共産主義インターナショナル(IC)と日本 

1917年10月、労働者階級はロシアで権力を掌握するが、日本の革命家が革命の中心と国際的運動との直接的な接触を確立するまでにはそれから長い時間がかかることになる。よって、1917年-1918年間の日本の革命家とロシアの革命家との間における接触は皆無であった。その上、1919年3月の共産主義インターナショナル創立大会には日本からの代表者の出席は全く見とめられず、アメリカ在住の片山潜が東京と横浜の代表者として委任されていたにも関わらず、この大会への参加は叶わなかった。極東共産主義団体の第一・二回大会は1918年と1919年の11月にモスクワにて開催され、日本の代表者が招待されていたが、この会議にも同様に不参加であった。しかし、1920年9月のバクー会議には、アメリカから来た日本の代表者の参加を確認することができた。この代表者はIWW(世界産業労働組合)のメンバーであったが、日本のいかなる組織の委任も有せず、自らの意志と判断とによる参加であった。

日本の革命家の世界の他の国々からのこの長引く孤立には幾つかの理由があり、第一に、内戦のために日露間のコミュニケーションが大部分において遮断されていた点が挙げられる。この内戦はプロレタリア革命の最も猛烈な対抗者であった日本軍を巻き込み、1922年のシベリア撤兵まで続いた。第二に、革命家たち自身の政治的虚弱さが挙げられる。彼らの内で、組織の構築や国際的な革命運動への統合を目指す原動力となる分子として行動することができたグループは皆無であった。それ故、共産主義インターナショナルが常に連携を確立しようと試みたにも関わらず、日本において拠点をもつことは実現されなかった。

新組織の基礎を築くことのできる分派の不在は大きな弱点となる。長期的な成熟の過程と組織的問題のマルクス的理解への困難な闘いとの結果がまさに、分派が成し遂げる党結成の為の準備的仕事そのものなのである。

共産主義インターナショナルが完全に日和見主義的な政策にすがりながら慌てて新組織設立へと行動し始めたのは、革命的運動の退潮が始まった後になってのことである。

1920年、第三インターナショナルは上海において韓国と中国の革命家が参加する極東書記局を設立した後、同年10月には日本のアナーキスト、大杉との接触を確立する。ICの極東局は日本における組織設立の資金として二千円を提供する。

しかし、共産党結成においてアナーキストがもち得る組織的・綱領的信用性とは一体どういうものであったのか?大杉は各々の「国内支部」における自治を求め、国際的連絡事務所の設立という点に関してのみ同意していた。彼はいかなるグループの委任も有せず、上海から帰国した折に自らの機関紙『労働運動』を刊行したのみであった。その他の革命家は常に極めて分散したままであり、1920-1921年間にこの組織設立計画を巧く実行に移すにあたって決然とした態度を見せた者はほとんどいなかった。大杉はと言うと、ロシアで諸処の事件が発展した間も一貫して自らのアナーキスト的方針に忠実であり続け、1921年のクロンシュタットの悲劇の後にはソヴィエト政府の転覆を呼びかける。共産主義インターナショナルはその後彼との連絡を一切絶ち、その結果組織設立への努力は失敗と終わった。

その日本において、1920年末期より山川、堺、荒畑の三人が勢力を団結させるべく尽力する。こうして1920年8月に集結したメンバーにより同年12月「日本社会主義同盟」が結成されることになる。様々な理論的・綱領的展望を持つ異なる潮流がここで集結し、約千のメンバーが加盟する。この同盟の公式な機関紙は『社会主義』と命名される。

その当初から、警察はこの組織の弾圧に邁進する。1920年8月から11月の間に諸処の準備会は解散させられ、同年の12月9日に予定されていた東京での創立大会も同様に警察によって解散させられる。ここでも再び組織設立への試みが警察の強力な弾圧の下失敗させられるのである。分散と分裂・崩壊とによりろ過と結集の過程とは決して最後まで成し遂げられることができず、その当然の結果としてそれぞれのグループが各々の機関誌を発行し続けることになる。堺と山川編集による『社会主義研究』、荒畑による『日本労働新聞』、大杉による『労働運動』等がその例である。1921年5月、「日本社会主義同盟」は結社禁止命令を受ける。

再結成の焦点の役割を果たすはずであった社会主義同盟のグループは、明確な境界線を設置し、問題解明のろ過作業を通して淘汰を行い、団結した革命組織設立の基礎を築くことのいずれも全く実現することができなかった。その代わりに、その周囲に数人の分子を集結させ、それぞれの機関誌を発行し続けた様々な人物の存在が、革命的舞台を支配し続けてゆく。

大杉との失敗に終わった会見は、ICの上海ビューローの代表員たちを、1921年、党設立の任務を山川に提案することへと導く。大杉と親しかった山川と堺はその時まで日和見主義的態度をとっていたが、それ以降山川と近藤および堺は綱領の推敲という仕事に取り掛かり、「共産党暫定執行委員会」の規約を念入りに準備することになる。しからしながらこれらの同志は1921年春においても未だ共産党を結党する意志を固めてはいなかった。革命的闘争において前衛的役割を果たすはずの戦闘組織としての共産主義組織の概念は、当時は未だ意識の中にしっかりと根を下ろしたものではなかった。唯一強調されたのは思想の普及と共産主義のプロパガンダのみであった。にもかかわらず、これらの同志の意志は共産主義インターナショナルとの連携を強化する方向へと向かっていく。

