2006年春のフランス学生運動についてのテーゼ

以下の諸テーゼは、学生運動の続行中に国際共産主義潮流(CCI)により採用されたものである。4月4日のデモは、3月28日のデモより小規模になるであろうという政府の希望を見事に破った。特に今回のデモにおいて、民間の労働者の数は以前より増加した。3月31日のテレビ演説で、シラク大統領は「機会均等」法の採用を発表すると同時に、学生たち怒りの主な対象である「初期雇用計画(CPE)」を設立する当法の第8条が実行されないよう頼むという愚かな操りを試みた。この情けない軽業的な行為は、運動を弱めるどころかむしろ拍車を掛けることになった。それは1968年と同様、経済の生産的分野における自発的なストライキの可能性を増長させた。政府は自らの嘆かわしい操作が運動の破壊に失敗したという事実を受け入れざるを得なくなり、その結果、最終的な操作があっても、遂に4月10日にCPEを撤回した。実際には、以下のテーゼは政府が妥協しないことを予想していた。政府がこれほどまでの後退をみせたこの危機のエピローグは、これらのテーゼの中心的主張、即ちこの2006年春の日々における労働者階級の若い世代らの動員の深遠さと重要さとの主張を、確認・補強してくれるものになったことを示している。

政府がCPEを撤回した結果、その撤回を第一の要求としていた運動は動力を失ってきた。それは、明らかにブルジョアジー各層が願望するように物事が「通常に戻る」ということを意味するのであろうか?決してそうではない。テーゼが議論する通り、「(ブルジョアジーは)何万人もの未来の労働者達が数週間に及ぶ闘争において得た全ての経験、その政治的認識、発展する意識を抑圧することはできない。反CPE運動はプロレタリアートの未来における闘争のための貴重な宝の山になり、 共産主義革命への道へと辿り着く肝心な成分である」。この素晴らしい闘争の役者達は、この経験からその長・短所両方を含んだ教訓を引き出し、この宝物に実を結ばせることが極めて重要である。何よりも、彼らが引き起こしたばかりの闘争が既に孕んでおり、現在の社会が直面している展望を明らかにする必要がある。つまり、死亡危機にある資本主義が必然的に被搾取階級に対して仕掛けるますますの攻撃に対抗する為に後者にとって唯一可能な反応とは、自らの抵抗を強化し、その制度の打倒を用意することにある。終結しつつあるこの闘争のごとく、この反省は集団的に行なわれる必要がある。それは新たな集会や議論を通し実行され、とりわけ労働者階級の闘争を支持する諸政治組織に対してそれぞれの総会が開かれていたのと同様に、それらは参加を希望する万人に対し開かれたものでなければならない。

この集団的反省は、闘争においてその役者同士を強く結んでいたものと同じ友愛的団結と連帯感とを維持することによってのみ可能となるであろう。この意味において、この闘争の参加者の大多数が前の形態における闘争が終結になったことを気づいた今、後衛行動や極小数派の「最後の最後までやりぬく」ピケがふさわしい時期ではない。むしろそれらの行動は敗北へ追い込まれるのを免れず、数週間に及び労働者階級の著しい闘争を実施した人々の中に分裂や緊張を生じさせる危険を冒しかねないこととなる。

(2006年4月18日)

運動のプロレタリアート的本質

1)フランスにおける現在の学生の動員は、既にここ15年間における国内の階級闘争史上、主要な出来事と位置付けられるものになってきている。それは、少なくとも1995年秋の社会保障制度の改革に対する複数の闘争や、2003年春の公務員の年金制度改革に対する闘争と同等の重要性をもっている。現在の動員者に賃労働者はおらず(わずかの行動日と2月7日、3月7日、3月18日や3月28日に行なわれたデモの参加者を除き)、逆に未だ労働の世界へ足を踏み入れていない社会層である学生の若者が動員しているという点からすれば、この断定は逆説的に見えるかもしれない。しかしながら、この事実は全くこの運動のプロレタリアート的本質について再び問題にはしなかった。その理由を以下に述べる: 

  • 近年、資本主義経済の変化は更に有能で有資格者である労働人口を求め、大学生(未来の「技術者」(実際には有資格労働者)のための比較的短い訓練学科を提供することを請け負っている大学技術研究所を含む)の多くが卒業後、労働者階級の中に入るようになってきている(これはもはや典型的なブルー・カラー:産業労働者に限ることではなく、民間産業における事務員や中間管理職者、看護婦、小・中等教育の教師の大多数、及び公務員その他の職務等も含まれている)。
  • 同時に、学生たちの社会的出身が大幅に変わってきている。これは、労働者階級出身の学生数(上記の条件通り)の多大な増加によるものであり、学業を続ける為、或いは家族からの最低限の独立を実現する為に働くことを余儀なくされる現実を抱えた学生の増加(約50%)に繋がることを示している。
  • 学生たちの主な要求は、今日の学生たち(つまり明日の労働者)又は若い賃金生活者たちに対してのみでなく、労働者階級の全体に対し影響を与える経済的な攻撃の撤退(「初期雇用契約(CPE)」という新法案)にある。なぜなら、雇用後最初の2年間の内に即時そして理由無き解雇の可能性をもつという危険に身をさらした労働人口を職場に存在させることは、他の労働者にとってプレッシャーをかける以外に何物をももたらさないからである。 

運動のプロレタリアート的本質は、当初、総会の大多数が排他的に「学生の要求」(最近フランスに課され、ある学生達を罰することになる欧州の学位制度:LMDの取り下げの要求のように)を要求書から取り下げた時点から明らかであった。この決定は学生たちの大半数によって最初から表現された、労働者階級全体(総会では「賃金労働者」という表現を一般的に用いていた)からの連帯を求めることだけでなく、積極的に闘争に入ってくることを求める欲求に対応したものであった。

