル・ソル広場では市内の各地区で国民集会を組織することが決定された。職場、大学、労働局への運動の拡大の提案もなされた。マラガ、バルセロナそしてバレンシアの集会では、社会保障の削減にたいするデモの組織が提起され、加えて新たなゼネストー演説者によれば「本当のゼネスト」-が提案された。

とりわけスペインの産業の中心都市であるバルセロナのカタルーニャ広場での中央集会は、"民主的な改革"への幻想に対する明白な拒否を表明した、もっともラディカルで強力なプロレタリアートの勢いが刻み込まれた集会となった。社会保障削減に反対するテレフォニカ(スペインの大手通信業者)の従業員、医療従業員、消防署員、学生たちもこれに反対し、別の意見の声をあげた。5月25日にマドリッドのプエルタ・デル・ソル広場での集会が運動の「非中央集権」化と、「水平かつ参加型民主主義」を可能にするため、都市の各地区で"国民集会"を召集することを決定する一方、カタルーニャ広場での集会は医療従業員のストライキへの積極的な支援を決定した。バレンシアではバスの運転手たちが教育予算の削減に反対するデモに加わった。サラゴサではバスの運転手たちは熱意を持って集会に参加した。

バルセロナでは"怒れる人たち"がカタルーニャ広場のキャンプ場を6月15日まで維持することを決定した。

未来は若い労働者階級の手にある

今も究極の目標に向かって進展しているスペインでの若者たち(20-25歳の年齢層は45%という異常な高率となっている失業と戦っている)が引き起こした反乱は、労働者階級の闘いの一部であることは明らかだ。彼/女たちの労働者階級の世界的な闘いへの貢献は否定できない。このいたるところに拡大した運動は、すべての非搾取者階層、特にすべての世代の労働者階級を魅了した。

それは、すべての非搾取的な階層とすべての世代の労働者階級を引きつける広範な闘いとなった。たとえ階級が、大衆の怒りの波を一部しか手にしていなくとも、大規模なストライキと特定の経済要求をとおして階級自身を主張しなかったにせよ、この運動は世界を変革することができる唯一の階級の、真の意識の成熟を表している。

ブロレタリアート。この重要な人の群れが、西ヨーロッパの「民主主義」国で起ち上がりつつあり、資本主義がますますはっきりとした破綻の局面にあることを明らかにする。そしてブロレタリアートの闘いは政治化への道を拓いてゆく。

さらに何よりもこの運動は、若者、臨時工や失業者-大衆の多数、に労働者階級が闘いの武器を自分のものにすることができるという可能性を示した。

大規模で、広範に開かれた集会。人々は団結を主張し、政党や労働組合の外で、自分たち自身が運動をコントロールすることを認めた。

この運動の中から飛び出した「すべての権力を集会に」というスローガンは、今のところ少数派に過ぎないが、ロシア革命での「すべての権力を労農評議会(ソヴィエト)に」というスローガンの焼き直しだ。

「共産主義」という言葉が今日でも不安を呼び起こす(東側およびスターリン型政権崩壊後に堰を切った支配者のキャンペーンの影響が大きい)としても、反対に「革命」という言葉は恐れを呼び起こさない。まったく逆だ!

この革命は"今こそ本当の民主主義を"コレクティブが主張するような"スペイン革命"ではありえない。失業、貧困化、高い物価、悪くなる一方の搾取される民衆の生存状況はスペインだけの特別な状況ではない。失業、特に若者の失業の陰惨なしかめっ面はマドリッドとカイロ、さらにはロンドンとパリでも見ることができる。まったくアテナとブエノスアイレスで見ることができるように。私たちすべてが奈落の底へと崩落していく資本主義と共に落ち行く当事者なのだ。この奈落は貧困化と失業だけでなく増大する核による破局、戦争、社会的繋がりの解体ーモラル的野蛮人との繋がり(特に"文明"諸国におけるレイプや女性に対する暴力)によっても出来ている。

"怒れる人たち"による運動は革命ではない。"未来のない若者"と、すべての人類の展望を開いたこの運動は、単に社会闘争と世界の労働者階級による闘争の進展の最初の場として現れたに過ぎない。

運動は、混乱と幻想にも関わらず、ブルジョア社会の中にあるプエルタ・デル・ソル"無依存共和国"は、もうひとつの社会を成熟させることを明白にしている。この「スペインの激震」は、失うものを持たない新しい労働者階級世代が、既に歴史を動かす存在となりうることを示した。彼/女らは究極的には人類の解放への道と繋がる今後の社会的激震の土台を築こうとしている。ソーシャルネット、携帯、その他の新しいコミュニケーション手段によってこうした若い世代は、支配者と支配者に連なるメディアが押し付ける情報の暗闇を打ち破り、国境を越えた団結を築きあげることができるという自身の能力を証明した。

新しい世代の労働者階級は2003年に世界中の社会という舞台に、まずはブッシュ政権によるイラク軍事侵攻へ反対する勢力として(多くの国で若者がブッシュ政権に抗議した)、その後2003年のフランスでの年金改革反対デモに登場した。2006年にはフランスの高校生たちがCPEに強烈に反対して路上に現れた。ギリシャ、イタリア、ポルトガル、イギリスでは職業訓練生の若者たちも同様に、資本主義が提案する、絶対的貧困と失業という唯一の見通しに反対する声を上げた。この"新しい未来のない世代"の怒りの波は少し前にチュニジアとエジプトを襲い、ベン・アリとムバラクを突き落とす社会的反乱を巻き起こした。しかし、強力な"民主主義"諸国の支配者たち(特にバラク・オバマ)は、デモ参加者たちのストライキやゼネストによる脅しが苦い敗北を帰した時に、ベン・アリとムバラクを陥落させざるを得ない状況に追い込まれたという決定的な瞬間を忘れてはならない。以来ターリル広場は多くの国の若い世代の労働者階級を尻目に闘いを鼓舞する象徴となった。この例に続き、スペインの"怒れる人たち"はプエルタ・デル・ソル広場にキャンプ場を設営し、70以上の都市で公共の場を選挙し、あらゆる世代のあらゆる非搾取者層とともに集会を開いた(バルセロナの"怒れる人たち"はカタロニア広場をターリル広場と改名すらした)。