1921年5月、共産主義インターナショナルとの結びつき促進を目的に、近藤が上海へと送られる。近藤の政治的軌道は在米時よりIWWから多大な影響を受けており、その以前には大杉の機関紙、『労働運動』の発行に参加していた。ICの代表員たちとの会合の際、彼は組織設立を目指した進化が殆ど成されていなかったのが現実であった為、既に達成された進歩について誇大報告する。近藤に感銘を受けた代表員たちは経済的援助を約束し、彼は6500円と共に帰国するが、その資金は組織設立の為に使われることはなかった[1]

東京に戻ると、インターナショナルとの間に確立された同意に反し、近藤は自らのグループ「暁民共産党」を結成し、1921年8月にそのリーダーとなる。1921年5月の「日本社会主義同盟」の解散という失敗を未だに消化しきっていなかった山川と堺とは、「共産主義のプロパガンダのグループ」を党に変えるという提案を拒否する。1921年12月の警察の一斉検挙の後、近藤のグループは違法扱いになり壊滅する。それと同時にICの代表員であり経理担当者でもあったグレイが接触先の情報リストと共に検挙され、諸処の書類が警察の手に渡ることとなる。これはICの党結成援助の努力における新たなもう一つの失敗となった。

1921年夏をかけ開催された第三インターナショナルの第三回大会の際、日本からの代表員は未だに欠席のままであった。唯一の出席者はアメリカから来た在米日本人の同志たちであった。再び、日本における革命家たちはモスクワで行われたICの方法と状況に関する中心的討論から切り離されていた。この会議において、その後IC内において拡大する日和見主義的傾向に対して闘う、後の「左翼」共産主義(左翼反対派)となる潮流の代表員たちが知られるようになる。

その間、共産主義インターナショナルはラデックを調整役とした日本の為の諸処の委員会を設立し、普通選挙権導入の為のキャンペーンを決議する。このキャンペーンはICの第一回会議がブルジョワ民主主義と議会主義制度の危険な役割を暴いた時に現れ、その第二・三回会議にてイタリア左翼とドイツ・ハンガリーの同志が同制度の行使という誘惑に抗わなければならないと説いていたものであった。

共産主義インターナショナルは1921年秋、極東諸民族会議を呼びかける。この会議は同年11月に極東における勢力範囲の分割を計画し集結していた帝国主義の列強によるワシントン会議に対抗する、二者択一的な会議として直接的に組織された。

日本の異なるグループが、この極東諸民族会議への参加に招待される。山川と近藤の各グループと「暁民共産党」がそれぞれ代表員を派遣し、それに二人のアナーキストとその他の分子たちが加わる。最終的には1922年1月にべトログラードにて開催された同会議において、近藤による「暁民共産党」を代表した高瀬が、共産党が既に結成されたと宣言するが、これは明らかにはったりであった。他方では、この会議に感銘を受けたアナーキストの吉田が、共産主義に「改宗した」と告げる。にも関わらず、日本への帰途において既に、彼はその発表を早くも取り消しアナーキストの立場への忠義を再び断言することになるのである。

同会議においてブハーリンは、日本における労働者闘争の次段階がプロレタリア独裁の即時の確立計画にではなく完全に民主主義的な体制の構築にあるとし、それに専心することを求める。更に、最も重要な目的は帝国主義制度の廃止にあるべきだと述べる。1922年1月当時、ジノヴィエフは未だ日本を帝国主義大国として言明していたが、その数ヶ月後に共産党が結党されることになる時、日本はもはや帝国主義国としてはみなされなくなる。

1922年1月にべトログラードにて集結した革命的勢力による努力にも関わらず、日本における革命家たちは引き続き分散されたままの状態にあった[2]

組織構築において決定的な進歩を達成するにあたっての数々の困難は、様々な事情から生じていた。さらに深刻な他の諸理由を別にしても、第一にその孤立と、日本の国外との連携構築へ向けた尽力不足の為に、共産主義インターナショナルが日本における革命家界の異なる構成部分についての事情をほぼ全く把握できていなかったという事実が挙げられる。最も重要な責任を負った分子たちの間における組織的問題についての過小評価、困難な情況下における接触確立への自発性の欠如等、それらの全ての要因がICが繰り返した諸処の失敗に大きく作用したのである。

ICがアナーキストの大杉や極めて個人主義者にして予測不可能な近藤を「信頼できる人物」として選んだのは、日本の最も確実な分子たちが共産主義インターナショナルとの直接的な接触を確立する必要性を理解していなかった為である。彼らはこのイニシアティヴをアナーキストや彼らほど確実ではない分子たちに委ねきっていた。

インターナショナルによる日本の革命勢力に対するあらゆる種類の支援提供の試みにも関わらず、日本における世界的政党の必要性に対する革命家たちの信念不足を取り繕うことは不可能であった。階級に対し革命家が担う責任は、革命家が生活する一地理的区域内に限定される「一国内」の責任において結びつけられるものではなく、インターナショナリスト的運動上にその基礎が置かれるものでなければならない。

このように、議会主義問題に関する衰退から教訓を引き出す為のマルキシズムの見地に立った批判的試みが欠如していたという点は、同時期に頭角を現した「左翼」共産主義・左翼反対派の諸勢力と日本の革命家との連携が皆無であっただけに、ますます深刻であった。孤立を破るにあたってのこれらの困難は、政治的・綱領的混乱へと導いた。