運動の核心である総会

2)運動の深いプロレタリアート的本質はその闘争の形態によってもはっきりと示され、特に最高総会という形態にて表される活気ある現実は、労組が平常呼びかける「総会」の風刺画からはかけ離れたものである。この分野において、各大学において明らかに大幅な不均一性があった。未だに労組の総会と様々な面で酷似している総会があった一方、関与性や成熟性が高い参加者による熱心な反省・熟考の過程を実現する生きた場としての総会が存在した。しかしながらこの不均一性にも関らず、初期の数日間の後に、「ある課題について投票するか否かについての投票」といった堂々巡りの問題(例えば総会における大学外の人間の存在を認めるかどうか、彼らに発言権を与えるべきかどうか等)が多くの学生たちを会から離れる結果に導いてしまっただけではなく、重要な決議が学生労組や政治団体によって可決されるに至るという事態を引き起こしたりしたにも関わらず、これらの障害を乗り超えることができた総会が数多くあったという事実は注目すべきことである。

運動の初期2週間にわたる主な傾向は、総会に参加する学生数及び彼らの諸討論への積極的参加のますますの増加であり、それに比例した労組員と政治団体らの介入の割合の減少である。総会が自らの活動を次第に自主管理してきていることは、討論会で議論を組織している学生たちが、労組と政治団体に関連した学生たちから、運動の開始以前には何らの実際的活動経験や関連をもたなかった個人に対してますます向かっていったことから明確に表された。同様に、最も良く組織された総会は毎日の議論を組織・運営するチーム(通常3人)を日々交代していた一方、最も活気に欠きあまり良く組織されていない総会は常に同じチームに「指導」され、さらに前者に比べはるかに人員過剰であった。又、後者の総会の形態が前者の総会の形態に取り替えられるという傾向があった点に注目することが重要である。そして、この展開において最も重要な点の一つは、ある一つの大学の学生代表者が他の大学の総会に参加したことにある。これは異なった総会間における力と連帯感とを高めることに加え、ためらいがちな総会が最前線にいる総会から示唆を得ることを可能にした[1]。これも、意識と理解力の高いレヴェルに至った階級運動における労働者総会の原動力がもつ重要な特徴である。

3) この期間における大学内の総会のプロレタリアート的本質の主な表現のひとつとして、総会が他大学の学生のみならず学生ではない人たちにとっても直ちに開かれていったという事実が挙げられる。当初より、総会は大学内の人々(教師、技術者および事務員)に参加を呼びかけ運動に加わるよう声をかけた上に、更にそれだけには止まらなかった。とりわけ賃金生活者に対しての運動の広がりを促す介入を行なう度に、総会は特に一般の労働者及び定年退職者、闘争中の大学生及び高校生の両親や祖父母を、概して暖かく歓迎したのである。

総会を直接的な関係のある部門や会社に雇用されていない人たちに対し、観察者としてのみならず積極的な参加者としても開くことは、労働者階級の運動の極めて重要な特徴である。投票が必要な決議がある場合、総会が基づくある生産的又は地域的な単位に属する人たちのみが決議に参加できるような形式をとることが必要になり得ることは明らかである。そうなると、ブルジョワジーの政治のプロや彼らの手配たちが総会を「詰める」ことを妨ぐことができる。このため多くの学生総会は、挙手による手の数ではなく、学生証(大学ごとに異なる)を数える方法を用いた。総会の公開性は闘争にとって、そして労働階級にとって決定的な問題である。「通常」時、すなわち激しい闘争の期間外において、労働者にもっとも影響を与える者は、資本階級の組織会員(労組、又は「左翼」諸党)である。総会を閉じたものにしておくことは、彼らにとって労働者を管理し続け、闘争の動力を妨害し、ブルジョワジーの利害に仕えるためのすばらしい方法である。総会を公開することは、階級の最も進んだ分子、特に革命的組織にとって、闘争中の労働者の意識発展へ貢献することを可能にさせ、それは階級闘争の歴史上においてプロレタリアの方向性を守る潮流と資本家の秩序を守る潮流との分け目を常に設けてきたのである。

その例は多数挙げられるが、中でも最も重要な例の一つとして1918年12月中旬のベルリンにおける労働者評議会の総会が挙げられる。これは、その前月、11月の反戦兵士たちと労働者とによる反乱がドイツのブルジョワジーに戦争をやめさせるに至らせたのみか、カイザー(皇帝)をも退位させ、政治権力を社会民主党に譲った後に実現された。採用された代表者の選任方法に加え、労働者階級における意識の未熟性のために、この総会はロシアの革命的な評議会:ソヴィエトの代表者を禁じ、さらに「労働者ではない」ことを名目に革命運動の二大偉業者であるローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトの参加を禁じた社民党に支配されてしまった。この総会は遂にはその全権力を社民党が先導する政府に丸ごと渡し、この政府がその翌月にローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトを暗殺することになる。もう一つ関連する例として挙げられるのが、国際労働者協会(IWA:第一インター)の総会である。1866年の総会において、ブロンズ彫金工のトランとその他のフランスの指導者は、「総会で投票権をもつのは労働者のみである」という規則 -カール・マルクスとその近親の同志たちを主に狙った規則- を押し付けようとした。1871年のパリ・コミューン当時、マルクスがその規則の熱烈な擁護者であった一方、トランはヴェルサイユ市にて3万人もの労働者の虐殺を伴うコミューンの潰滅の責任を負う組織に入っていたのである。

現在のの学生運動に関して、総会を公開するためにもっとも抵抗を示したのは学生労組、UNEF:全仏学生連盟(社民党の指揮下)のメンバーであり、UNEFの影響が最小であった時にこそ総会がより公開性をもっていたという事実は重要である。 

1995年や2003年と違い、ブルジョワジーはこの運動によって驚かされた

4)フランスにおける階級闘争の現代のエピソードにおいて最も重要な特徴の一つは、この闘争がブルジョワジーの全部門とその政治的な機構(右翼、左翼党および労組組織)をほとんど完全に奇襲したということである。これはこの運動の活力と深さを示すと同時に、今日のフランスにおける支配階級の非常に脆い立場を理解させてくれる特徴である。この点において、現在の運動と1995年秋および2003年春の大規模の諸闘争とをはっきり区別しないといけない。