スペインにおける運動は、カイロのタリールスクエアに結実した素晴らしい反乱とは異なる深い意義を持つ。それはイベリア半島(2つの大陸を連絡する橋である)の主要国で起こった。

西欧(そのいくつかは「社会主義」政府!によってリードされてきた)の「民主主義」国家において、この事実はチュニジア「ジャスミン革命」以来、メディアで振りまかれた「民主主義」の神秘化を侵食してゆくことに役立つだろう。

怒れる若者たちが起こした運動の際の避けることのできない幻想と混乱にも関わらず、運動は今日爆発的広がりを見せている社会闘争における、ある非常に重要な繋がりを示している。経済危機が深刻さを増すにつれて、労働者階級の階級闘争を伴う社会闘争も常に増していく。

"未来のない"若者世代の勇気、覚悟、そして深く根付いた団結心は、もうひとつの世界は可能だということをしめしている。共産主義とは世界的な共同体の連合を意味する。しかしこの人類の「古くからの夢」を実現させるためには、まずこの世界の富の殆どを生産する労働者階級が自らの階級意識を再び発見しなければならない。それによって搾取とあらゆる資本主義による攻撃に対し、世界中での彼/女らの猛烈な闘いが繰り広げられることになる。

"怒れる人たち"による、革命を問う運動は始まった。世界中の労働者階級は資本主義を克服するという来るべき闘いにおいてこの問いを解くという宿題を与えられている。商品の生産と利益に立脚した搾取システムの残骸の上にのみ、新しい世代は人類は自身の尊厳を取り戻し、真の普遍的な"民主主義"からなるこれまでとは異なる社会を創出することができる。

ソフィアン 2011年5月27日

1. "グローバルな革命"と国境を越えた運動への"拡大"を呼びかけているスローガンを聞くことができる。すべての集会で国際評議会が開催されている。"怒れる人たち"による運動は、ヨーロッパ、アメリカ大陸大都市へと拡散している(のみならず東京、プノンペン、ハノイでは外国に住む若いスペイン人が"今こそ真の民主主義を"コレクティブの旗を掲げた)。


International Review誌Web版より訳出

共産主義左派とマルクス主義の継続

Article published in Proletarian Tribune (Russia)

プロレタリア・トリビューン(ロシア)に掲載された記事


) 1920年代中盤の革命の波の敗北以来、共産主義とマルクス主義ほど誤用や曲解された用語はない。スターリン政権下の旧東側諸国や今日の中国、キューバ、北朝鮮が共産主義およびマルクス主義の表れだとする説はまさに20世紀最大級の嘘である。この嘘は極左から極右まで、あらゆる支配階級の派閥によって用いられている。1839-45年の第二次「帝国主義」世界大戦の間、「社会主義祖国の防衛」という神話は、「反ファシズム」や「民主主義の防衛」といった用語と一緒に、ロシアの内外の労働者たちを人類史上最悪の殺戮へと動員するため用いられた。

この嘘はアメリカやロシア指導の最大帝国主義圏による双方の競争に支配される1945~89年の中、いかにも広い範囲で使用されていた。東方では、ロシア資本の帝国主義的な要望を裏付けるため、そして西方で帝国主義間の衝突を政治思想的に隠す手段(「ソヴィエトの全体主義から民主主義を守ろう」)として、労働者階級の考え方をねじ曲げる手法の一つとしても使用されて、ロシアの強制労働収容所に指しながら、「それは社会主義だとしたら、資本主義には不備があっても、まだましだろう?」と徹底する。とりわけ、東欧圏の崩壊が始まったら、「共産主義の死亡」、「マルクス主義の破産」や労働階級の終章まで意味するといって、このテーマは著しくうるさくなってきた。そして、この傾向に加えて、特にトロツキ派左翼など資本主義の極左翼が、「官僚的なゆがみ」を批判しながらもスターリン国家の遺跡に労働者階級の基盤があったと想像して、ブルジョワの要点を裏付けてしまった。

1945年から89年はアメリカとロシアが主導した両帝国主義陣営の拮抗によって特徴づけられた。この間、この欺瞞は極度の広がりを見せた。東側では、この嘘はロシア資本の野望の正当化のため、西側では帝国主義間の衝突をごまかすためのイデオロギー(「ソ連型全体主義から民主主義を守る」)そして、ロシアの強制収容所を例に、「これが社会主義そのものなら、欠陥だらけの資本主義がまだマシだろう」というメッセージを叩き込み、労働者階級の自覚を毒殺するための手段という二つの目的のために利用された。このテーマは、東側陣営の崩壊を「共産主義の死」、「マルクス主義の破産」そしてついには偽りの「労働者階級の終焉」という記号で象徴するものとして耳をつんざくほど喧伝された。さらなるブルジョアの飯の種は、ソ連-東欧圏の官僚的変質については批判しつつも、「スターリン国家には労働者階級の基盤が存在していた」と夢想し、ブルジョワジーの論点に与したトロツキストのような資本主義極左によってもたらされた。

