共産主義左派とマルクス主義の継続

Article published in Proletarian Tribune (Russia)

プロレタリア・トリビューン(ロシア)に掲載された記事


) 1920年代中盤の革命の波の敗北以来、共産主義とマルクス主義ほど誤用や曲解された用語はない。スターリン政権下の旧東側諸国や今日の中国、キューバ、北朝鮮が共産主義およびマルクス主義の表れだとする説はまさに20世紀最大級の嘘である。この嘘は極左から極右まで、あらゆる支配階級の派閥によって用いられている。1839-45年の第二次「帝国主義」世界大戦の間、「社会主義祖国の防衛」という神話は、「反ファシズム」や「民主主義の防衛」といった用語と一緒に、ロシアの内外の労働者たちを人類史上最悪の殺戮へと動員するため用いられた。

この嘘はアメリカやロシア指導の最大帝国主義圏による双方の競争に支配される1945~89年の中、いかにも広い範囲で使用されていた。東方では、ロシア資本の帝国主義的な要望を裏付けるため、そして西方で帝国主義間の衝突を政治思想的に隠す手段(「ソヴィエトの全体主義から民主主義を守ろう」)として、労働者階級の考え方をねじ曲げる手法の一つとしても使用されて、ロシアの強制労働収容所に指しながら、「それは社会主義だとしたら、資本主義には不備があっても、まだましだろう?」と徹底する。とりわけ、東欧圏の崩壊が始まったら、「共産主義の死亡」、「マルクス主義の破産」や労働階級の終章まで意味するといって、このテーマは著しくうるさくなってきた。そして、この傾向に加えて、特にトロツキ派左翼など資本主義の極左翼が、「官僚的なゆがみ」を批判しながらもスターリン国家の遺跡に労働者階級の基盤があったと想像して、ブルジョワの要点を裏付けてしまった。

1945年から89年はアメリカとロシアが主導した両帝国主義陣営の拮抗によって特徴づけられた。この間、この欺瞞は極度の広がりを見せた。東側では、この嘘はロシア資本の野望の正当化のため、西側では帝国主義間の衝突をごまかすためのイデオロギー(「ソ連型全体主義から民主主義を守る」)そして、ロシアの強制収容所を例に、「これが社会主義そのものなら、欠陥だらけの資本主義がまだマシだろう」というメッセージを叩き込み、労働者階級の自覚を毒殺するための手段という二つの目的のために利用された。このテーマは、東側陣営の崩壊を「共産主義の死」、「マルクス主義の破産」そしてついには偽りの「労働者階級の終焉」という記号で象徴するものとして耳をつんざくほど喧伝された。さらなるブルジョアの飯の種は、ソ連-東欧圏の官僚的変質については批判しつつも、「スターリン国家には労働者階級の基盤が存在していた」と夢想し、ブルジョワジーの論点に与したトロツキストのような資本主義極左によってもたらされた。

2) このイデオロギー歪曲の積み重ねは、20世紀のマルクス主義の真の継続性を不明瞭にしてしまうことに貢献した。マルクス主義を偽造した擁護者、つまりスターリン主義者、トロツキニ主義者、その他あらゆる種類の学術的「マルクス専門家」、修正主義者そして哲学者たちは注目を独占し、真の擁護者たちが脇に退場させられ、無意味なセクトへと後退し、直接的な弾圧や抑圧はなかったものの、失われた世界の化石として退けられてきた。。故に今世紀本物のマルクス主義の継続性を再構築するためにはマルクス主義とは何かという定義から始める必要がある。1848年の共産主義宣言の最初の発表以来、マルクス主義は、孤立した天才的な「理論家」だけによるものではなく、現実のプロレタリアートによる運動を理論的に表したものでもある。

そしてそれは労働者階級にとっての唯一の戦闘的理論であり、労働者階級の直接かつ歴史的利益を断固擁護する理論である。マルクス主義は搾取される階級の大義に忠実であることにより、それ自身の理想を鮮明にする。

この利益の擁護は、プロレタリア国際主義という基本的で普遍的な原則に依拠することなしには実現できない。同時に、労働者階級自身の経験をとおした直接的な生き生きした関係において蓄積されてゆく理論が必要である。さらに、共同体的な労働と闘争を具現化する階級の産物として、マルクス主義自身も組織的な共同体、つまり革命的な党派によってのみ発展することができる。ゆえに共産主義宣言は、共産主義連盟という歴史上最初のマルクス主義組織の綱領として登場した。