1995年の社会保障制度の改革を掲げた「ジュペ計画」に反対する労働者の動員は、現実には、政府と労組との間において為された非常に巧妙な手分けのもとに指揮・組織化されたものであった。当時の首相アラン・ジュペは彼特有の傲慢さでもって、社会保障に対する攻撃(公・民両部門の従業員に影響を与えるもの)に、SNCF(フランス国鉄)の労働者およびその他国営運送会社の労働者の年金に対する特定な攻撃を加えた。よって、これらの労働者たちが動員の先頭になった。クリスマスの数日前、ストライキが数週間に至った頃、労組らのアピールの後、政府は自らの特別年金制度の計画を取り下げ、その報いに該当する部門を職務に復帰させた。

この最も直接的な影響を受けた部門の労働者の職務復帰は、当然のことながら、他の全部門における運動の終結を意味した。彼らとしては、運動の拡大を呼びかけたり定期的な総会を開くことによって、労組のほとんど(CFDTを除く)がかなり戦闘的に行動した。その運動の規模にもかかわらず、労働者の動員は勝利には終わらず、社会保障制度改革を掲げるジュペ計画の取り下げという基本的要求を呑ませることができなかったため、根本的には敗北に終わった。しかしながら、政府による特別年金制度の計画の取り下げを持って、労組は敗北を勝利に粉飾させることができ、90年代における労働者闘争に対する度々の妨害工作で悪名高い彼らの評判を改装することになった。

2003年における公共部門の動員は、退職年金受給資格を得るための最低勤務年数を増加させるという決定に対する反応であった。この政策は国家公務員の全員を対象にしたが、この年金に対する攻撃に加え、いわゆる「地方分権化」に乗じた更なる攻撃で苦しんだのは、教育機関に携わる教師たち及びその他の従業員たちであった。後者の政策は一般に教師たちをターゲットに据えたものではなかったが、同僚に対する攻撃とそれに反対する動員に、彼らは特に動かされた。さらに、労働者階級の複数の部門(職業訓練に費やす年月のため、23歳或いはさらには25歳より前に労働を開始できない労働者達を指す)にとって最低勤務年数を40年間あるいはそれ以上に増やすことは、法律上60歳とされた定年年齢をはるかに超えて、より過酷で疲労の激しい状況で働き続けることを余儀なくされるということを意味していた。

ジャン=ピエール・ラファラン首相は、ジュペ首相とは又違うスタイルで、「支配するのは街頭ではない」と宣言し、同様に強気な発言をしてみせた。結局、教育部門の労働者の闘争性とその不屈の精神(6週間にわたるストライキを決行したものもあった)にも関わらず、又、68年5月以来最大のデモの一つであったにも関らず、この運動は政府を押し返すことができなかった。政府は、動員が弱くなり始めた時に、教育機関の非教員の職員達に影響を及ぼす特定な政策を撤回することを決定したにすぎず、その魂胆は様々な職業のグループ同士の団結を破り、それによって動員の動力を蝕むことにあった。学校職員の必然的な職務復帰は運動の終結を意味し、1995年と同様に、年金に対する政府の主な攻撃を押し返すことは出来なかった。しかし、労組が1995年の出来事を「勝利」として示すことによって全ての労働者上への影響力を強めることが可能であったのに対し、2003年の職務復帰は主に敗北として感じられた(特にほぼ6週間分の賃金を失った教師たちのうち大多数にとって)。これは労組に対する労働者の信頼に対し多大な影響を及ぼした。

フランス右翼の政治的弱点

5.1995年と2003年における労働者階級に対する攻撃の主な特徴を以下の様にまとめることができる。

  • 両者ともに、第二次世界大戦後に築かれた福祉国家の機構、特に社会保障制度や年金制度の破壊を続けることが、世界的な経済危機や公的金融の赤字と直面した資本主義にとって不可避な必然であるという事実に対応したものである。
  • 両者ともに、様々な資本主義の機関、特に右翼政府と労組組織によって慎重に用意された。その目的は労働者階級を経済的のみならず政治的且つ観念的なレヴェルにおいても敗北に追いやることにある。
  • 両者ともに、特定な部門に対する攻撃を積み重ね、より一般化した動員を引き起こし、そしてその後に運動全体を和らげるために元の部門に対するある特殊な攻撃を「取り下げる」方法を使った。
  • しかしながら、ブルジョワジーによる攻撃の政治的側面は、その攻撃の方法における類似にも関わらず、両者共が同じケースに当てはまるものではなかった。1995年において動員の結果が労組の功績になる「勝利」として発表されなければならなかった一方、2003年は、その敗北の明白な事実が士気をくじく要因であり、労組に対する信用の損失にもなった。

現在の動員に関して、ある数の事実が明らかである。

  • CPE法はフランス経済にとって不可欠な措置では全くなかった。これは雇用者と右翼議員の大多数が不賛成であったという事実により明白に示された。政権のメンバーの大多数も同じく、特に直接に関与した雇用大臣(ジェラール・ラルシェ)及び「社会団結」大臣(ジャン=ルイ・ボルロー)に関しても同様であった。
  • 資本家の立場から言えばこの措置が不可欠ではなという事実と共に、CPE法を通過させる用意はほとんど無に等しかった。1995年と2003年の攻撃が労組との「討論」によって事前に準備されたことに比べ(両年ともに、その準備は周到であり、社民党と連携のある最も主力な組合の一つであるCFDT:民主労働同盟が政府の案を支援したほどである)、CPE法は「機会均等法」と命名された法案の一部に含められた一連の諸処の措置の内の一つであり、事前に労組との話し合いも持たず、急いで国会に提出された。この法案のもっともいやらしい面の一つは、雇用不安に対して闘う法案であるかのように主張する一方で、26歳未満の若年層労働者の不安定を制度化し、又2005年の秋に反乱を起こした「問題のある」郊外団地の若者にとって有益な法案であることを主張する一方で、その同じ若者たちに対し、例えば職業訓練という名目にかこつけて14歳以上の若者たちに労働を、15歳以上の若者たちに夜勤を課す等、数々の攻撃をしかけたという事実にある。