2) このイデオロギー歪曲の積み重ねは、20世紀のマルクス主義の真の継続性を不明瞭にしてしまうことに貢献した。マルクス主義を偽造した擁護者、つまりスターリン主義者、トロツキニ主義者、その他あらゆる種類の学術的「マルクス専門家」、修正主義者そして哲学者たちは注目を独占し、真の擁護者たちが脇に退場させられ、無意味なセクトへと後退し、直接的な弾圧や抑圧はなかったものの、失われた世界の化石として退けられてきた。。故に今世紀本物のマルクス主義の継続性を再構築するためにはマルクス主義とは何かという定義から始める必要がある。1848年の共産主義宣言の最初の発表以来、マルクス主義は、孤立した天才的な「理論家」だけによるものではなく、現実のプロレタリアートによる運動を理論的に表したものでもある。

そしてそれは労働者階級にとっての唯一の戦闘的理論であり、労働者階級の直接かつ歴史的利益を断固擁護する理論である。マルクス主義は搾取される階級の大義に忠実であることにより、それ自身の理想を鮮明にする。

この利益の擁護は、プロレタリア国際主義という基本的で普遍的な原則に依拠することなしには実現できない。同時に、労働者階級自身の経験をとおした直接的な生き生きした関係において蓄積されてゆく理論が必要である。さらに、共同体的な労働と闘争を具現化する階級の産物として、マルクス主義自身も組織的な共同体、つまり革命的な党派によってのみ発展することができる。ゆえに共産主義宣言は、共産主義連盟という歴史上最初のマルクス主義組織の綱領として登場した。

3) 資本主義がまだ拡大と成長を続けるシステムであった19世紀、ブルジョワは自身の支配の搾取的本質を隠し、黒を白だといいくるめ、彼らの資本主義は実は社会主義であると説明する必要がほとんどなかった。この手のイデオロギーの狂態は歴史的な資本主義の衰退の際に典型的なものである。マルクス主義を隠蔽工作のための道具として誤用するためのブルジョアの努力をあからさまに表している。しかし資本主義の上昇期でさえ、支配的なイデオロギーのたゆまぬ圧力は、たびたび間違った形の社会主義を労働者運動に忍び込ませた。そのため共産主義マニフェストは自身のそれを「封建的」、「ブルジョア的」、「小市民的」社会主義と区別することを余儀なくされた。第一インターナショナルのマルクス主義党派は、バクーニン主義とラッサールの「国家社会主義」という二つの異なる前線で闘いを繰り広げなければならなかった。

4) 第二インターナショナルの諸政党はマルクス主義に基づいて結成され、労働者運動内の様々な勢力による連合だった第一インターナショナル後の飛躍的な一歩を具現化すると見られていた。しかし、彼らの活動は改善のための闘いに労働者階級のエネルギーが集中していた資本主義の急速な拡大期にあったため、社会民主主義政党は資本主義システムへの統合圧力に対して特に脆弱だった。この圧力は、資本主義は必然的に没落するというマルクスの予想は修正されなければならず、社会主義に向けたいかなる革命的介入も必要としない平和的な進化は可能だという議論をはじめた改良主義派の発展によってこれらの政党内にのしかかった。

この間、とりわけ1890年代後半から1900年代初頭にかけて、マルクス主義の正当性は最も非妥協的にマルクス主義原理を守ろうとし、最も早く、資本主義が成長時代の終焉に達したのに合わせて成長したプロレタリアートの闘争のための新しい条件を見出した「左派」の潮流によって維持された。ロシアのレーニン、ドイツのルクセンブルク、オランダのパンネクーク、イタリアのボルディガは社会民主主義左翼を代表する名前としてよく知られている。しかし、忘れてはならないのは、これらの誰もが孤立して働いたわけではない。腐った御都合主義の蔓延がインターナショナル内に拡大するにつれ、彼/女らは、ロシアのボルシェビキ、オランダのデ・トリブーネなど、各々の党で国際的に、組織された分派として活動した。

5) 1914年の帝国主義戦争および1917年のロシア革命は、資本主義は必然的に「社会革命の時代」に突入するというマルクス主義の洞察を裏付け、労働者運動の根本的な分断を誘発した。歴史上初めてマルクスとエンゲルス両者に言及したいくつかの組織は、互いにまったく反対側にバリケードを築いた。

公式な社会民主主義政党、かつての「漸進主義者」の陣門に降った多数派は、帝国主義戦争を初期のマルクスの文章を援用し、10月革命をロシアはまずブルジョア期の発展段階を経なければならないと糾弾した。

しかしそうすることで、彼/女らは必然的にブルジョア陣営に加わり、1914年の戦争では体制のための軍曹となり、1917年の反革命では体制の警察犬へと成り果てた。

このためマルクス主義の固守は、偽善的な宣言や党によるレッテルによって正当化されるのではなく、生きた実践によってなされると決定的に結論づけられた。帝国主義による大虐殺の中、ロシアのプロレタリア革命の防衛のために集結し、戦争の開始と共に打ち砕かれてきた数多くのストライキと蜂起を起こした左翼共産主義潮流はただひとりプロレタリア国際主義の横断幕を掲げつづけた。1919年の新しい共産主義インターナショナル設立の核となったのも同じ潮流だった。

6) 1919年は戦後の革命の波が最高潮に達し、共産主義インターナショナルの創設大会の見解がプロレタリア運動の中で、最も先進的な見解として出された。

  • 社会愛国主義者の完全な粉砕
  • 新たな資本主義の衰退期に望まれる民衆行動の方法
  • 資本主義国家と労働者ソビエトの国際的独裁制の破壊
この方針の明瞭さは革命の波の強烈な推進力を反映したが、旧来の政党内における左派の政治、理論的貢献によって事前に準備されたものでもある。ゆえに、カウツキーの合法的漸進主義の展望に対して、ルクセンブルクとパンネクークは革命の土壌としての民衆ストライキの構想を進展させた。カウツキーの議会主義への系統という衰弱にたいしてパンネクーク、ブハーリン、レーニンはブルジョア国家の破壊とコミューン(共同体)の創成が必要だというマルクスの主張を復活させ修正した。このような理論的発展はついに革命の鐘が鳴った時、実際的な政治課題となっていった。