1920年から革命の波が引き潮へと向かう時、日本の労働者階級は革命家の実際的介入をその内に有すること無しに闘った。共産主義インターナショナルは、既に日和見主義の流れへと進んでいた時に党結成への参加を望む革命家たちの結集に献身する。1922年7月15日、日本共産党(PCJ)の創立が実現するにはこうした状況を背景としていた。

日本共産党(PCJ)の創立

日本共産党は組織的経験を殆どもたない様々なグループのメンバーと指導者たちによって結成され、いかなる実際のマルキシストの派、とりわけ組織的問題についてのいかなるマルキシストの派も備え持ってはいなかった。ICによって連絡を受け養成された旧指導者、即ち堺、山川、荒畑たちも入党し、その時まで彼らが指導していたそれぞれのグループも共に参加することになる。山川の「水曜会」及び『前衛』の発行に携わっていたグループ、堺の『無産階級』を中心としたサークル、「暁民共産党」、及び1921年に結成された労働組合の組合員たちである。同党は1923年には約50名のメンバーを有したが、入党の概念そのものに問題があった。というのは、同党は個人的なメンバーを一切数に入れて記さず、彼らは党結成の為に集結された様々な異なるグループの一つに属していたからである。更に、いかなる綱領、規約、選定された中央機関も存在しなかった。党員は特に各出身グループ内において活動的であり、山川と堺とを中心としたグループが党員の大多数を占めていた。

統合された単一団体の構築という役割に取り組む代わりに、党の生命は「細分化」させられ、これらのグループや旧来の指導的人物たちの重みにより強い影響を受けてゆくことになる。綱領に関するろ過が十分に成されていなかった為、現実的にはいかなる計画も練られてはいなかったのである。

その上、非合法という状況故に同党はいかなる自主的な機関紙の出版も許されず、いかなる公式な宣言も発行できなかった。党員たちが様々な政治的発行物において各々による個人的立場をとっていたのはそれが理由である。『前衛』、『無産階級』、『社会主義研究』の三誌が合併し、党の機関紙として『赤旗』の創刊が実現するのは、1923年4月まで待つことになる。

これと同時に、同党は大衆政党となることを求め、山川はインターナショナルの方向決定に従いつつ、その方針に沿って傾化してゆく。この大衆政党は「全ての組織化・非組織化された労働者、農民、中産階級の下層、そして全ての反資本主義運動および組織」を内包するとされた。従ってPCJは共産主義インターナショナルの方向決定を再度その手に取り戻したとは言え、それは自らの日和見主義的政策の表明でもあった。事実、この大衆政党の時代は当時ドイツのKPDにより明白に分析されたように過ぎ去っていった。

日本支部に関する綱領は1922年11月、ブハーリンを議長としたインターナショナルの委員会によって推敲された。この綱領は第一次大戦中の日本の急速な経済発展をについて論じていたが、特に以下の点が強調されていた:

「日本の資本主義は過去の封建的関係の遺制を今も表しており、その最も重要な名残が政府の最高位に就く「みかど」の存在である。(中略)封建制度の残滓は現在のあらゆる国家管理構造の中において同様に支配的役割を演じている。国家の諸機関は今も尚、商工産業のブルジョワジーと大地主による様々な諸部分から成るブロックの手中にある。この国家特有の半封建的性格は、特に国家憲法内における「元老」の持つ主要な役割によって如実に表されている。この状況を背景に、労働者階級や農民、小ブルジョワジーだけでなく、現行政府へ反対の立場をとることに利益をもつ自由主義ブルジョワジーを名乗る更に広い階層から、反政府勢力が生じて来る。ブルジョワ革命の達成は序幕となり、又ブルジョワジーに対する支配とプロレタリア独裁の確立を目指した前奏曲となることが可能である。(中略)封建的領主とブルジョワジーとの間における闘いは確実に革命的性質を帯びていくことになるであろう」(Houston p60、本誌による翻訳)

その創立大会の宣言において、共産主義インターナショナルはあらゆる場所における革命を喫緊の問題としていたにも関わらず、衰退したICは1922年より世界の各地域に従う各プロレタリアにそれぞれ異なる歴史的役割を割り当て始める。

日本を中国とインドとの同一計画内に含んで割り当てたのは、当時の日本にはまだ農民人口の比率が大きく、そしてとりわけ天皇と封建制の名残とが存在していたからであり、ICは日本の労働者階級にブルジョワの諸グループと同盟を結ぶことを提言する。共産主義インターナショナルのみならず日本共産党も、日本において既に深く根を下ろしていた国家の資本主義の現実の発達を過小評価していたのである。

天皇が常に政治的代表としての役割を演じていたにも関わらず、それは日本社会における階級構成にも、労働者階級が直面していた数々の歴史的任務にも、いかなる変化をももたらしてはいなかった。日本における資本主義の発達の歴史は他国と異なっていた為、同国における私的産業は確かに他の産業諸国においてほど発展してはいなかった。しかし、資本主義的生産様式の拡張以来、国有資本に対して私有資本の占める割合が比較的少ないという日本資本の特徴は、国家の高度成長によって「埋め合わせ」られていた。国家は非常に素早く日本の国家利益を守るための積極的かつ干渉主義的な役割を買って出た。前述の日本共産党と共産主義インターナショナルの立場には、この国家の資本主義のレヴェルを深刻に過小評価していたという背景があったのである。実際にはこの国家の資本主義ははるかに莫大な比率を占め、ある点までにおいては殆どの欧米諸国においてより日本において更に発達していたのである。