6.この政府がとる手段の挑発的な性格は、その乱暴な法案通過の試みによっても明らかにされた。議会投票なしでの適用を可能にする憲法の規定を用い、高校や大学の長期休暇中に決議したのである。しかしながら、ヴィルパン及びその政府は、この「賢明な操作」にしくじってしまった。学生たちの反応を回避するどころか、彼らは学生達を余計に怒らせることになり、この法案を抵抗する意志を固めることになった。1995年、ジュペ首相の挑発的な言動と横柄な態度とがストライキ行動を急進化させた時と同様である。しかしその当時は、ブルジョワジーが労働者の反応を予想し、対応することができるという自信をもっていたため、挑発は意図的であった。いわゆる「社会主義」諸国の崩壊をめぐり進行中の観念的なキャンペーン(それは確かに闘争を発展する可能性を減少させるに違いない)の重みに労働者階級が未だ苦しんでいるという状況において、労組に対する信頼性を一新するためにこれら諸処の事件を操作する事は可能であった。一方、今日においてヴィルパンは、この政策が学生のみならず労働者階級の大多数の怒りをも挑発することになろうとは予想だにしていなかった。2005年、ヴィルパンは何の支障も無く「新雇用契約」(CNE)法を議会で通過させることができた。この法律は、従業員数が20人以下の会社に、2年以内に雇用された労働者を、その年齢を問わず、又特定の理由も無しに解雇することを認めるものであった。CNE法の規定を公共と民間部門の会社の両方にまで適用し、ただし26歳未満の労働者に限り影響を及ばすこととなるCPE法は、その通過時には同様の受容がなされることと予想していたのである。それに引き続いた諸処の出来事は、メディアとブルジョワジーのあらゆる政派が政府が深刻な判断の間違いを起こしてしまったことを認めた為、政府が極めてもろい状況に追いやられたことを示した。ところが実際のところ、この非常な難局に立たされたのは政府だけでなく、ヴィルパンがとった手法を批判する全政党(両右翼、左翼)と労組にとっても、非常な当惑を引き起こす結果を招いたのである。さらに、ヴィルパンは自らこのアプローチをとったことに対し「後悔」していると発言し、ある程度までは自らの誤りを認めることになった。

政府、そしてとりわけその元首であるヴィルパンが明らかな間違いを犯したことについて議論の余地はない。左翼と労組たちの多数は、ヴィルパンを「自閉症患者」[2]、或いは「人民」の実際的な要求が理解できない「気高いお人」として形容している。彼の右翼の「友達」(特に、当然のことながら彼の第一のライバルであるニコラ・サルコジと親しい者たち)は、彼が一度も選挙を勝ち抜いて政権に就いたことがない点を指摘し(数年間にわたる下院議員(MP)や重要都市の市長[3]としての経験をもつサルコジと違って)、それ故に一般の投票者や自分の党内にも存在する庶民の気持ちを理解することができないと指摘している。又、ヴィルパンは詩や文学を好む故、一種の「芸術愛好家」に過ぎず、政治理解に関しては素人芸程度でしかないとも言われている。しかし、今回のこの攻撃を受ける以前から、ヴィルパンが受けていた批判の中で最も多かったのが、「社会的アクター」であり「中間団体」とも(メディア社会学者たちの用語を用いれば)形容される、労組たちとの相談に失敗したという批判であり、この批評は雇用者側からも同様のものであった。最も辛辣な批判が、労組のなかでも最も穏健であり、1995年と2003年における政府による攻撃を支援した労組・CFDTによってなされたのである。

こういった事情により、フランス右翼は世界一「愚劣」な右翼であるという評判に十分に応えたと言えよう。より一般的に言えば、フランスのブルジョワジーが、過去1981年や2002年と同様に、選挙上の「事故」を導いた政治的ゲームを今も変らずマスターできないという自身の無能さに対し、ある意味では再びそのツケを払っていることを示している。1981年の場合では、右翼が団結を欠いていたため、左翼が政府に入り、他の諸大国(特にイギリス、ドイツ、イタリアおよび米国)のブルジョワジーが社会状況に対してとった方針の流行に逆らった。2002年の場合では、左翼が(こちらも同じく団結を欠いていたため)大統領選挙の第二回(決戦)投票に至ることができず、ル・ペン(極右翼の指導者)とシラクとの決勝戦を迎えるに至った。両者のうちの「より少ない悪」の選択として左翼の全投票が移されたことにより、シラクは再当選を果たした。

このようにシラクの再当選は左翼のおかげであったため、左翼のチャンピオン、リオネル・ジョスパンを負かして当選した場合よりも、シラクには戦略的な政策転換を行なう余裕が少なかった。このシラク当選の正当性における縮小は、労働者階級に直面し攻撃するための当政府の弱みを説明する要素の一つである。とは言え、右翼(および広い意味でフランスのブルジョワジーの政治機構)のこの政治的弱点は、労働者の年金に対する猛攻撃の実行を止めさせるには至らなかった。とりわけ、この弱点が現在の運動の規模や、特に数10万人の若い未来労働者の動員、そして運動の動力およびこの真にプロレタリア的な闘争形態の採用について説明することはできない。

労働者闘争の復活および階級意識発達の表現

7.1968年における学生たちの動員および労働者の巨大なストライキ(900万人が数週間にわたるストライキを決行、ストライキ決行日の総数が1億5000日)も、ある程度はシャルル・ド・ゴール政権がその終焉に起こした間違いの結果として発生したものであった。学生たちに向けた当局の挑発的な態度(5月3日、100年ぶりにソルボンヌ大学に突入した警察が、強制撤去に反対しようとした学生たちの多数を逮捕・投獄)が、5月3日から5月10日にわたる1週間の巨大な学生動員の引き金となったのである。5月10日と11日の激しい弾圧の後、又それが世論に与えた影響の結果、政府はソルボンヌ大学の再開とその前週に逮捕された学生の釈放という、学生たちの二つの要求を呑むことを決定した。