7) 革命の波の衰退とロシア革命の孤立は、共産主義インターナショナルとロシアのソビエトの権力両者の衰退プロセスの始まりとなった。ボルシェビキ党はソビエト、工場委員会に赤色防衛隊といったプロレタリア自身の権力組織と関わりとは正反対の関係にある官僚制国家機関とますます結びついた。インターナショナル内部では大衆の行動の衰退期において大衆の支持を得る試みは、議会と労働組合内での活動と協調の拡大、「東の人々」に対する帝国主義への蜂起の要請、そしてなによりも社会愛国主義者の資本主義的本質という下心があからさまだった統一戦線の方針、という日和見主義的「解決」を生み出した。

とはいえ、第二インターナショナル内の日和見主義の拡大は左派潮流においてプロレタリア的反応を引き起こした。第三インターナショナルの多くは共産主義左派の潮流の抵抗に会い、パンネクークやボルディガおような自身のスポークスマンの多くが、過去のインターナショナルにおけるマルクス主義のもっとも優れた擁護者であることを既に証明した。共産主義左派はもとより国際的潮流で、ブルガリアから英本土まで、アメリカから南アフリカまで多くの国に存在した。しかし最も代表的な国々はマルクス主義の伝統が最も強固であったドイツ、イタリア、ロシアであった。

8) ドイツではプロレタリア民衆の現実の行動による非常に強力な推進力と結びついていたマルクス主義の深い伝統は、革命の波のように、いくつかの、とりわけ議会と労働組合の問題において、最も先進的な政治的位置を生み出した。このように左翼共産主義はそもそもドイツ共産党とインターナショナルの日和見主義への反応として現れ、KAPD(ドイツ共産主義労働者党。左翼反対派が恥知らずな策略によってKPDから追放された時、1920年に結成された。)によって領導されていた。

共産主義インターのリーダシップによる「幼稚」で「アナルコサンディカリスト」という非難にも関わらず、KAPDによる古い議会制と労働組合戦術の否定は、資本主義の衰退という労働組合戦術を時代遅れにし、工場委員会に労働者評議会という新しい形の階級組織を要求する深遠なマルクス主義的分析に基づいていた。明確にプログラム化された中心を持つ党観念(ボルシェヴィズムより直接受け継がれた)の趣きがある、時代遅れの「大衆党」という社会民主主義的アイデアの明解な拒否についても同じことが言える。古い社会民主主義戦術への回帰に対するKAPDの非妥協的な姿勢の獲得は多数の国、特にパンネクークとホルターの働きによって革命運動が密接にドイツと繋がっているオランダに広がっていた国際的潮流の核を作り出した。

これは20世紀前半のドイツの左翼共産主義が致命的な弱点に悩んでいなかったということではない。彼/女らは、自分たちが見えにくい形で革命の波が徐々に退いていく経過で危険な自主主義に陥っているのではなく、むしろ、死に向かって最後の「雄叫び」を上げながら衰退していく資本主義の姿を捉える傾向があった。共産主義インターナショナルの早すぎる崩壊と、1922年の新しいインターナショナル設立の不運な努力につながった組織の問題における弱点の数々がこれに関連している。これらの蟻の一穴は1920年に始まった反革命の大波に抵抗することを妨げ、破滅的な分断プロセスとなり、多くの場合において、独特な政治的組織の必要性を否定した「議会主義」イデオロギーによる理論化という結果に終わった。

9) 一方イタリアでは、イタリア共産党内で多数派を占めていた共産主義左派が、組織問題を特に明解にしたため、変質しつつあるインターナショナル内の楽観主義に対する勇敢な戦いを繰り広げることを可能にした。それだけでなく、反革命の闇が覆っていた時期に革命の難破を乗り越えることができる新たなフラクションが生み出され、マルクス主義理論を発展させた。1920年代初頭のブルジョア議会に対する棄権主義への賛意、「大衆への影響」という錯覚を生じさせる共産主義前衛と大規模な中央政党との併合・統一戦線や「労働者政府」のスローガンにも反対する議論は、マルクス主義の深い理解に基づいたものだった。

同様なことがファシズムの新しい事象の分析とその結果としての、あらゆる「民主的」ブルジョア政党を伴う反ファシズム戦線の必然的拒否にも当てはまる。ボルディーガの名前はイタリアの共産主義左翼の歴史と決定的に関連するが、彼の戦闘的貢献の極めて大きな重要性にも関わらず、イタリアの左翼はボルシェヴィズムとレーニンほどボルディーガに還元されるものではない。両者ともプロレタリア政治運動による、相互に結合しあう所産であった。

10) 我々が述べたとおり、ロシア革命の孤立は労働者階級と肥大化する官僚的国家装置との間の分離の深化という結果をもたらした。最も悲劇的な分離は、ますます国家に取り込まれていったプロレタリアート自らのボルシェヴィキ党によるクロンシュタットの労働者と船員の蜂起への弾圧だった。

厳密には、真にプロレタリアート政党であったからこそ、ボルシェヴィズムは自身の堕落に対して、内部からの抵抗を生み出した。1919年には、党の左派に最も引用されたスポークスマンであったレーニン自身も、とりわけ晩年にかけて、党の官僚制への傾倒に対して極めて的を得た批判をしている。同じころ、トロツキーも党内でプロレタリア民主主義の規範を復活させようと試み、スターリニストの悪名高い反革命との闘い、とりわけ「一国社会主義」理論に対しての闘い、に乗りだした左翼反対派の著名な代表者となった。

しかしかなりの部分は、ボルシェヴィズムがプロレタリア前衛としての自らの役割を国家と癒着することで損なってしまったため、党内の最も重要な左派潮流は、国家装置ではなく階級に留まった無名の存在によって率いられた傾向があった。