資本主義の上昇局面における資本の私有部門の発達が乏しかった為に、ブルジョワ諸政党がヨーロッパにおいてほど存在しなかったとしても、又、全体として議会制度の重みと影響とが他国に比べ少ないものであったとしても、それらの事実は日本の労働者階級が他と異なる歴史的任務を負い、ブルジョワ民主主義の議会制度のために闘わなければならなかったということを意味していたのではない。

PCJのこの方向決定はその内部において抵抗にぶつかることになる。山川は、もしブルジョワ民主主義が存在せず日本が軍隊と官僚とによる徒党に支配されていたとすれば、インターナショナルの分析とは逆に、ブルジョワ革命を実現するいかなる利益も存在しないと断言する。その結果、彼は選挙という場における党の結集に反対する立場をとる。

この主張は1923年3月の党会議にて議論されるが、いかなる決議も採られることはなかった。佐野学はプロレタリア革命が日本においても同様に喫緊の問題であるという基本的方針を含んだ綱領草案の代案を提案する。普通選挙権の要求に関しても同様に数々の不一致が存在し、佐野は議会への参加を拒否、同じく山川も選挙への参加反対の意見を述べる。

この批判の徹底的検討を助長することができたはずのヨーロッパの「左翼」共産主義・左翼反対派の声が日本には届かなかった為に、この批判が掘り下げられ綱領的基本の上に根を下ろすまでに至ることはなかった。

国際的レヴェルにおいてと同様、日本国内においても革命波の数々の闘争は衰退期にあった為、JPCは戦火の只中における介入の試験を実行することができなかった。その限られた組織的経験と日和見主義的で政策的に混乱した立場とを考慮に入れると、闘争組織として行動しその前衛的役割を果たすにあたって同党が最大限の困難にぶつかったであろうことが推定される。

日本のブルジョワジーによる戦略は、その他あらゆる支配階級による戦略と類似したものであった。即ち日本共産党に対する弾圧と侵入との行使である。1923年6月5日、同党は禁止処分を受け、約百名から二百名の党員が検挙され、警察に知られた全党員が投獄される。

1924年3月24日、同党は完全に解党させられる。荒畑はこの解散に反対し、党の存在維持の為に闘う必要性を擁護する一方、堺は違法の前衛政党は既に必要でもなく望まれてもいないと唱え解党を支持する。山川はと言うと、このような政党は労働者から離れてしまい、ブルジョワジーによる弾圧の餌食になるだけであり、マルキシストの革命家は労働組合や農民組合といった大衆組織に加わり将来の合法的なプロレタリア政党の確立を準備するべきであると説いた。こうして、強固な一集団ではなくむしろ様々な人物の結集であり、いかなる組織的構造も持たず、党の精神にのっとって機能することもなかった最初の共産党は、最後まで全くその任務を果たすことはできなかった。

世界的レヴェルにおける諸闘争の退潮の後、革命家たちは同一の任務に直面する。退化したICが大衆政党の設立と統一戦線という合言葉を持ち出し、そうすることによりますます疲労しますます方向を見失った労働者たちの間に混乱を増殖させていた一方、その結果革命家たちは分派の機能を発展させるという任務に専心することを余儀なくされてゆく。

しかし、ここでもまた日本の革命家はこの任務の遂行にあたり数々の大困難に衝突しなくてはならない。彼らの陣地からはインターナショナルの退化と戦い将来の政党の基礎を築く為の、いかなる分派も出現しない。

日本における反革命の高まり

日本の労働者階級に対する攻撃を増加させる為に、ブルジョワジーは自らに有利な形の力関係を行使する。第一次世界大戦下とそれに続いて生じた革命波の中において、労働者階級は他の国々においてほど急進化されてはおらず、その闘争への参加は周辺的な方法のみであったにもかかわらず、今度は1920年代を通し高まりを見せる反革命による過酷な仕打ちに遭うことになる。1923年の検挙以降、政府は労働者階級に対しさらに厳しい弾圧を加えるまたとない機会に飛びつく。その機会とは、同年9月1日に東京を襲い、10万人以上もの死者を出し、都心の大部分を破壊するという甚大な損害を与えた大震災がもたらした効果である。言論と思想を取り締まる警察(「特別高等警察」)が設置され、それに次ぐ数年の間に大量検挙が強行される。1928年には4千人、翌年1929年には5千人、1932年には1万4千人、その1933年には再び1万4千人の労働者が逮捕されることになる。

ヨーロッパは1920年代に微かで短命の経済復興を見せるものの、日本はそれより更に早い時期に世界的な経済恐慌に襲われ、国内の労働者に対する諸処の攻撃を強める原因になっていた。1929年の株の暴落の2年前、1927年の日本の大恐慌勃発までに、主要諸工業における生産力は既に40%も低下していた。日本の輸出額は1929年と1931年の間に50%減となる。