5月13日の政府の撤退と労組に呼びかけられたデモの成功[4]とは、クレオンにおけるルノーやナントにおける南方航空事業(Sud Aviation:シュド・アビアシオン)といった大工場での数々の自発的就業拒否に力をつけた。主に若年労働者によって行われたこれらのストライキの理由のひとつとして、学生たちの決意が政府を後退させることに成功したのだとすれば、自分たち労働者も政府を後退させる事が可能に違いないということに気付いたということがある。しかも、労働者たちにはストライキという、学生たちよりはるかに強力なプレッシャーを与える武器がある、ということを認識させられたのである。クレオンとナントの労働者たちが示した例はたちまち飛び火し、労組をも追い越し拡大していった。完全に圧倒されることを恐れた労組は、その2日後に時流に乗らざるを得ずストライキを呼びかけ、このストライキは900万人労働者の参加を伴いその後数週間にわたり国の経済を麻痺させることとなった。既にこの時点において、これほどまでの規模の運動が純粋にある地方やある国内に限定される原因に基づいたものであると判断するのは極めて甘い近眼的な読みであっただろう。それは、国際的なレベルにおけるブルジョワジーと労働者階級との権力バランスにおける変化の結果、しかも労働者側にそのバランスが傾いたという重大な変化による結果であったことは間違いない[5]。翌年、この事実は1969年5月29日アルゼンチンにおける「コルドバゾ」[6]、1969年イタリアにおける「熱い秋」(這う5月とも呼ばれる)、さらにはバルト地域における大規模のストライキの数々、1970~71年の「ポーランドの冬」、及びその他のより目立たない多数の運動のすべてによって確認され、1968年5月が単なる線香花火のようなものではなく、40年間以上も続いた反革命からの、世界のプロレタリアの歴史的な復活であったことを表明したのである。

8.フランスにおける現在の運動を、ある特殊な状況(ヴィルパンの「間違い」といった)、又は単なる国内の要因に基づくものとして説明することはできない。実際のところ、これは2003年よりCCIが言い続けてきたもの、つまり国際的な労働者階級闘争の復活と階級における意識の発展という傾向の、見事な確証なのである:「フランスとオーストリアにおける2003年春の大規模の動員は、1989年来の階級闘争における転換期を意味する。これらは1968年以降の最も長い逆流期間後の、労働者の戦闘性回復の第一歩である」(インターナショナル・レヴュー 117号、「階級闘争報告」より)。「そのあらゆる困難にも関らず、この後退時は「階級闘争の終焉」を迎えたことを意味していたわけでは全くなかった。1990年代には、プロレタリアがその闘争性の無欠の蓄えを未だ保持していたことを示す数々の運動が散在した(1992年および1997年がその例として挙げられる)。しかしながら、これらの運動のうち、意識のレベルにおける実際的な転換を意味しているものは皆無であった。故に、より最近の運動の重要さは、フランスにおける1968年の運動が一夜にして成し遂げたもののインパクトと劇的効果に欠けてはいても、それが階級権力のバランスにおける転換期を構成する点にある。20032005年の諸闘争がもつ特徴は以下の通りである。

  • 世界的資本主義の心臓部にある国々における労働者階級の重要な諸部門が含まれた(2003年フランスと同様)。
  • より明白な政治的問題に専心した:特にフランス及びその他の国における闘争によって取り上げられた年金問題は、資本主義社会が我々あらゆる人間にもたらす未来の問題を提起している。
  • 過去の革命波以来初めて、労働者闘争の焦点としてのドイツの再出現が見られた。
  • 80年代の闘争時のいかなる時より、階級連帯の問題がさらに広く明白な形で取り上げられてきた。特に最近のドイツの運動においてそれは最も顕著である。
  • 政治的な明瞭さを求める新しい世代の出現と共に発生した。この新世代は、公然と政治化された分子の新たな到来と同時に、初めて闘争に突入した労働者の新たな層の中に現れてきた。いくつかの重要なデモで証明されたとおり、この新世代と「68年世代」、つまり60年代と70年代にかけ共産主義運動を再建した政治的少数派、および68年から89年間における階級闘争の豊富な経験を持つより広い労働者層との間に団結の基盤が造り上げられているところである」(インターナショナル・レヴュー122号I、 "Resolution on the international situation":「国際情勢に関する決議」、CCI第16回会議より)。

第16回会議において我々が強調したこれらの特徴が、現在のフランスの学生運動においても十分に明示された。

世代間のつながりは学生総会において自発的に形成された:この総会は年配の労働者たち(年金受給者を含む)に発言権を与えただけではなく、彼らの積極的な発言を激励し、彼らより若年の世代は彼ら自身の闘争経験についての介入を暖かく傾聴した[7]

彼らの目下の状況に限らず未来についての懸念がまさしくこの運動の核心にあり、この事実はCPE法に直面しなくてはならなくなるまでまだ数年間ある若者たち(多くの高校生にとって、それは5年以上も先の現実である)をも引き込むことになった。この未来に関する懸念は、多数の若者がデモに参加した2003年の年金問題時に既に浮上していた。これはすでに労働者階級における世代間の連帯の兆しであった。

現在の運動において、労働不安つまりは失業に反対する動員は、暗黙の、そして増え続ける学生と若年労働者にとっては明白な問題を提起する。それは未来の資本主義が社会にとってどのような未来をもたらすことになるのかという問題であり、その懸念は「私たちは子供たちにどういう社会を残すことになるのか」と自問する多くの年配の労働者たちによって表現された。

