民主化された資本主義は可能か?

 聖パウロ教会でのオキュパイのテント大学の「民主的な資本主義」というスローガンを巡って激しい議論が沸き起っている。




 これはパウロ教会UBS銀行などでのオキュパイが、現行の社会システムに不満を持ち、それに変わるものを求めているすべての人たちのための実りある議論の場を提供していることを表している。「民主的な資本主義」は現実的な選択肢ではないものの、確かにオキュパイに参加している多くの人々の見解と結合点を反映している。金持ちにもっと税金を課し、銀行屋の持っているボーナス帳消しにし、証券取引市場をしっかりコントロールし、経済に対する政府の権限を拡大すれば資本主義はより人間的になりうるというアイデアは繰り返し提唱されている。

フクシマ ー 地球規模の災害

2011年3月11日、日本の東海岸は過酷な津波に襲われた。建物の高さにまで達した波は、あらゆるものを洗い流した。2万人(原文ママ)を超える人々が死に追いやられ、なお数千人が行方不明のままとなっている。多くの人々は家を失った。人類の大部分は海岸やその近くに居住している。これらの地域に住む人々は、ごく狭い地域にひしめき合い、加速し続ける海面の上昇に晒されている。津波の引き起こす洪水は、これら高密度の居住地域をあっという間に洗い流してしまうことを示した。

共産主義左派とマルクス主義の継続

1920年代中盤の革命の波の敗北以来、共産主義とマルクス主義ほど誤用や曲解された用語はない。スターリン政権下の旧東側諸国や今日の中国、キューバ、 北朝鮮が共産主義およびマルクス主義の表れだとする説はまさに20世紀最大級の嘘である。この嘘は極左から極右まで、あらゆる支配階級の派閥によって用い られている。1839-45年の第二次「帝国主義」世界大戦の間、「社会主義祖国の防衛」という神話は、「反ファシズム」や「民主主義の防衛」といった用 語と一緒に、ロシアの内外の労働者たちを人類史上最悪の殺戮へと動員するため用いられた。

”怒れる”スペインの人たちとの連帯 - 未来は労働者階級の手にある!

多くの国で、強姦未遂で逮捕されたIMF専務理事であったドミニク・シュトラウス=カーンを巡るスキャンダルに光が当たっていた時、より重大な出来事がヨーロッパを揺るがしていた - 5月15日のマドリッドのプエルタ・デル・ソル広場の占拠に端を発したスペインでの暴力的な社会的抗議行動だ。この動きは、膨大な数の民衆、特に失業やサパテロ政権の切り詰め政策、政治家の汚職などに憤慨している若い民衆が担っている。この社会運動はFacebookやTwitterなどのソーシャルネットのおかげでバルセロナ、バレンシア、グラナダ、セビリア、マラガ、レオンと国中の大都市に急速に飛び火した。しかし情報がピレネー山脈を越えてフランス方面に行き渡ったとは言いがたい。フランスではソーシャルネットワークとオルタナティブ・メディアのみで5月中旬以降の出来事を写真やビデオで報じられたに過ぎないからだ。ブルジョア的メディア、とりわけフランスのメディアが今回の出来事に関して突如「停電」し、ドミニク・シュトラウス=カーンの事件を巡る犯罪ドラマで埋め尽くそうとするのは、この運動が、資本主義に潜む袋小路に対抗する社会運動と世界の労働者階級の闘いの進展に向けた重要なステップを明示しているからだ。

日本での津波と原子力事故ー資本主義の恐怖

「最悪の事態を危惧しなければならない」。メディアだけでなく世界の政治指導者の政治指導者らの見出しにもこの文字が躍っている。しかし最悪の事態は既に始まっている!最初に地震、そして津波、極めつけに原子力事故。日本の住民は悲惨な状態に置かれている。現時点で既に数百万の人たちが福島原発の原子炉からやってきた放射能汚染というダモクレスの剣に打ちひしがれている。今回はハイチやインドネシアのような貧しい国ではなく、最先端の技術力を誇る国での出来事だ。その国は世界で最初の、核エネルギーによる破壊的影響の実験場となり、1945年に広島と長崎への原爆投下で、特に核の危険を知っている。

前史

CCI発の「International Review」における僅かの記事、そして現地の週刊誌で述べたように、フランスにおける1968年5月の革命的な出来事は世界中にわたってより広い運動の一部にすぎませんでした。

日本にいる同士よりの記事をここで掲載しており、本記事は日本の特定や困難な歴史にもかかわらず、当時の広い運動は日本にも同様な運動があったというのをはっかり表現しています。

未来のプロレタリア革命は国際主義に基づいた国際的なものでなければ、何も起こりません。現在、世界中国際主義者の最大な義務になるのは、現場の経験を世 界時事の枠に入れること、そしてある地域における労働階級の動きが世界中のより広いコンテキストの一部、またはそのコンテキストの一つの表現に過ぎないこ とを理解し、瀕死の資本主義を打倒させる未来のために過去の出来事をめぐって労働階級中の国際的な議論に貢献することだと思っています。したがって 1968年日本の出来事を歴史的かつグローバルな枠に入れようとするケン同士の努力を称賛します。「こうして日本の「68年」の概略を振り返ることを通し て、全世界の労働者階級との国際主義的団結(それは当時においても現在においても、最も重要なものである)を図ることができれば幸いである。」という彼の 結論を心込めて支持しています。