日本資本は新たな軍事的征服へと向かってゆく。ロシアへの介入が最大であった1921年の前後には国家予算のほぼ50%に達していた軍事費は、第一次大戦後にも現実には全く減少させられることはない。ヨーロッパやアメリカとは逆に、実際的な非武装化は実現されなかったのである。軍事費における僅かな減少があったものの、それによって浮いた費用は直ちに軍備の近代化へと還流された。日本の労働者階級は資本主義の攻撃と戦争へ向かう流れに対し微少な抵抗によってしか挑むことはできなかった。こういった背景において、日本の国家はヨーロッパの諸国家よりもはるかに早く経済における支配的立場を確立し、軍事的征服の道へ決然と臨んでゆきながら、非常に拡大した国家の資本主義体制を発達させ始める。

ヨーロッパにおいてよりもはるかに低かった労働者の生活水準は、さらに低下することになる。彼らの実際収入は1926年を基本に100とすれば、それは1930年には81、その翌年1931年には69にまで引き下げられ、地方では飢饉が広まるまでに至る[3]。労働者階級が衰弱させられ、資本が攻勢をかけていたこの環境の下、数々の闘争を人為的に扇動したり大衆政党の設立を試みることにより、この不利な力関係を何としてでも乗り越えようと試みた革命家たちが存在した。

PCJ、スターリニズムの従僕となる

1923年の革命波の末期、ロシアとICの懐においてスターリニズムが強化されていった時、共産主義の諸政党はますますモスクワの支配に服従しその道具と成り果ててゆく。PCJの発展はこの事態を如実に明示している。

ICはロシアの利益を守るため、どんな代価を払ってでも新政党を結成しようとする。1924年3月の解党後、共産主義インターナショナルは1925年8月に新たな共産主義のグループを設立し、このグループは1926年12月4日に新政党の宣言を発するが、これは単なるモスクワのオウムに過ぎなかった。1925年から既に、共産主義インターナショナルは『上海テーゼ』において旧同党の立場と機能とに関する批判を始めていた。明治維新と共に始まったブルジョワ民主主義革命は、今だに封建制度の名残(特に封建的地主)とブルジョワジーとが残存しているが故に、完成を遂げられなければならないというのがインターナショナルの指示であった。よって共産主義インターナショナルは「日本の国家は、国家そのものが日本の資本主義の強力な要素である。産業と経済部門への全投資の30%が国家出資である日本ほど、国家の資本主義導入が進んだ国はヨーロッパにはまだ一つも存在していない」点を認めながらも、封建制の残滓について強調していたのである。

しかしながら、インターナショナルによると日本の国家は現実にブルジョワ民主主義になる必要があるということであった。山川は国家と大金融資本家との間における政治的同一視を引き合いに出し、この分析に反対する。彼はブルジョワジーが日本においてかなり以前から権力を掌握してきたことを明言し、プロレタリアはモスクワが擁護したような「二段階革命」を拒否することによって、農民たちと反ブルジョワジー同盟を確立しなければならないと主張する。山川は労働者運動の内における左翼、もしくは農民・労働者の政党が、禁止された日本共産党に替わりその空席を埋めることができるという考えを支持していた。彼は1927年12月、雑誌『労農』の創刊に取り掛かる。

共産主義インターナショナルは「労働組合に対する潜入工作と征服」の政策を推し進める。これは1925年5月に結成された「日本労働組合評議会」に多大な影響を与える。

1928年の議会選挙において、PCJはその他「資本主義左翼」諸政党と共に「統一戦線」を張る。この諸政党の党員は増員しており、この内「無産大衆党」を含む内七党が結党し「日本大衆党」を結成していた。

1928年3月の新たな弾圧の波の後、左翼の全政党が結党禁止となり、諸政党の指導者たちが投獄される。彼らは違法な政治活動を続行すれば死刑宣告が下ることになると脅迫される。しかしながら、ひとたびPCの旧リーダーたちが警察によって投獄されると、モスクワは同年11月には新たに同党を再建できるようになる。つまり、モスクワの指示に厳密に従うことのできる別の中央委員会を配置することができたのである。日本共産党の中央委員会と幹部とは、それに続いた数年の間にインターナショナルの政策の変化に応じ取り替えられる。弾圧と逮捕との新たな波が去る毎に、常に新たな指示がモスクワにより送り出され、このようにして党の生命は「人工的に」維持され続けた。しかし、このように発揮されたあらゆる努力もむなしく、モスクワは加入者を明白な形で増やすことには全く成功しない。PCJはモスクワの単なるオウムに成り果てていた。

1928年に共産主義インターナショナルが、トロツキスト反対勢力と同様、現存していた「左翼」共産主義者・左翼反対派の闘士の全員を追放する「一国社会主義」を自らの公的な政策として宣言する時、日本共産党はいかなる反論もしない。同党はこれを共産主義インターナショナルによる労働者階級の利益に対する裏切りとはみなさなかったのである。5年来モスクワにより組織的・綱領的そしてあらゆるレヴェルにおいて「養われてきた」PCIはモスクワに対する完全な忠誠を守り、この状況に対しいかなる小さな抵抗をもって反対することもできない。1927年にて既に、水野成夫によって指導され後に逮捕されたPCJのグループは、インターナショナリズムを拒否し、「国家社会主義」の理念の擁護に取り掛かっていた。