3) 資本主義がまだ拡大と成長を続けるシステムであった19世紀、ブルジョワは自身の支配の搾取的本質を隠し、黒を白だといいくるめ、彼らの資本主義は実は社会主義であると説明する必要がほとんどなかった。この手のイデオロギーの狂態は歴史的な資本主義の衰退の際に典型的なものである。マルクス主義を隠蔽工作のための道具として誤用するためのブルジョアの努力をあからさまに表している。しかし資本主義の上昇期でさえ、支配的なイデオロギーのたゆまぬ圧力は、たびたび間違った形の社会主義を労働者運動に忍び込ませた。そのため共産主義マニフェストは自身のそれを「封建的」、「ブルジョア的」、「小市民的」社会主義と区別することを余儀なくされた。第一インターナショナルのマルクス主義党派は、バクーニン主義とラッサールの「国家社会主義」という二つの異なる前線で闘いを繰り広げなければならなかった。

4) 第二インターナショナルの諸政党はマルクス主義に基づいて結成され、労働者運動内の様々な勢力による連合だった第一インターナショナル後の飛躍的な一歩を具現化すると見られていた。しかし、彼らの活動は改善のための闘いに労働者階級のエネルギーが集中していた資本主義の急速な拡大期にあったため、社会民主主義政党は資本主義システムへの統合圧力に対して特に脆弱だった。この圧力は、資本主義は必然的に没落するというマルクスの予想は修正されなければならず、社会主義に向けたいかなる革命的介入も必要としない平和的な進化は可能だという議論をはじめた改良主義派の発展によってこれらの政党内にのしかかった。

この間、とりわけ1890年代後半から1900年代初頭にかけて、マルクス主義の正当性は最も非妥協的にマルクス主義原理を守ろうとし、最も早く、資本主義が成長時代の終焉に達したのに合わせて成長したプロレタリアートの闘争のための新しい条件を見出した「左派」の潮流によって維持された。ロシアのレーニン、ドイツのルクセンブルク、オランダのパンネクーク、イタリアのボルディガは社会民主主義左翼を代表する名前としてよく知られている。しかし、忘れてはならないのは、これらの誰もが孤立して働いたわけではない。腐った御都合主義の蔓延がインターナショナル内に拡大するにつれ、彼/女らは、ロシアのボルシェビキ、オランダのデ・トリブーネなど、各々の党で国際的に、組織された分派として活動した。

5) 1914年の帝国主義戦争および1917年のロシア革命は、資本主義は必然的に「社会革命の時代」に突入するというマルクス主義の洞察を裏付け、労働者運動の根本的な分断を誘発した。歴史上初めてマルクスとエンゲルス両者に言及したいくつかの組織は、互いにまったく反対側にバリケードを築いた。

公式な社会民主主義政党、かつての「漸進主義者」の陣門に降った多数派は、帝国主義戦争を初期のマルクスの文章を援用し、10月革命をロシアはまずブルジョア期の発展段階を経なければならないと糾弾した。

しかしそうすることで、彼/女らは必然的にブルジョア陣営に加わり、1914年の戦争では体制のための軍曹となり、1917年の反革命では体制の警察犬へと成り果てた。

このためマルクス主義の固守は、偽善的な宣言や党によるレッテルによって正当化されるのではなく、生きた実践によってなされると決定的に結論づけられた。帝国主義による大虐殺の中、ロシアのプロレタリア革命の防衛のために集結し、戦争の開始と共に打ち砕かれてきた数多くのストライキと蜂起を起こした左翼共産主義潮流はただひとりプロレタリア国際主義の横断幕を掲げつづけた。1919年の新しい共産主義インターナショナル設立の核となったのも同じ潮流だった。

6) 1919年は戦後の革命の波が最高潮に達し、共産主義インターナショナルの創設大会の見解がプロレタリア運動の中で、最も先進的な見解として出された。

  • 社会愛国主義者の完全な粉砕
  • 新たな資本主義の衰退期に望まれる民衆行動の方法
  • 資本主義国家と労働者ソビエトの国際的独裁制の破壊
この方針の明瞭さは革命の波の強烈な推進力を反映したが、旧来の政党内における左派の政治、理論的貢献によって事前に準備されたものでもある。ゆえに、カウツキーの合法的漸進主義の展望に対して、ルクセンブルクとパンネクークは革命の土壌としての民衆ストライキの構想を進展させた。カウツキーの議会主義への系統という衰弱にたいしてパンネクーク、ブハーリン、レーニンはブルジョア国家の破壊とコミューン(共同体)の創成が必要だというマルクスの主張を復活させ修正した。このような理論的発展はついに革命の鐘が鳴った時、実際的な政治課題となっていった。