世代間における連帯だけではなく、労働者階級のそれぞれの部門間の連帯という問題が運動の肝心な論点になってきている。

  • 先頭にあり最も組織化された学生達は、難局に直面した同志たちを手助けするべく努力し、学生たち自身の間での連帯を築いた(総会が組織された方法と同様に、比較的消極的な学生たちに手を延べ動員を募ったこと等)。
  • 政府の攻撃が労働者階級の全部門に向けられているという事実を主張することにより、賃金労働者にアピールを行なった。
  • 行動日とデモへの参加を通してのみであり、闘争の広範化にはつながらなかったとは言え、労働者間において連帯感情が存在した。
  • 多くの学生たちが、雇用不安に最も脅かされているのが自分達ではなく(学位や卒業証書を有さない若者たちにとっての影響はさらに甚大である)、彼らの闘争は、最も恵まれていない若者たち、特に去年秋の暴動に参加した「問題のある郊外団地」出身の若者たちにとって、一層関係するものであるという認識をもった。

若い世代が闘争の松明を手に取る

9.現在の運動の主な特徴の一つは、この運動が若い世代によって指導されているという点にある。これは単なる偶然などではない。数年前からCCIは、新世代における目立たずとも深い熟考過程が進行していることを指摘してきた。それは特に若者たちが共産主義的な政治に引き付けられているという、もっと顕著な傾向によって表され、実際彼らのうちには既に私たちの仲間入りをした者もいる。

これはプロレタリア新世代のさらに広範な部門において進行している意識発展の単なる氷山の一角にすぎず、いつか巨大な社会闘争へと導くことになる一過程である。「階級の立場に近づいている少数派である「求める分子」の新世代は、未来の階級闘争において、空前の重要性をもつ役割を果たし、その闘争は、196889年間の諸闘争よりもにはるかに深くその政治的影響に直面することになるであろう。ゆっくりとでも、重要で徹底的な意識の発展を既に表しているこれらの分子は、階級のいたるところにおける大規模な意識の拡大にとって、主要な貢献をもたらすであろう」 ( インターナショナル・レヴュー113号、「CCI第15回会議における国際情勢についての決議」参考)。

フランスにおける現在の学生運動は、数年前に動き始めたその地下の過程の出現を表している。これは、1989年に発動された「共産主義の終焉」や「階級闘争の消滅」といった観念上のキャンペーンが、今や私たちの後ろに過ぎ去ったことを意味している。

1968年の世界的プロレタリアの歴史的再出現の後、我々はこう確証してきた:「今時のプロレタリアの状況は30年代の状況と大きく違ったものである。一方、ブルジョワジーのイデオロギーのあらゆる他の支柱と同様、過去にプロレタリアの意識を圧迫していた神秘化は、その一部において徐々に消耗されてきた。ナショナリズム、民主主義の幻影、反ファシズムなどは全て、過去半世紀にわたり集中的に用いられてきたが、それらは今やその過去おける重要性と同様の影響を持たない。他方、労働者たちの新世代は前身たちの敗北によって苦しんだ経験を有していない。今日、危機に直面したプロレタリアが、前世代の労働者と同じ経験を有していないとすれば、彼らの時と同じ意気沮喪によって玉砕させられることは、もはやないのである。

19681969年の危機の最初の兆しに対する反発以来、労働者階級がもたらしてきた偉大なる抵抗は、ブルジョワ階級がこの危機に対応しうるものとして唯一思いつく措置を今日押し付けることは不可能になったことを意味している。その措置とはつまり、新たな帝国主義的ホロコーストである。それが起こる前にはまず、ブルジョワジーは労働者階級を敗北させなければならない。しかし現在の見通しは帝国主義的な戦争ではなく、一般化した階級闘争である」(1976年1月CCI第1会議で採用されたCCIマニフェストより)。

13年後、私たちCCIの第8回会議では、その国際情勢報告書に以下の分析が補完された。「30年代から60年代における反革命により傷跡をつけられてきた世代は、世界プロレタリアがその傷と衝撃とを乗り越える力を見つける為に、これらを経験せず無傷な別の世代へと道を譲らなければならなかった。同様に、(但しこの比較は、68年世代とそれ以前の世代との間には歴史上の小休止があったのに対して、それに続いた者たちとの間には継続性があることを強調することにより、控えめに行なわなければならない)革命を起こすことになる世代は、その歴史上最大の反革命の後、世界プロレタリアに新たな展望を開く本質的・歴史的任務を果たした世代と、同一にはなり得ないだろう」。

数ヵ月後の、いわゆる「社会主義」諸国家の崩壊及びそれが引き起こした労働者階級の大退却は、この予測をさらに具体化する必要をもたらした。あらゆる差異を考慮しても、現在の階級闘争の復活は、40年間の反革命の後の1968年の歴史的復活とに比較しうるものである。この敗北と、何よりもブルジョワジーによる神秘化の絶大なプレッシャーとに苦しんだ諸世代は、階級間対立におけるこの新たなエピソードの最前線にいることはできなかった。同様に、これら観念的な反共運動・キャンペーンが最高潮に達していた折まだ小学校にいて、その直接的な影響を受けなかった今日の世代は、今、闘争のたいまつを引き継ぐ第1人者になる。

1968年時よりはるかに深い、労働者階級の一部であるという意識

10.今日のフランスにおける学生動員と1968年5月の出来事とを比較することにより、現在の運動の最も重要な特徴を引き出すことができる。今日闘争中の学生の多数は「我々の闘争は68年のものとは違う」と断固として主張している。それは確かに真実ではあるが、その理由を理解することが重要である。

第一の相違点であり同時に最も基本的である点は、68年5月の運動が世界資本主義経済の公然な危機のまさに始まりに起こったという事実に対し、一方今日ではその危機は、1974年の急激な悪化以後ほぼ40年来になるという点である。1967年以降、数々の国々において失業の増加が見られ始め、特にそれはフランスやドイツにおいて学生間に発生し始めた動揺や労働者階級の闘争突入の根源であった。とはいえ、今日フランスにおける失業者数は68年5月の数の10倍増であり、この膨大な失業(公式な統計によると現役人口の10%に至る)は既に過去数10年来続いてきたものである。これにより多種多様な相違が発生している。