言語の問題とこの時期の諸文献へのアクセスにおける困難は、我々が日本共産党の態度に決定的評価を下すにあたり慎重さを要求する。しかし、本テキストの執筆時点までに、スターリニズム化や「一国社会主義」理念へ反対した結果としてPCJから追放または分裂したグループを我々は知らない。PCJがいかなる批判もせず、スターリニズム化に対しいかなる抵抗をもって反対することもなかったと我々が推論できるのはこのためである。いずれにせよ、例え反対の声があったとしても、彼らがロシアにおける反対派、及びロシア外の「左翼」共産主義・左翼反対派の諸潮流と接触をもつことは一切なかった。隣国の中国において1927年に起こり、インターナショナル内および国際的レヴェルにおいても激しく討議された諸処の事件に関してさえ、我々の知る限り、インターナショナルのこの惨憺たる政策を告発する批判の声を日本から聞くことは全く無かった。

共産主義インターナショナルによる「一国社会主義」政策発表の後、党がまだ裏切られていなかったとしても、インターナショナリストの立場のために闘う事によって何らかのプロレタリア的抵抗を同党が誕生させることはできなかった。

日本の帝国主義戦争への道:

スターリニズムによるインターナショナリストの声の抹殺

日本資本が直面していた労働者階級はヨーロッパのプロレタリアよりも少ない抵抗を示していた為に、ヨーロッパの敵対諸国よりも早く徹底した戦争への競争に邁進し始めることが可能となる。1931年9月、日本軍は満州を占拠し、傀儡国家満州国を建国する。

戦争への競争が国際的に加速し、また1930年代半ばにおけるスペインの内戦がヨーロッパにおける数々の対決と第二次世界大戦とを目指した総稽古を意味していた時、1937年から1945年にかけ日中戦争が勃発することになる。

第二次世界大戦の開始以前から既に、日本の帝国主義は高度な残虐行為の螺旋を動かし始める。1937年、南京において数日の内に20万人以上の中国人が虐殺され、この戦争中に総7百万人が殺害される。

『BILAN』を出版した「左翼」共産主義・左翼反対派のグループは、スペイン内戦中に(分裂をその代価に)インターナショナリストの立場を擁護した稀なグループの一つであった。このグループはあらゆる革命勢力にとって根拠の焦点を代表している。一方日本においては、1905年の日露戦争と第一次大戦中に存在していたインターナショナリズムの貴重な伝統は、スターリニズムにより沈黙させられていた。ドイツにおけるヒットラーのNSDAPに比較し得る、1931年に結成された「日本国家社会党」と同国の社会民主党とは、日本の資本家の戦争への帝国主義的競争の参加を公然と支持する。「社会大衆党」も同様に「軍は資本主義とファシズムとの両方に対して戦う」という限りにおいて、1934年10月、日本軍の「国防努力」を支持し、同党の幹部は対中国戦争を「日本国民による聖戦」と形容する。日本の労働組合の全国大会において、「全総(全日本労働総同盟)」は1937年、労働者ストライキを違法とすることを決議する。

他方、「左翼」共産主義者・左翼反対派が唯一インターナショナリズムを擁護していたにも関わらず、スターリン主義の日本共産党とトロツキー自らが、中国の対日防衛を呼びかける。

1932年9月、日本共産党は次のように宣言する:「満州における日本帝国主義の戦争は、まず最初に中国革命とUSSRに反するよう向けられた数々の帝国主義戦争の新たな一連の始まりを示している。(中略)もし世界中の帝国主義者たちが我々の祖国・USSRに対し敢えて挑戦しようとするのであれば、世界のプロレタリアが武器を手に彼らに対し蜂起することを彼らに見せるであろう。(中略)ソヴィエト連邦の赤軍万歳、ソヴィエト中国の赤軍万歳!(Langer、1968年『Red Flag in Japan』より、当誌による翻訳)」。「帝国主義戦争廃止」、「中国への侵略を止めよ」、「革命的中国とソヴィエト連邦とを防衛せよ!」を合言葉に、同党は日本の資本家に対しロシアと中国を支援するよう呼びかける。日本共産党はモスクワの最高の従僕となっていったのである。

しかし、同様にトロツキーも第一次大戦中に擁護していた立場を船外に投げ捨てることになる。「現在の満州における日本の冒険は、日本を革命へと導くことができる」(1931年11月26日「ファシズムは実際に打ち勝つことが可能か?国際情勢の鍵はドイツにある」より、本誌による翻訳)という完全に間違ったヴィジョンを元に、彼はソヴィエト連邦に中国の軍国化を呼びかける:「日中間におけるこの巨大な歴史的戦いにおいて、ソヴィエト政府は中立を保っていることはできず、中国と日本とに対し同等の立場をとることはできない。ソヴィエト政府は中国国民を全面的に支援する義務を負っている」。「進歩的戦争の可能性」が今もなお存在していると考え、彼は次のように宣言する:「この世界に正義の戦争があるとすれば、それは中国国民による自らの圧制者に対する戦争である。中国における労働者階級の全ての組織、全ての進歩勢力は、この解放戦争において自らの綱領と政治的独立とを放棄することなしに自らの義務を果たすこととなるであろう」(1937年7月30日、本誌による翻訳)