1919年には既にオシンスキー、スミルノフ、そしてサプラノフに率いられた民主中央集権主義グループはソヴィエトの「衰退」とパリ・コミューンの基本からの著しい逸脱に対して警告を始めた。同様の批判は1921年にコロンタイとシュリアプニコフに率いられた労働者反対派勢力によってなされた。もっとも後者は1923年のイタリア左翼と似たアプローチを発展させ20世紀を通して重要な役割を担いつづけている「Decist」勢力より綿密さと永続性を欠くことを証明するに終わった。ミャスニコフに率いられた労働者グループは自身のマニフェストを発行し、1919年の労働者ストライキにおいて重要な介入を行った。このグループのポジションと分析はKAPDのそれに近いものだった。

これらすべてのグループはボルシェヴィキ党から誕生しただけではない。彼/女らは党内部で当初の革命原理を取り戻すために闘った。しかしブルジョア的反革命勢力が党内で橋頭堡を築くなか、反革命の本質を見極め、組織的発現への感傷的な忠誠を打破することは、反対勢力の多くにとって重要な課題となった。

これらすべてのグループはボルシェヴィキ政党から誕生しただけではない。彼/女らは政党内部で当初の革命原理を取り戻すために闘った。しかしブルジョアの反革命勢力が政党内で勢力を増す中、反革命の本質を見極め組織の見解への感傷的な忠誠を打ち破ることが、反対勢力の多くで重要な課題となった。

これはトロツキーとロシアの共産主義左翼の根本的な相違を証明するためだった。トロツキーは自身の存命中ずっとソ連邦の防衛と、トロツキーの支持者の多くを困惑させた、「左翼」への回帰を含む左翼共産主義者たちが階級の敵の勝利を意味すると、新たな革命の必要性を示唆するスターリニズムの勝利と看做した、スターリニスト政党に置ける労働者階級性を主張していた。

もっとも、トロツキスト反対勢力の最も優れた集団、いわゆる「妥協不可能」な集団は20年代後半から30年代前半にかけての共産主義左派の重要ポジションのいたるところにいた。スターリニストによるテロは30年代の終わりまでにほぼ完全にこれらのグループを消し去った。

11) 1930年代はヴィクトール・セルジュの言葉によれば「真夜中の時期」であった。1926年の英本土でのゼネスト、1927年の上海での蜂起という革命の波の最後の残り火は既に消え去っていた。共産主義は国防のための政党になった。ファシストとスターリニストによるテロは、革命的運動が最も盛り上がったこれらの国で最も残忍なものとなり、資本主義世界はどこも新たな帝国主義ホロコーストの支度を始めた。   

このような状況下で生き残った革命的少数派は、亡命、弾圧、そして増大する孤立に直面した。士気を失い、ブルジョアの戦争イデオロギーに屈服したプロレタリアート階級は、即座の階級闘争に向けた広範な影響をもたらすことができない絶望の中にあった。

この問題のトロツキーの間違った理解は彼の左派対抗派において、社会民主主義政党「フランス的転換」への回帰、反ファシズムへの降伏など、絶望的な「大衆の克服」という極めて楽観主義的方向へと導くためだった。トロツキーというよりはトロツキズムにとっての最終的な結果はいうまでもなく、1940年代のブルジョア戦争装置への統合であった。社会民主主義やスターリリズムのように、これ以降のトロツキズムは資本主義政治機関の一部分であり、この疑わしい主張故にマルキシズムの継続性と完全に関係を持たない。

12) この軌跡とは対照的に、ビランを総括したイタリアの左派は、この時期の任務を正しく定義した。

  1. 戦争へのマーチに直面する国際主義の基礎的原理に忠実であるため
  2. 革命の波、とりわけロシア革命の失敗の「バランスシート」を作成し、適切な教訓を得、将来     の階級闘争の再興の際に登場するであろう新たな党のための理論的基礎に役立てるため

当時の革命勢力にとってスペインでの戦争はとりわけ厳しい試金石となった。多くは反ファシズムの平和の呼び声に屈し、この戦争が両帝国主義間の来るべき世界戦争への演習であったことを見抜けなかった。しかしビランは毅然として立ち、まさしくレーニンが第一次大戦で両陣営を非難したように、両ファシストとブルジョア共和主義派に対する抵抗を呼びかけた。

同時期、この潮流(後にベルギー、フランス、メキシコの分派を含む)は非常に大きく、置き換えることのできない理論的貢献を果たした。その1917年のロシア革命の退廃の分析はプロレタリアの性質に疑問を投げかけることはなかった。将来の転換期の問題、経済危機と資本主義退廃の根拠を研究し、共産主義インターナショナルの国家解放闘争の支援の拒否、党と分派理論の発展、止まることなく、しかし兄弟愛に基づいた他のプロレタリア政治潮流との議論、これらの、そしてその他の多くの領域でイタリアの左翼分派は疑うまでもなく、未来のプロレタリア組織のプログラム的基礎を敷くという自らの任務を果たした。

13) ドイツの共産主義左翼の分断はナチスのテロによって成功したにも関わらず、いくつかの革命的な地下活動はヒトラー政権下で遂行された。1930年代、ドイツ左翼の革命派による防衛の大部分はオランダで、とりわけ国際共産主義グループの活動によるものだったが、ポール・マティックに率いられたアメリカでもされた。ビランのようなオランダ左翼は、全世界的な殺戮へと道を開いたこの地域におけるあらゆる帝国主義戦争で真に国際主義に留まり、「民主主義の防衛」の誘惑に抵抗し続けた。