7) 革命の波の衰退とロシア革命の孤立は、共産主義インターナショナルとロシアのソビエトの権力両者の衰退プロセスの始まりとなった。ボルシェビキ党はソビエト、工場委員会に赤色防衛隊といったプロレタリア自身の権力組織と関わりとは正反対の関係にある官僚制国家機関とますます結びついた。インターナショナル内部では大衆の行動の衰退期において大衆の支持を得る試みは、議会と労働組合内での活動と協調の拡大、「東の人々」に対する帝国主義への蜂起の要請、そしてなによりも社会愛国主義者の資本主義的本質という下心があからさまだった統一戦線の方針、という日和見主義的「解決」を生み出した。

とはいえ、第二インターナショナル内の日和見主義の拡大は左派潮流においてプロレタリア的反応を引き起こした。第三インターナショナルの多くは共産主義左派の潮流の抵抗に会い、パンネクークやボルディガおような自身のスポークスマンの多くが、過去のインターナショナルにおけるマルクス主義のもっとも優れた擁護者であることを既に証明した。共産主義左派はもとより国際的潮流で、ブルガリアから英本土まで、アメリカから南アフリカまで多くの国に存在した。しかし最も代表的な国々はマルクス主義の伝統が最も強固であったドイツ、イタリア、ロシアであった。

8) ドイツではプロレタリア民衆の現実の行動による非常に強力な推進力と結びついていたマルクス主義の深い伝統は、革命の波のように、いくつかの、とりわけ議会と労働組合の問題において、最も先進的な政治的位置を生み出した。このように左翼共産主義はそもそもドイツ共産党とインターナショナルの日和見主義への反応として現れ、KAPD(ドイツ共産主義労働者党。左翼反対派が恥知らずな策略によってKPDから追放された時、1920年に結成された。)によって領導されていた。

共産主義インターのリーダシップによる「幼稚」で「アナルコサンディカリスト」という非難にも関わらず、KAPDによる古い議会制と労働組合戦術の否定は、資本主義の衰退という労働組合戦術を時代遅れにし、工場委員会に労働者評議会という新しい形の階級組織を要求する深遠なマルクス主義的分析に基づいていた。明確にプログラム化された中心を持つ党観念(ボルシェヴィズムより直接受け継がれた)の趣きがある、時代遅れの「大衆党」という社会民主主義的アイデアの明解な拒否についても同じことが言える。古い社会民主主義戦術への回帰に対するKAPDの非妥協的な姿勢の獲得は多数の国、特にパンネクークとホルターの働きによって革命運動が密接にドイツと繋がっているオランダに広がっていた国際的潮流の核を作り出した。

これは20世紀前半のドイツの左翼共産主義が致命的な弱点に悩んでいなかったということではない。彼/女らは、自分たちが見えにくい形で革命の波が徐々に退いていく経過で危険な自主主義に陥っているのではなく、むしろ、死に向かって最後の「雄叫び」を上げながら衰退していく資本主義の姿を捉える傾向があった。共産主義インターナショナルの早すぎる崩壊と、1922年の新しいインターナショナル設立の不運な努力につながった組織の問題における弱点の数々がこれに関連している。これらの蟻の一穴は1920年に始まった反革命の大波に抵抗することを妨げ、破滅的な分断プロセスとなり、多くの場合において、独特な政治的組織の必要性を否定した「議会主義」イデオロギーによる理論化という結果に終わった。

9) 一方イタリアでは、イタリア共産党内で多数派を占めていた共産主義左派が、組織問題を特に明解にしたため、変質しつつあるインターナショナル内の楽観主義に対する勇敢な戦いを繰り広げることを可能にした。それだけでなく、反革命の闇が覆っていた時期に革命の難破を乗り越えることができる新たなフラクションが生み出され、マルクス主義理論を発展させた。1920年代初頭のブルジョア議会に対する棄権主義への賛意、「大衆への影響」という錯覚を生じさせる共産主義前衛と大規模な中央政党との併合・統一戦線や「労働者政府」のスローガンにも反対する議論は、マルクス主義の深い理解に基づいたものだった。