この危機の初めの兆候が1968年の学生たちの怒りのきっかけの一つであったとしても、当時の状況は今日とは全く比べ物にならない。当時は、卒業後における失業や就労不安という脅威が存在していなかった。当時の大学生たちの主な懸念は、大学卒の前世代と同じ社会的地位を得ることが不可能であるという事にあった。実際のところ1968年世代は、かつてもっと名声のあった管理職のプロレタリア化にやや容赦のない形で直面した初の世代であり、これは当時の社会学者にとっても大いに研究される的となった。同じ現象はその数年前、大学生の数の甚だしい増加に続き、公然とした危機が未だに現れていない時点から既に始まっていた。

この学生人口の増加は、経済の要求の結果であっただけではなく、第2次世界大戦の窮乏を耐え抜き、子供たちが自分たちよりもより良い社会的・経済的な状況にたどり着けることを望んだ両親たちの希望と要求の結果でもあった。この学生人口の「マス化」は、特に権威主義の色濃い雰囲気の中、選ばれた小人数にのみ門を開いていた時代から引き継がれた構造と慣例をもつ大学において固執された結果、数年間にわたり一つの不満感を高めることになった。学生世界において、特に1964年以降アメリカで表現された不和感のもうひとつの要素に、ヴェトナム戦争があった。この戦争は西洋民主主義の「文明化」的役割の神話そのものに傷をつけ、多くの学生・若者たちをチェ・ゲバラ信奉者やマオイスト(毛沢東主義)といった形態の第3世界主義思想へと導いた。

これらの思想は、ヘルベルト・マルクーゼのような自称・革命的思想家たちによりかきたてられたものであった。彼らは「労働者階級の統合」や、被抑圧少数派(アフリカ系黒人、女性等)や第3世界の農民たち、又はまさしく...学生たち自身による「新たなる革命的部隊」の登場を予告した。当時の学生たちの多くは、チェ・ゲバラやホー・チ・ミン、毛沢東といった人物を革命家と見なしてしたように、自分たちも「革命家」だと見なした。最後に、当時の状況の構成要素の一つに、あらゆる種類の批判の対象になった「旧世代」と「新世代」間にあった大きな溝が挙げられる。具体的には、旧世代は第2次世界大戦がもたらした窮乏やさらには飢饉といった状況から逃け出す為に必死に働いてきたことから、その為に、物質的充足にしか関心が無かったという非難を受けた。よって、「消費者社会」の幻想と「絶対に働くまい」といったスローガンは成功を収めた。反革命の最強の力に苦しんだ世代の所産である1960年の若者たちは、自分たちより前の世代が体制順応的であることや資本主義の規範に服従していることを非難した。一方多くの両親たちにとって、子供たちにより良い人生を与える為に自分たちが負った犠牲が、自らの子供たちにそれほどまでに軽蔑されるということを理解したり受け入れたりすることは不可能であった。

今日の世界は1968年と大きく異なり、今日と1960年代の学生・若者たちとの間には共通点が少ない:

  • 今日の学生たちの多くを影響しているのは、単なる将来の地位の劣化に対する懸念だけではない。プロレタリアとして、彼らは学費の支払いのために既に働くことを余儀なくされており、又教育課程終了後に彼らの前に栄えある社会的特権が待ち受けているといった幻想もほとんどもってはいない。彼らは特に卒業証書が最も悲劇的な形を有するプロレタリアの状況に加わる「権利」を与えてくれるに過ぎないことを知っている。すなわち、失業か就労不安、返答されることのない数100枚の履歴書の送付、低賃金の見習い期間や短期契約で扱き使われた後に、僅かながらもより安定した仕事を求めての派遣会社での長蛇の列、そして最後には彼らの専門や希望にほぼ関連のない仕事への就労、といった状況である。
  • この点において、今日学生たちが労働者に対して感じる連帯感は、お互いが被搾取者の世界という同じ世界に属し、搾取者という同じ敵に対して闘争しているということに気がついたことに基づいたものである。この認識は1968年の学生運動が労働者階級に対して表した本質的にプチ・ブルジョワ的(小市民階級的)な態度とは大幅に異なるものである。当時は、マルクス主義の古典や或いは全くマルキストとは異なるスターリン主義者や隠れスターリン主義者の作家たちの作品の誤読により培われたヒーロー、すなわち神話的な肉体労働者にある種魅せられていたことは事実としても、依然労働者たちに対しての態度は往々にして謙遜により特徴づけられていた。1968年以降、知識人たちの間で流行した「労働者と共に」あるために工場へ働きに行くとような現象は、今日返り咲くことにはならない。
  • 「消費社会」のようなテーマが、例え少数の時代遅れのアナーキストもどき達に未だに振りかざされていようと、今日の学生たちの中に響くことが無いのはこのためである。「絶対に働くまい」というスローガンにしても同様で、それはもはや微塵もラディカルな計画などではなく、今や恐ろしく苦痛な脅しに似たものとなったのである。

12.故に、逆説的にも「ラディカルな」そして「革命的な」テーマが、今日の学生たちの討論および心配の中にはあまり存在していないのである。1968年の学生たちがしばしば革命問題や労働者評議会などについて議論するために大学を不変的なフォーラムの場に変えたことに対し、今日行われている討論の多くは、CPE法とその影響や就労不安、又は闘争の方法(封鎖、総会、連携、デモなど)といったはるかに「地に足のついた」現実的問題をその中心としている。しかし、CPE法の撤退要求をめぐる学生たちの分極化は、1968年の野望より一見ずっと「ラディカル」さにかけて引けを取っていることを示していながらも、それは現行の運動が38年前の運動よりも深みに欠けているという意味にならない。事実はその逆である。1968年の学生たち(実際のところは運動の「前線」を形成した少数派)の「革命的な」没頭は確かに誠実なものではあったが、それは第3世界主義(ゲバラ主義、毛沢東主義など)又は反ファシズムに強く特徴付けられたもの、もしくはせいぜい無政府主義(ダニエル・コーン・バンディにならった)、或いは状況主義に影響されたものであった。学生たちの革命観はかなりプチ・ブルジョワ的なロマン主義、又はスターリン主義の単なる過激な付録にしかすぎなかったのである。