労働組合への疑問、資本主義の退廃期の新しい形の労働者組織、資本主義の危機の唯物的原因、国家資本主義への傾向に対する理解は深まりつづけた。階級闘争、特に失業者の運動に対する重大な干渉も続いた。しかしロシア革命の敗北によってトラウマを抱えたオランダ左翼は次第に政治組織としてのレーテの役割の否定へと陥って行った。続いてブルジョア勢力によって最初から骨抜きにされたボルシェビズムとロシア革命の完全な否定であった。こうした理論化は未来の崩壊の種だった。オランダの左翼共産主義はナチ占領下ですら命脈を保ったにも関わらず、重要な分派が戦後に誕生したー当初KAPD内で親政党制の位置に立ち戻ったスパルタクス団である。オランダ左翼の組織に関する問答でのアナキズムへの譲歩は後年、どのような形にせよ組織的継続を維持することを劇的に困難にした。今日では我々は、潮流がほとんど完全に絶滅した状態に直面している。

14) イタリア左翼はある種の組織的継続性を保った半面、反革命のダメージは大きかった。戦争の直前にイタリアの分派は、世界戦争の切迫を否定する「戦争経済の理論」によって混乱に陥れられたが、とりわけ帝国主義的衝突の直中にいたフランスの分派の存在によって活動を継続した。終戦に向かうに連れ、イタリアの大規模なプロレタリアート闘争の爆発は、20年代後半には政治的に不活発であったボルディガと共に、帝国主義戦争に反対するものの、革命的な闘いの開始であると見なされ、間違った時代分析のため明確なプログラムに基づいて形成されなかったイタリア国際主義共産党を形成するためイタリアに戻った多数派と共に更なる混乱を分派内の至る所にもたらした。

この政治的方向性は、今が反革命が勝利した時期であり、結果分派の役割はまだ終わっていないといち早く見抜いたフランス分派の多数派に反対された。フランスの左翼共産主義はビランの意志を受け継ぎ、差し迫った階級闘争への介入の責任を疎かにすることなく、エネルギーを政治、理論的先鋭化に注ぎ、とりわけ国家資本主義、転換期、労働組合と政党の問題に関して多くの重要な進展を遂げた。厳格なマルクス主義的手段を維持することがイタリアの左派では典型的だった半面、ドイツ・オランダ左派は組織の統合に素晴らしい貢献をした。

15) 1952年までは第三次世界大戦の切迫が誤って信じられていたが、GCFは解散した。同じ年、イタリアのICPは「ボルディジスト」勢力とファシストの時代に政治的にアクティブでありつづけた活動家オナラート・ダーメンに率いられる派に分裂した。「ボルディジスト」勢力はこの反動的な時代についてより明確な見解を示したが、マルクス主義の堅持への努力においてはドグマティズムに戻った。(新しい!)「マルクス主義の普遍性」理論は、フラクションによって30年代に達成された進歩を著しく無視し、多くの問題を「正統」な共産主義インターナショナルの時代に引き戻すこととなった。今日の多くのボルディガ主義グループ(少なくとも3グループが自らを「世界共産党」と名乗っている)はこの傾向の直接の後継者である。

このダーメンの傾向は政党、労働組合、民族解放、国家資本主義の役割のような基本的な政治的問題においてより鮮明だったが、ICP形成におけるそもそもの錯誤の根源へは行き着かなかった。1950年代から1960年代、ブルジョアジーがマルクス主義のあらゆる組織的表現の排除に迫り来るなか、これらのグループは政治的に停滞し、とりわけボルディジスト潮流は、労働者運動の偉大な伝統へと繋がる今日の革命的組織の生きた糸を断ち切り、セクト主義の壁の向こうに「引きこもって」しまった。

16) しかし1960年代の終わりにはプロレタリアートは、68年5月のフランスでのゼネストを機に再び歴史の舞台に登場し、その後、世界中で労働者の闘いが勃発した。この復活は明確な共産主義者の立脚点を求める政治化された新しい世代を生み出し、既存の革命的グループに新しい息吹きを吹き込み、そして左翼共産主義の遺産を一新しようと試みる新しい組織を生み出した当初、このボルシェヴィズムの「権威主義的」イメージへの対抗という新しい政治環境は、評議会主義的イデオロギーによって深く浸透した。そしてその政治環境は成熟するにつれ、反組織的偏見を過去のこととし、マルクス主義的伝統をそのまま継承した。

今日、既存の革命的環境におけるほとんどの集団が、組織の問題と革命的伝統の保護の必要性を強く主張しているイタリア左翼を源としており、それは偶然によるものではない。国際共産主義潮流の大部分がフランス共産党の後を引き継いでおり、ボルディジスト集団と革命党のための国際事務局両者はイタリアの国際主義共産党の後継者に他ならない。

17) 60年代のプロレタリアの再興はその後苦痛の道を歩み、運動は進退を繰り返し、多くの障害に遭遇したが、共産主義の死を訴え、部分的にあはナチスのガス室の存在を否定する一大「否定主義」潮流だという誤った罵りによって共産主義左翼への直接的攻撃に関わったブルジョアの巨大なキャンペーンに及ぶものはなかった。

この一連のプロセスの困難は同様に、進展を遅らせたり、統一を妨げたりと革命的環境の道筋に多くの困難をもたらした。この様な弱点にも関わらず、今日の「左翼共産主義」運動は、未来の世界共産主義政党の形成への唯一の「架け橋」として正統マルクス主義の生きた継続性を保っている。

ゆえに、いかなることがあろうとも共産主義左翼のグループによって展開される新たなそれぞれの活動をこの時代に世界中で進展させ、彼/女とディベートを繰り広げ、最終的には彼/女の戦列に加わることが決定的に重要となる。そうすることいよって、彼/女ら自身の手によって革命の成功を約束する革命的な党を建設するだろう。