同様なことがファシズムの新しい事象の分析とその結果としての、あらゆる「民主的」ブルジョア政党を伴う反ファシズム戦線の必然的拒否にも当てはまる。ボルディーガの名前はイタリアの共産主義左翼の歴史と決定的に関連するが、彼の戦闘的貢献の極めて大きな重要性にも関わらず、イタリアの左翼はボルシェヴィズムとレーニンほどボルディーガに還元されるものではない。両者ともプロレタリア政治運動による、相互に結合しあう所産であった。

10) 我々が述べたとおり、ロシア革命の孤立は労働者階級と肥大化する官僚的国家装置との間の分離の深化という結果をもたらした。最も悲劇的な分離は、ますます国家に取り込まれていったプロレタリアート自らのボルシェヴィキ党によるクロンシュタットの労働者と船員の蜂起への弾圧だった。

厳密には、真にプロレタリアート政党であったからこそ、ボルシェヴィズムは自身の堕落に対して、内部からの抵抗を生み出した。1919年には、党の左派に最も引用されたスポークスマンであったレーニン自身も、とりわけ晩年にかけて、党の官僚制への傾倒に対して極めて的を得た批判をしている。同じころ、トロツキーも党内でプロレタリア民主主義の規範を復活させようと試み、スターリニストの悪名高い反革命との闘い、とりわけ「一国社会主義」理論に対しての闘い、に乗りだした左翼反対派の著名な代表者となった。

しかしかなりの部分は、ボルシェヴィズムがプロレタリア前衛としての自らの役割を国家と癒着することで損なってしまったため、党内の最も重要な左派潮流は、国家装置ではなく階級に留まった無名の存在によって率いられた傾向があった。

1919年には既にオシンスキー、スミルノフ、そしてサプラノフに率いられた民主中央集権主義グループはソヴィエトの「衰退」とパリ・コミューンの基本からの著しい逸脱に対して警告を始めた。同様の批判は1921年にコロンタイとシュリアプニコフに率いられた労働者反対派勢力によってなされた。もっとも後者は1923年のイタリア左翼と似たアプローチを発展させ20世紀を通して重要な役割を担いつづけている「Decist」勢力より綿密さと永続性を欠くことを証明するに終わった。ミャスニコフに率いられた労働者グループは自身のマニフェストを発行し、1919年の労働者ストライキにおいて重要な介入を行った。このグループのポジションと分析はKAPDのそれに近いものだった。

これらすべてのグループはボルシェヴィキ党から誕生しただけではない。彼/女らは党内部で当初の革命原理を取り戻すために闘った。しかしブルジョア的反革命勢力が党内で橋頭堡を築くなか、反革命の本質を見極め、組織的発現への感傷的な忠誠を打破することは、反対勢力の多くにとって重要な課題となった。

これらすべてのグループはボルシェヴィキ政党から誕生しただけではない。彼/女らは政党内部で当初の革命原理を取り戻すために闘った。しかしブルジョアの反革命勢力が政党内で勢力を増す中、反革命の本質を見極め組織の見解への感傷的な忠誠を打ち破ることが、反対勢力の多くで重要な課題となった。

これはトロツキーとロシアの共産主義左翼の根本的な相違を証明するためだった。トロツキーは自身の存命中ずっとソ連邦の防衛と、トロツキーの支持者の多くを困惑させた、「左翼」への回帰を含む左翼共産主義者たちが階級の敵の勝利を意味すると、新たな革命の必要性を示唆するスターリニズムの勝利と看做した、スターリニスト政党に置ける労働者階級性を主張していた。

もっとも、トロツキスト反対勢力の最も優れた集団、いわゆる「妥協不可能」な集団は20年代後半から30年代前半にかけての共産主義左派の重要ポジションのいたるところにいた。スターリニストによるテロは30年代の終わりまでにほぼ完全にこれらのグループを消し去った。

11) 1930年代はヴィクトール・セルジュの言葉によれば「真夜中の時期」であった。1926年の英本土でのゼネスト、1927年の上海での蜂起という革命の波の最後の残り火は既に消え去っていた。共産主義は国防のための政党になった。ファシストとスターリニストによるテロは、革命的運動が最も盛り上がったこれらの国で最も残忍なものとなり、資本主義世界はどこも新たな帝国主義ホロコーストの支度を始めた。   

