20世紀間のブルジョワ民主主義による諸犯罪

実際、二千万もの人間が一掃された第一次世界大戦の主要中心人物を構成したのは、「社会主義」諸政党のほとんどによる熱心な支持を伴った、完璧なる「民主主義」諸政府であった。「社会主義者」の共謀或いは指示と共に、この同じ政府が、戦争の殺戮に終焉をもたらした革命波を、残忍な方法でもって玉砕したのである。ベルリンにおいては、1919年1月、「社会主義者」ノスケの指示の下、フライコール(義勇軍)が、逃亡未遂を口実に、革命の二大指導者を処刑に課す:カール・リープクネヒトはその首に銃弾を受け暗殺され、ローザ・ルクセンブルグは銃床により殴り殺された。同時期、社会民主党政府は、敗国ドイツ対し勝国フランスによって大急ぎで返却された16,000の機関銃のおかげで、何千人もの労働者を殺戮した。そして又1918年以降、ツァーリズムの軍隊への惜しみない支持を送っているのは、この同じ「民主主義」国、とりわけ米国、英国及びフランスなのである。ツァーリズムの軍隊とは、つまるところ、この時代の最も暴力的で退行的な体制の一つであり、その目的はロシアの革命的プロレタリアに対して戦うことにあった。

両大戦間も、徳高き「民主主義」によって犯された数々の犯罪に事欠くことにはならない。この二大戦間は、その他諸処の犯罪の中でも、とりわけ植民地における殺戮に富んだ時期であった。1925年、その一連の残虐行為は、大いなる民主主義国家、英国による初の毒ガスの使用、後に我々が非難することになるサダム・フセインによる「バグダットの虐殺」:クルド人に対するのと同じ毒ガスの使用であった。しかしながら、民主主義諸国がその本来の能力を余すところなく発揮する時は、第二次大戦の最中であった。この大戦中、彼らはあたかも独裁者とナチスの残虐行為に反する十字軍を導くかのように振舞ったのである。

この大戦の翌日の「連合国」によるプロパガンダは、ドイツ当局によって犯された「戦争犯罪」については枯渇しなかった。そのプロパガンダが容易であったことは明白である:スターリニズム下のそれと同等の警察の独裁と絶滅キャンプでもって、ナチズムは、スターリニズムと共に、衰退的資本主義が生んだ野蛮の頂点の一つを代表した。ナチズムは、ドイツのブルジョワジーによる、「民主主義的」、議会的方法でその地位を獲得した。それは、その10年前に労働者革命を壊滅させる為に、プロレタリアに対し猛威を奮った反革命の申し子である社会民主党に権力を与えたのと同じブルジョワジーであった。ナチズムは、脅威を感じた時に支配階級が耽ることの出来る野蛮さの象徴を成した。中でも600万人のユダヤ人を殺害したホロコーストはその最たる例である。ナチズム犯罪の張本人たちはニュルンベルグ裁判にて法廷にかけられ、ある者達は処刑された。それに反して、「連合国」の軍人、及びチャーチルやルーズベルト、トルーマンを審議にかける法廷は一切存在しなかった。彼らが、とりわけ、ドイツの数都市への、又その都市の中でも特に労働者の居住区域への徹底的な爆撃を行い、その度に何万人もの民間人の犠牲を出したことに対し、責任を負っていたという事実にも関らず、裁かれることはなかった。1945年2月13、14日、既に戦争に勝っていたにも関らず、又、一切の軍事設備をもたず、まさにそれ故に何十万者もの避難民と負傷者との受け入れの街であったにも関らず、ドレスデンを巨大な戦火に変貌させることを命じ、数時間で20万もの人間を殺した者は、勝者陣営に属していたが故に法廷にかけられることはなかったのである。又、1945年8月、日本の都市、ヒロシマとナガサキに、現在に至るまでの歴史上最初且唯一の原子爆弾を投下し、一瞬にして14万人と7万人の死者をもたらしたのは、同じく偉大なる民主主義国家のアメリカであった。そしてその後の耐え難い苦しみの犠牲者の数は、その死者の数をはるかに上回るものである。 

チャーチルやルーズベルト等と同じ民主主義者は、ナチス体制による何百人ものユダヤ人の撲滅を完全に知っていながら、彼らを救ういかなる試みも行なわなかった。それどころか彼らは、ドイツ政府とその同盟国とが、その内の何十万人かを解放しようとした全ての提案を、ことごとく拒絶するまでに至った。最大の皮肉は、これら「ヒューマニスト」が、これら全てのユダヤ人を運搬し受け入れることは、戦争の効果を減速させるという理由で持って、自らの行動を正当化したことである。