1998年9月 世界共産主義潮流

International Communist Current, September 1998

日本での津波と原子力事故ー資本主義の恐怖

「最悪の事態を危惧しなければならない」。メディアだけでなく世界の政治指導者の政治指導者らの見出しにもこの文字が躍っている。しかし最悪の事態は既に始まっている!最初に地震、そして津波、極めつけに原子力事故。日本の住民は悲惨な状態に置かれている。現時点で既に数百万の人たちが福島原発の原子炉からやってきた放射能汚染というダモクレスの剣に打ちひしがれている。今回はハイチやインドネシアのような貧しい国ではなく、最先端の技術力を誇る国での出来事だ。その国は世界で最初の、核エネルギーによる破壊的影響の実験場となり、1945年に広島と長崎への原爆投下で、特に核の危険を知っている。

資本主義は人類を自然災害に対して脆弱にする

 資本主義の錯乱と支配階級の無責任な態度が改めて明らかになった。1億2700万人が狭隘な海岸沿いに、少なからずが崖っぷちの木造家屋に住み、常に地震とすべてを飲み込む波のモンスターの危険にさらされている事は世界中が知っている。高い人口密度は災害の際、犠牲者の数を増加させる。
 それだけの犠牲では飽き足らないかのように、文字通りの時限爆弾としての原発が、地震と津波の危険地帯に建設された。殆どの日本の原発は40年ほど前に、人口密度が高いだけでなく、津波の危険が特に高い海岸沿いに建設された。17箇所ある原発の55の原子炉も同じようなものだ。原発だけでなく、海岸沿いの石油化学施設も炎に包まれ、今回の人災と環境破壊を悪化させた。
 支配階級は、予想もしない強さと時期に起こった地震と津波による自然災害だと信じ込ませようとしている。そのとおりだ。しかし奇妙なことに資本主義は、このような破滅を防ぐために有用なはずの科学とテクノロジーを過去200年に渡って、今までにないほど推進してきたにも関わらず、未だ人類を今回のようなおぞましい危険から救えないでいる。今日の資本主義世界は暴力的なテクノロジーを持つ一方、支配階級の目には人の犠牲の上に成り立つ資本のための利益しか映らないため、ほんの少しでも人道のために使用する資質に欠けている。
 1995年の阪神・淡路大震災以来日本政府は、都市部のオフィスなど最初の地震でも使用可能なレベルで耐えられる耐震建築を推進してきた。公式の発表で、東京を含む福島から250km圏内の住民は既に平均にして通常の40倍の放射線[1]に曝されたにも関わらず、政府はこれを「危険ではない」量と定めた。

支配者たちの稚拙な嘘

 今日では過去の原子力事故、とりわけ1979年のスリーマイル炉心溶融事故との比較が用いられる。公式にはこの事故は死亡者を出していない。政治的に責任のある地位にある人たちは、福島は「今のところ」チェルノブイリの爆発事故ほど深刻な事故ではないと説明する。このような驚くほど楽観的な発言に安心するべきだろうか?日本、アジア、ロシア、アメリカ合州国、世界への本当の危険はどの程度のものと見積もられているのだろうか?答えは簡単だー「極めて甚大」。現時点で既に日本の広大な地域が放射能に汚染されている。東京電力(TEPCO)は常にごまかしを続けている。何百人もの従業員や消防員の命が冷酷にも高濃度の放射線によって危険に晒されている。この殺戮にもっとも責任を負っているはずの日本政府がこの特攻隊員たちを「英雄」扱いしているのはおぞましいばかりだ。そのような救いがたい無責任は大きく、破壊された原子炉を冷却するための一週間にわたる絶望的な試みの後(彼らは、爆発の危険性を高めかねない溶融する炉心からの電力を得るために電源ケーブルを接続するなど非現実的な提案を熟慮していた。)、唯一の解決法として熟慮されていたのは、福島原発をチェルノブイリのように砂とコンクリートで覆ってしまうことだった。現状やこれから起こるであろう惨劇には、いつものように、私たちを搾取する人間の嘘にまみれた議論が含まれる。
 1979年にワシントンは炉心溶融の結果起こった放射能漏れについて、14万人を避難させたにも関わらず嘘をついた。アメリカ政府は、直接的な死者こそ出なかったものの、後年発ガン率は数百倍にも上ったことも隠した。
 構造上の、そして管理上の深刻な弱点が確認されていたチェルノブイリでは、ソ連政府は一週間にわたって深刻な事態を隠し続けた。炉心の爆発と破滅的な放射性雲が何キロもの高空に放出され、数千キロ彼方まで広がった後、世界は事態の深刻さを知った。この種の対応はスターリニズムに限られるものではない。西側の指導者たちはまったく同じ事をした。放射性雲はフランス国境の外側に留まっている、という嘘を広めたフランスの例がかつては強調された。もうひとつの有益な事実は、IAEA(国際原子力機関)と連動しているWHO(世界保健機関)は、チェルノブイリ事故では50人が死亡し、9人(!)の子供が癌で亡くなり、4000人が癌死の可能性にさらされているという嘲笑に値する結論を採用している。ニューヨークの研究機関によると、現実には98万5千人がチェルノブイリの爆発によって死亡した[3]。そして今日、同じ研究機関から、福島での影響とリスクの情報が発表されている。問題は、こうした研究機関がどの程度信用できるかだけだ。
 チェルノブイリでは現場に駆り出された83万人のリクビダートル(ロシア語で「後始末する人」「「清掃人」)のうち約11万2千から12万5千人が死亡したことから考えると、これからフクシマの「リクビダートル」に何が起こるのだろうか?[4]。今日支配者たちは、チェルノブイリの原発は極めて危険で、コンクリートで炉心を覆わなければいけないといい、(自分たちの当初言ってきた)事をうやむやにしようと試みる。福島において過去10年で200件も事故があった事実を隠し続けてきたように。
 あらゆる国家が原発の本当の危険を否定している!フランス政府は断続的かつ大胆不敵にも、58あるフランスの原発はまったく安全だと説明する。その殆どが地震と津波の危険性のある海岸沿いに置かれているにも関わらずだ。1999年に暴風雨がヨーロッパを遅い88人の死者を残した際、ボルドー近くのブライにある原発は浸水によって炉心溶融寸前となった。このことを知る人はほとんどいない。フェッセンハイムにある古い原発は数年前から停止させるべきだった。しかし交換用部品と(うまく組み合わなかった)とおそらくは保守要員に対する高い放射線被害のおかげで今も稼働中だ。そしてちゃっかりとこう反論するー「すべてうまくいっているし、情報もすべて公開している」。
 3月11日の日本での地震の直後、メディアはためらうことなく日本の原発は世界でももっとも安全な部類に入ると主張した。二日後、今度はまったく逆のことを言い出し、東京電力は過去に事故を隠してきたことを思い出した。フランスの原発でもまたこの十年間で小規模事故の件数は二倍に増加した[5]。安全な原発があるのだろうか?どこにもない!WNA(世界原子力協会)によると、稼働中の440の民間商用原発の約20%が主要な地震活動地域にある。新規に建設中の62の原発のうちのいくつかは地震の危険がある場所にある。500に上る新興工業国での建設計画でも同じような状況だ。福島で破壊された4つの原子炉を含む多くの原発は、太平洋に4万キロにわたるリング状の地殻プレートのすぐ近くに建っている[6]。
 真っ当な情報はますます放射性物質が広がっていることを警告している。例えば1945年以前には自然界にはプルトニウムは存在しなかった。今日ではイギリスの子供たちの乳歯から見つかっている[7]。イギリスは既に商用の原子力プログラムを中止したにも関わらず。