このような状況下で生き残った革命的少数派は、亡命、弾圧、そして増大する孤立に直面した。士気を失い、ブルジョアの戦争イデオロギーに屈服したプロレタリアート階級は、即座の階級闘争に向けた広範な影響をもたらすことができない絶望の中にあった。

この問題のトロツキーの間違った理解は彼の左派対抗派において、社会民主主義政党「フランス的転換」への回帰、反ファシズムへの降伏など、絶望的な「大衆の克服」という極めて楽観主義的方向へと導くためだった。トロツキーというよりはトロツキズムにとっての最終的な結果はいうまでもなく、1940年代のブルジョア戦争装置への統合であった。社会民主主義やスターリリズムのように、これ以降のトロツキズムは資本主義政治機関の一部分であり、この疑わしい主張故にマルキシズムの継続性と完全に関係を持たない。

12) この軌跡とは対照的に、ビランを総括したイタリアの左派は、この時期の任務を正しく定義した。

  1. 戦争へのマーチに直面する国際主義の基礎的原理に忠実であるため
  2. 革命の波、とりわけロシア革命の失敗の「バランスシート」を作成し、適切な教訓を得、将来     の階級闘争の再興の際に登場するであろう新たな党のための理論的基礎に役立てるため

当時の革命勢力にとってスペインでの戦争はとりわけ厳しい試金石となった。多くは反ファシズムの平和の呼び声に屈し、この戦争が両帝国主義間の来るべき世界戦争への演習であったことを見抜けなかった。しかしビランは毅然として立ち、まさしくレーニンが第一次大戦で両陣営を非難したように、両ファシストとブルジョア共和主義派に対する抵抗を呼びかけた。

同時期、この潮流(後にベルギー、フランス、メキシコの分派を含む)は非常に大きく、置き換えることのできない理論的貢献を果たした。その1917年のロシア革命の退廃の分析はプロレタリアの性質に疑問を投げかけることはなかった。将来の転換期の問題、経済危機と資本主義退廃の根拠を研究し、共産主義インターナショナルの国家解放闘争の支援の拒否、党と分派理論の発展、止まることなく、しかし兄弟愛に基づいた他のプロレタリア政治潮流との議論、これらの、そしてその他の多くの領域でイタリアの左翼分派は疑うまでもなく、未来のプロレタリア組織のプログラム的基礎を敷くという自らの任務を果たした。

13) ドイツの共産主義左翼の分断はナチスのテロによって成功したにも関わらず、いくつかの革命的な地下活動はヒトラー政権下で遂行された。1930年代、ドイツ左翼の革命派による防衛の大部分はオランダで、とりわけ国際共産主義グループの活動によるものだったが、ポール・マティックに率いられたアメリカでもされた。ビランのようなオランダ左翼は、全世界的な殺戮へと道を開いたこの地域におけるあらゆる帝国主義戦争で真に国際主義に留まり、「民主主義の防衛」の誘惑に抵抗し続けた。

労働組合への疑問、資本主義の退廃期の新しい形の労働者組織、資本主義の危機の唯物的原因、国家資本主義への傾向に対する理解は深まりつづけた。階級闘争、特に失業者の運動に対する重大な干渉も続いた。しかしロシア革命の敗北によってトラウマを抱えたオランダ左翼は次第に政治組織としてのレーテの役割の否定へと陥って行った。続いてブルジョア勢力によって最初から骨抜きにされたボルシェビズムとロシア革命の完全な否定であった。こうした理論化は未来の崩壊の種だった。オランダの左翼共産主義はナチ占領下ですら命脈を保ったにも関わらず、重要な分派が戦後に誕生したー当初KAPD内で親政党制の位置に立ち戻ったスパルタクス団である。オランダ左翼の組織に関する問答でのアナキズムへの譲歩は後年、どのような形にせよ組織的継続を維持することを劇的に困難にした。今日では我々は、潮流がほとんど完全に絶滅した状態に直面している。

14) イタリア左翼はある種の組織的継続性を保った半面、反革命のダメージは大きかった。戦争の直前にイタリアの分派は、世界戦争の切迫を否定する「戦争経済の理論」によって混乱に陥れられたが、とりわけ帝国主義的衝突の直中にいたフランスの分派の存在によって活動を継続した。終戦に向かうに連れ、イタリアの大規模なプロレタリアート闘争の爆発は、20年代後半には政治的に不活発であったボルディガと共に、帝国主義戦争に反対するものの、革命的な闘いの開始であると見なされ、間違った時代分析のため明確なプログラムに基づいて形成されなかったイタリア国際主義共産党を形成するためイタリアに戻った多数派と共に更なる混乱を分派内の至る所にもたらした。