記事の中で翻訳の問題、または私たちが日本歴史を不十分に把握しているせいで曖昧な点が僅かありました。日本の国際主義者の中、そして一般的にも大切な論点だと思っているため、数点を取り上げてみました。

共産主義の左派とマルクス主義の継続

国際革命の出来事が1920年代の半ばに敗北してから、「社会主義」、「共産主義」、「マルクス主義」という表現より歪んだ、乱用した表現はない。旧東欧 圏 のスターリン主義国家、または今日にいたって中国、キューバや北朝鮮という国々は、「共産主義」または「マルクス主義」の表現だというのは20世紀におけ る最大の嘘であり、極右翼から極左翼まで支配階級の全派閥によってわざと仕掛けた嘘でもある。1939~1945年間の帝国主義戦争のうち、人間の歴史上 に最大な虐殺のためにロシアの中や外国にいる労働者を動員するためには、「社会主義母国の防御」という神話が使用され、「反ファシズム」に合わせて「民主 主義の防御」も使われていた。

一つの階級、一つの闘争

かつてないほど、世界の国々は労働者の闘争に揺れている。国際的な規模で、労働者階級の力と戦闘性の証拠になる。支配階級の側になる報道が行う管制に対して、我々は2008年の初めからわずかの例を取り上げる。場所、地域、会社の名称をロマー字や漢字のままに記載されている。

かつてないほど、そして同時に、世界の国々は労働者の闘争によって揺れている。これは国際的規模で高まる労働者階級の攻勢と戦闘性の証左であ る。ブルジョワ的メディアによる報道管制に対して、われわれは2008年初頭より世界中で闘われてきたいくつかの例を紹介する。(場所、地域、資本・企業 名などの固有名詞については英語発音のカタカナ表記・ローマ字読みを付した。)

日本における労働者運動に関するノート:第三部

1917年10月、労働者階級はロシアで権力を掌握するが、日本の革命家が革命の中心と国際的運動との直接的な接触を確立するまでにはそれから長い時間が かかることになる。よって、1917年-1918年間の日本の革命家とロシアの革命家との間における接触は皆無であった。その上、1919年3月の共産主 義インターナショナル創立大会には日本からの代表者の出席は全く見とめられず、アメリカ在住の片山潜が東京と横浜の代表者として委任されていたにも関わら ず、この大会への参加は叶わなかった。極東共産主義団体の第一・二回大会は1918年と1919年の11月にモスクワにて開催され、日本の代表者が招待さ れていたが、この会議にも同様に不参加であった。しかし、1920年9月のバクー会議には、アメリカから来た日本の代表者の参加を確認することができた。 この代表者はIWW(世界産業労働組合)のメンバーであったが、日本のいかなる組織の委任も有せず、自らの意志と判断とによる参加であった。

日本における労働者運動に関するノート:第二部

1905年のロシアにおける革命的事件の数々は、あらゆる労働者運動を大きく揺るがす大地震を引き起こした。労働者評議会が形成され、労働者たちが 大衆ストライキを始めるや否や、社会民主党の左派(ローザ・ルクセンブルクは『大衆ストライキ』及び『党と組合』、トロツキーは『1905年』に関する著 作、パネクークは諸処の文書、特に議会に関する文書を発表)はこれらの闘争から教訓を引き出すことを始めた。評議会における労働者階級の自主組織化につい ての力説、ローザ・ルクセンブルク及びパネクークにより特に主張された議会制度の批判は、アナーキスト的な気まぐれの結果などではなく、資本主義的生産方 法の衰退の始まりにおいて新しい状況がもたらした教訓を理解し、闘争の新しい形を解釈しようとする為の最初の試みであった。

日本の革命家は国際的に比較的孤立していたにも関わらず、闘争の条件と手段とに関する討論は彼らの間でも繰り広げられ、世界規模の労働者階級および その革命家の少数派にまでこの興奮が反映されていたことを示している。それまでよりも更に明確な形で二つの傾向が対立していくことになる。幸徳を中心とし た第一のグループはその全主張が「直接行動」、即ちゼネストと革命的サンディカリズム(労働組合主義)をめぐって行われた為に、アナーキストへの強い傾化 を見せ始める。幸徳は1905-1906年間に渡米し、IWWの労働組合運動の立場をよく調べ、ロシアのアナーキストたちとの接触を確立する。アナルコ・ サンディカリストの潮流は1905年から機関紙『光』を発行する。他方、片山は『新紀元』において社会主義の議会活用を無条件に擁護する。その数々な相違 にも関わらず、1906年にこの二派は合体し日本社会党を設立、片山が提唱したように「国法の範囲内」において社会主義の為に闘う。この日本社会党は 1906年6月24日から1907年7月22日まで存在し、1906年12月まで『光』紙が発行される。

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