「ブルジョワの新聞紙上の声明において、私は中国のあらゆる労働者組織の義務について語った。彼らの綱領と自立した活動を全くもって放棄することなく対日戦争の最前線へ積極的に参加するという義務についてである。しかしエイフェル派たち[4]はこれを「社会愛国主義」と呼ぶ。即ち『それは蒋介石を前に降伏することを意味している!これは階級闘争の諸原理に反することである。(中略)帝国主義戦争において、ボルシェヴィズムは革命的祖国敗北主義の為に闘っている。スペイン内戦と日中戦争とは共に帝国主義戦争である。(中略)我々は中国における戦争に関し同様の立場をとる。中国における労働者と農民にとっての唯一の救いとは、日本と中国両者の軍隊に対する独立した勢力として行動することである。』と彼らは主張するのである。(中略)1937年9月1日のエイフェル派の文書におけるこの数行は、彼らが裏切り者かまたは完全な愚か者であることを明らかにしている。しかし愚かさもこれほどまでの比率に達すると、それは裏切りとなる。(中略)圧制国と被圧制国とを区別することなしに一般的に革命的祖国敗北主義について語ることは、ボルシェヴィズムを惨めなカリカチュアへと変形し、このカリカチュアを帝国主義に奉仕させることである。中国は我々の目前で日本により植民地化されようとしている半植民国である。日本に関して言えば、同国は反動的な帝国主義戦争を導いている。中国はと言うと、進歩的な解放戦争を導いている。(中略)日本の愛国主義は卑劣で醜悪な顔をした国際的略奪行為である。中国の愛国主義は正当であり進歩主義的である。この二つの愛国主義を同じ次元に置き「社会愛国主義」として語ることは、レーニンを全く読んだことがなく、帝国主義戦争におけるボルシェヴィキの態度を全く理解していないことを表し、それを擁護することは単にマルキシズムを侮辱することに他ならない。(中略)我々は第四インターナショナルが日本に対する中国の側についているという事実を強く主張しなくてはならない」(「日中戦争について」ディエゴへの手紙より抜粋、本誌による翻訳)

帝国主義の二つの陣地に対する容赦なき闘いの全ての伝統は、トロツキーにより放棄された。この帝国主義的対決の際にインターナショナリストの立場を明白に擁護したのは、「左翼」共産主義・左翼反対派のグループたちのみであった。『BILAN』のグループはこの戦争に関し次のような立場をとる:「世界的プロレタリアが、共産主義インターナショナルとソヴィエト・ロシアとによって中国における(1927年の)ブルジョワ的・反帝国主義革命の可能性を検討するよう差し向けられた際、実際には世界的資本主義のための犠牲となったことは、過去の経験が証明している」(1937年11-12月、「日中戦争に関するインターナショナル「左翼」共産主義イタリア分派、執行委員会による決議」)。

「そして、まさに諸処の国民戦争が美術館行きの骨董品扱いになっているこの歴史的段階において、労働者を中国国民の「国民解放戦争」へ動員しようとしているのである」

「今日、一体誰が中国の「独立戦争」を支持しているのか?(中略)ロシア、イギリス、アメリカ及びフランスである。全ての帝国主義諸国がこの戦争を支援している。(中略)そしてトロツキーまでが帝国主義戦争の流れによって再度引きずられ、中国国民の「正当な戦争」の支援を奨励している。(後略)」

「戦線の両側に強欲なブルジョワジーが存在し、この支配者はプロレタリアを虐殺することのみを目的としている。中国の労働者が、例え暫定的であれ「共に歩む」ことができるブルジョワジーが存在するなどと、又は中国の労働者が革命の為に闘い勝利を収めることを可能にするにはただ日本の帝国主義のみを打倒すれば良いなどと信じさせようとする事は、偽り、完全なる偽りである。帝国主義は至るところで先頭に立っており、中国もその他の帝国主義諸国の玩具に過ぎない。革命的戦闘の道を垣間見る為には、中国と日本の労働者が互いに歩み寄って進むよう導く階級の道を見つけなければならない。即ち、友愛でもって彼らの搾取者に対する同時襲撃を強固にしなければならないのである(後略)」

≪共産主義インターナショナルの左翼反対派の諸分派のみが、全ての裏切り者や日和見主義者たちによる諸潮流に反対し、革命の為の闘争の旗を勇敢にかざしていくであろう。唯一これらの分派のみが、アジアを血で染めている帝国主義戦争を、労働者を搾取者に対して向かわせる内戦へと転化する為に闘うであろう。即ちそれは、中国と日本の労働者との友愛、「国民戦争」の戦線の破壊、中国国民党に対する闘い、日本帝国主義に対する闘い、労働者間において帝国主義戦争の為に行動するあらゆる潮流に対する闘いである。≫

「世界のプロレタリアはこの新たな戦争の中で、自らの死刑執行人と裏切り者から逃れ、それぞれが各ブルジョワジーに対する戦闘を勃発させることにより、アジアの同志たちへの連帯を表明する力を見つけなくてはならない。

中国における帝国主義戦争打倒!中国のブルジョワジーと日本の帝国主義に対する全ての被搾取者による内戦万歳!」(BILAN、「中国における帝国主義的殺戮を停止させよ!直ちに戦争を内戦へと転化するため、全ての死刑執行人に反対せよ」1937年10-11月)

これは、第一次世界大戦の革命家たちの立場の唯一の継続である、「左翼」共産主義・左翼反対派よるインターナショナリストの伝統の表現であった。しかしながら、このインターナショナリストの旗が日本の革命勢力によって引き取られることは皆無であったようである。

ヨーロッパではブルジョワジーが「人民戦線」政策に着手する。この戦術の目的は、ヒットラー率いるファシスト・ドイツに対し「民主国家」防衛の帝国主義戦争へと労働者階級を徴募することにあった。労働者をこの戦争に動員させる為に、ブルジョワジーは「民主主義」の擁護という名目により労働者を騙す必要があったのである。一方日本においては、労働者階級は既にその大部分が敗北させられていた。