この政治的方向性は、今が反革命が勝利した時期であり、結果分派の役割はまだ終わっていないといち早く見抜いたフランス分派の多数派に反対された。フランスの左翼共産主義はビランの意志を受け継ぎ、差し迫った階級闘争への介入の責任を疎かにすることなく、エネルギーを政治、理論的先鋭化に注ぎ、とりわけ国家資本主義、転換期、労働組合と政党の問題に関して多くの重要な進展を遂げた。厳格なマルクス主義的手段を維持することがイタリアの左派では典型的だった半面、ドイツ・オランダ左派は組織の統合に素晴らしい貢献をした。

15) 1952年までは第三次世界大戦の切迫が誤って信じられていたが、GCFは解散した。同じ年、イタリアのICPは「ボルディジスト」勢力とファシストの時代に政治的にアクティブでありつづけた活動家オナラート・ダーメンに率いられる派に分裂した。「ボルディジスト」勢力はこの反動的な時代についてより明確な見解を示したが、マルクス主義の堅持への努力においてはドグマティズムに戻った。(新しい!)「マルクス主義の普遍性」理論は、フラクションによって30年代に達成された進歩を著しく無視し、多くの問題を「正統」な共産主義インターナショナルの時代に引き戻すこととなった。今日の多くのボルディガ主義グループ(少なくとも3グループが自らを「世界共産党」と名乗っている)はこの傾向の直接の後継者である。

このダーメンの傾向は政党、労働組合、民族解放、国家資本主義の役割のような基本的な政治的問題においてより鮮明だったが、ICP形成におけるそもそもの錯誤の根源へは行き着かなかった。1950年代から1960年代、ブルジョアジーがマルクス主義のあらゆる組織的表現の排除に迫り来るなか、これらのグループは政治的に停滞し、とりわけボルディジスト潮流は、労働者運動の偉大な伝統へと繋がる今日の革命的組織の生きた糸を断ち切り、セクト主義の壁の向こうに「引きこもって」しまった。

16) しかし1960年代の終わりにはプロレタリアートは、68年5月のフランスでのゼネストを機に再び歴史の舞台に登場し、その後、世界中で労働者の闘いが勃発した。この復活は明確な共産主義者の立脚点を求める政治化された新しい世代を生み出し、既存の革命的グループに新しい息吹きを吹き込み、そして左翼共産主義の遺産を一新しようと試みる新しい組織を生み出した当初、このボルシェヴィズムの「権威主義的」イメージへの対抗という新しい政治環境は、評議会主義的イデオロギーによって深く浸透した。そしてその政治環境は成熟するにつれ、反組織的偏見を過去のこととし、マルクス主義的伝統をそのまま継承した。

今日、既存の革命的環境におけるほとんどの集団が、組織の問題と革命的伝統の保護の必要性を強く主張しているイタリア左翼を源としており、それは偶然によるものではない。国際共産主義潮流の大部分がフランス共産党の後を引き継いでおり、ボルディジスト集団と革命党のための国際事務局両者はイタリアの国際主義共産党の後継者に他ならない。

17) 60年代のプロレタリアの再興はその後苦痛の道を歩み、運動は進退を繰り返し、多くの障害に遭遇したが、共産主義の死を訴え、部分的にあはナチスのガス室の存在を否定する一大「否定主義」潮流だという誤った罵りによって共産主義左翼への直接的攻撃に関わったブルジョアの巨大なキャンペーンに及ぶものはなかった。

この一連のプロセスの困難は同様に、進展を遅らせたり、統一を妨げたりと革命的環境の道筋に多くの困難をもたらした。この様な弱点にも関わらず、今日の「左翼共産主義」運動は、未来の世界共産主義政党の形成への唯一の「架け橋」として正統マルクス主義の生きた継続性を保っている。

ゆえに、いかなることがあろうとも共産主義左翼のグループによって展開される新たなそれぞれの活動をこの時代に世界中で進展させ、彼/女とディベートを繰り広げ、最終的には彼/女の戦列に加わることが決定的に重要となる。そうすることいよって、彼/女ら自身の手によって革命の成功を約束する革命的な党を建設するだろう。

1998年9月 世界共産主義潮流

International Communist Current, September 1998