資本主義は人類により多くの災害をもたらす

 日本で人々が闘っているのは核災害だけではない。もうひとつの、災害がもたらした人的災厄が彼らを苦しめている。世界第三位の経済大国は甚大な破壊と数百万の死者、加えて広島と長崎の原爆投下後の放射線被曝をもたらした第二次世界大戦以来、戦争を体験することはなかった。
 数百万人の東北地方の人たちは、たとえ放射能汚染がなかったとしても、電力、水道の供給がなく、ますます不足する食料の中生きている。津波が太平洋沿岸のすべての都市を洗い流したため避難した60万人は今や放射線被曝の危険にさらされ、寒さと雪の中を防ぐこともままならず生きている。日本政府の危険は無害化され、犠牲者の数は控えめに見積もられた宣伝とは反対に、既に全体で何万人もの死者が出ていると見積もらなければならない。海は絶え間なく海岸沿いの死体を洗う。破壊された住居、建物、病院、学校などの数は増える一方だ。
 村ごと、建物ごと、列車ごとー東北の各都市は津波によって引き裂かれた。狭隘な谷間にあった都市、例えば南三陸市は1万7千人の住民のうち半数が亡くなるか行方不明となった。役所が津波到達の30分前に住民に警告した後、道路はすぐに大渋滞となり、逃げ遅れた人たちは津波の犠牲者となった。
 住民の模範的勇気と規律を西洋のメディアは褒め称えた。総理大臣は「また一から復興させよう」と呼びかけた。はっきり言えば「日本の労働者階級はこれまで以上の搾取と苦しみに耐えなければならない」ということだ。もう何十年と知られている日本の画、例えば日本の労働者たちが従順に雇用者と朝のラジオ体操に勤しんでいるあの画、黙々となすがままに酷使される画、屋根が頭上に落ちてこようとしているときに、ストイックに振る舞いただ命令を待っている画だ。まったくもって日本の人たちは驚くほど勇敢だが、メディアによって描かれる「ストイシズム」はまったく違って見える。避難所で生活している何十万という人たちの間では正当にも怒りが増大している。さらに、首都圏の3千800万人の一部を含む、何十万という人たちが避難の列に並んでいる。そして危険と運命に逆らうための避難をせず耐え忍んでいる人たちは他に選択の余地を持たない。彼/女らには資金がなくだけでなく、避難する当てもない。誰が泊めてくれるのだろうか?災害難民となることは支配者たちの目にはみっともないこととして映る。毎年約5千万人が災害難民となるが、彼/女のためにいかなる条約も存在しない。もちろん原発事故のような災害の場合でもだ。別の場所に避難しようとする貧しく持たざる日本人に何の「難民となる権利」を保証されていない。
 このような正気であるとは思えない搾取のシステムは破滅的で、日ごとに非人道性を増している。人類は膨大な科学的知見と強大な技術的手法を集積させてきたにも関わらず、支配者たちは人類を今回のような自然災害から守ることに失敗している。逆に世界中でおぞましい破壊的作用をもたらしている。われわれのフランス語圏のフォーラムのメンバーはこう述べた「私たちにはこの資本主義的地獄に対して、社会主義か野蛮かの選択肢しかない。既存の制度と対決するかくたばるか」だ[8]。 ムラン 2011年3月19日

[1] 経験はこの公式の数字が一般的に、とりわけ原子力の領域でどの程度信頼に置けるかを示している。黄金の法則によれば、支配者たちは嘘をつき、(数字を)操作し、危険を過小評価する!
[3] « Troublante discrétion de l'Organisation mondiale de la santé », Le Monde du 19 mars.
[4] https://www.monde-diplomatique.fr/2010/12/KATZ/19944
[5] https://www.europe1.fr/France/En-France-les-incidents-nucleaires-en-haus...
[6] https://www.lemonde.fr/depeches/2011/03/15/fukushima-eclaire-le-risque-d...
[7] https://blog.mondediplo.net/2011-03-12-Au-Japon-le-seisme-declenche-l-al...
[8] https://fr.internationalism.org/forum/312/tibo/4593/seisme-au-japon