ソヴィエト連邦の擁護を目的とした左翼の諸政党による統一戦線の構築を目指したPCJによる初の呼びかけは、日本国家の利益に与していた同諸政党により拒否される。PCJ自身も就くべき陣営を決定していた。

日中戦争の勃発以前より既にまたもや禁止処分下にあったPCJの生存者たちは、日本に対するソヴィエト連邦の擁護を呼びかける。

戦争中、同党の中でまだ活動を続けていた者たちは「日本の軍事・封建的秩序を「ブルジョワ民主主義革命」により破壊」するよう呼びかけ、「その過程においては資本主義諸国家との積極的な協力が必要になる」と宣言する。このような議論を基に、日本共産党は「帝国主義日本!」に対する紛争中のアメリカとロシアとを支持するのである。

1945年から1946年の冬にかけて、アメリカの占領下PCJは再編成される。綱領は1927年と1932年のテーゼにならって推敲され、「二段階革命」の計画が準備されていた。喫緊の任務は「帝国主義制度を乗り越え、日本において民主主義と土地改革とを実現する」ことにあった。

この戦略はアメリカと共に日本の非武装化と動員解除にとっての協力の基本を提供することになる。連合国軍とアメリカの最高司令官たちは、ブルジョワ民主主義革命を達成する歴史的任務を負った進歩主義ブルジョワジーの一部として見なされた。

世界中どこにおいてもそうであるように、戦後の労働者階級はかつてないほど衰弱しきっていた。

復興はこのひどく敗北し士気を失った階級と共に行われる。何十年もの間、支配者階級は日本の労働者階級を、長時間の労働と低賃金とに耐える、従順で盲従的な、打ち負かされ屈従させられた階級のモデルそのものとして喜んで紹介することになる。

1968年のヨーロッパ、特にフランスにおける数々の巨大なストライキの後、世界の労働者階級は50年以上続いた反革命に終止符を打つことにより再び歴史的舞台にその姿を現す。そして、左翼共産主義・左翼反対派の伝統を再度見出すことができたいくつかのグループを含む数々の小さな革命的グループを再び続けざまに誕生させることになる。しかし日本においては、資本主義左翼のグループが政治的舞台を完全に支配していた。我々の知る限り、歴史的プロレタリア政治界、つまり左翼共産主義・左翼反対派の伝統を主張するグループたちとの連絡を確立できた勢力は存在しなかった。

復興期の後、経済恐慌への突入と事実上10年来の日本における公然たる景気後退と共に、日本の労働者階級がさらに質的に進んだレヴェルの恐慌による攻撃に対し、自らの身を護ることを余儀なくされる立場に陥ることは単に時間の問題である。この階級衝突は革命家による最も決然たる介入を必要とするであろう。にも関わらず、革命家がその任務を達成できる為に出現するプロレタリア政治の分子は、世界のプロレタリア政治界との連結を確立し、自らをこの国際的実体の一部として理解することが必要となるであろう。

100年以上ものほぼ完全なる政治的孤立は乗り越えられなければならない。この任務に取り掛かる為の諸条件が今日ほど揃っていたことはかつてないのである。

DA

参考文献:

  • Germaine Hoston, Marxism and the Crisis of Development in
    Prewar Japan,
  • John
    Crump, The Origins of Socialist Thought in Japan, (London) ,1983
  • Beckmann
    & Genji, The Japanese Communist Party, 1969,
  • A Short
    History of The Anarchist Movement in Japan, Tokyo, 1979
  • A
    Political History of Japanese Capitalism, Jon Halliday, 1975

[1]日本の下関港に到着後、彼は東京行きの電車に乗り遅れ下関の町で一夜を越すことを余儀なくされる。ここで彼はICの資金の一部を芸者と酒類とに浪費する。夜が更け泥酔した彼は警察に検挙され、芸者が騙し取らずにまだ手元にあった残りの資金を没収される。獄中にて警察の密偵と話し自らの中国での任務を告白するが、それにもかかわらず釈放された。

[2] べトログラードにおける同大会開催時と時を全く同じくして、山川派のグループは『前衛』誌を創刊する。1922年4月より堺派のグループは『無産階級』誌を、同年6月には『労働組合』誌を発行する。その間、1922年1月よりアナーキストの大杉も同様に『労働運動』誌の再刊行を始めていた。

[3]地方の住民たちの間における食糧不足は非常に拡がった現象であった。繊維産業における一日の労働時間は12時間前後かそれ以上に及んだ。1930年代においてはまだ44%の割合で女性が紡績工場および繊維産業での労働に従事しており、91%の女性労働力が搾取にとって常に最も好都合なように宿舎にて寝泊りしていた。

[4] パウル・キルヒホフ(1900-1972)の変名であるエイフェルはKAPD(ドイツ共産主義労働者党)の一員である。1933年のナチスによる権力掌握後、彼はフランスに亡命し、亡命中のドイツ・トロツキストのグループのために働くが、トロツキストの加入戦術に反対する。1930年と1940年間のメキシコ滞在中、「Groupo de trabajadores
marxistas」の機関紙『Communismo(共産主義)』の発行に協力する(1977年6-8月第10号、インターナショナル・レヴュー参照)。