しかし「革命的な」思想を生み出している諸潮流には、それがブルジョワ的或いはプチ・ブルジョワ的であろうとも、労働者階級が革命へ向かうことを可能にする具体的な過程をいくらかでも把握したものは一つも存在しなかった。まして、反革命期の終末の最初の表現になった巨大な労働者ストライキの重要性さえも把握してはいなかった程である[8]。今日、現在の運動において「革命的な」没頭はまだ際立って存在しているわけではないにしろ、その確固たる階級的本質と、動員が行われている領域、即ち資本主義的搾取の要求や条件(失業、労働不安、上司や経営側の専断的行為など)に対し屈服するばかりの未来を拒否することは、現在の闘士たちのうちの多数が確かに資本主義打倒の必要性を認識することになる原動力の一部である。

この意識の発展は、1968年に流行したような様々な妄想に基づいたものではない。当時の妄想は、運動の指導者たちの多くをブルジョワジーの正式な政治機関の中で再利用することを可能にしたり(ベルナール・クシュネルやジョシュカ・フィッシャーは大臣に、アンリ・ヴェべールは議員に、ダニエル・コーン・バンディはヨーロッパ議会で緑の党代表、セルジュ・ジュリは新聞編集長に等々)、又他の者たちを悲劇的な政治テロの袋小路へと導いたりしてしまった(イタリアの「赤い旅団」、ドイツの「赤軍派」やフランスの「直接行動」)。この当時の妄想とは全く異なり、今日の意識の発展は、プロレタリア革命を必要とし可能とする基本的条件の理解に基づいている。つまり、克服不可能な世界的資本主義の経済危機、この制度の歴史的な行き詰まり、そしてプロレタリアの防衛的闘争を最終的な資本主義打倒に向けた数々の準備の一つとしてみなすことの必要性等の理解である。1968年の「革命的」没頭の急速な発展は、大部分において彼らの浅薄さと理論・政治的な一貫性の欠如から来ており、彼らの基本的にプチ・ブルジョワ的な本質に対応していた。労働者の闘争がさらに急進化する過程は、例えそれが一時的に驚異的な加速を伴うことがあっても、はるかに長期的な現象であり、それはまさに比較的にならないほどずっと深遠なものだからである。マルクスが述べたように、「急進的であることは物事の根底に迫るということ」であり、このようなアプローチには必ず時間がかかることになり、過去の諸処の闘争経験から教訓を引き出すことに基づくであろう。

13.実際、運動の深遠さは運動やそれが生み出した討論の「急進的」本質によって計る事はできない。この深遠さは、CPE法の撤回要求により提起された根本的な問題から引き出された。即ちそれは危機期の資本主義が若い世代に提供している、この制度の歴史的な破綻を意味する不安定と失業との未来という問題である。さらに大部分において運動のもつ深遠さは闘争の方法や組織の形態によって示され、それは要点2と3において前述した通りである。つまり、活気に満ち、公開され、統制のとれた総会である。そしてこの総会は反省・考察および集団的統制に対する本物の関心をもち、さらには委員会、ストライキ評議会および総会に責任を負う代表団の任命を行い、労働階級のあらゆる部門に闘争を拡大する意志を通して示されるのである。「フランスに於ける内乱」でマルクスは、パリ・コミューンにおける真にプロレタリア的な本質は、コミューンが採用した経済的な措置(子供の夜勤廃止や家賃の一時支払停止)によってではなく、むしろそれを採用した組織の手段と方法とによって示されたと述べた。マルクスの分析は現在の状況にも大変よく応用できる。労働者階級が遂行する闘争の最も重要な面は、ある瞬間に設けられ、運動がさらに進んだ局面において捨てられることになるような偶発的な目的にではなく、闘争を真に引き受ける力量とこれを達成する為に採用する手法とにある。未来に向けて動く階級の力量の最高の保証となるのは、まさしくこれら闘争の手段と方法なのである。これは、1905年のロシア革命から教訓を引き出した「大衆ストライキ」においてローザ・ルクセンブルクが述べた要点のひとつである。現代の運動が当然のことながら1905年の政治的段階とは全く異なるレヴェルにあるという事実にもかかわらず、その採用した手段は、萌芽的な形ではありながらも、特に1980年8月のポーランドで表現されたような大衆ストライキの手段そのものであった。

14.この学生運動の深遠さは、数回に渡りブルジョワジーによって仕掛けられた、「暴力的破壊者」の操作・使用を含めた暴力の罠に陥ることから免れることを可能にしたその力量によっても表現された。「破壊者」はソルボンヌ大学の占拠事、3月16日のデモの終わり、3月18日のデモ終結時の警察の突撃の際、更には3月23日のデモにおけるデモ参加者に対しての暴力等によってその姿を顕にした。特にアナーキスト的観念に影響された学生たちのごく少数派が警察との対決に引っ張られたことがあっても、学生たちの大多数は運動が弾圧権力との繰り返しの対決へと引きずり込まれないようにする必要性を認識していたのだ。この点において今日の学生運動は1968年の学生運動に比べ、はるかに成熟したものであることがを示された。1968年の5月3日~10日間の、CRS(フランス共和国保安機動隊)やバリケードとの対決という暴力は、5月10~11日の夜の弾圧と政府の言い逃れとに続き、労働者階級の巨大なストライキ突入へと導く扉を開いた運動の要素の一部となった。しかしそれ以降、バリケードと暴力とは、とりわけ大多数の人々や特に労働者階級の人々から学生が得た多大な共感をくつがえし、政府や労組に再び状況を制御することを可能にさせる要素となってしまった。

左翼の諸党や労組にとっては、革命の必要性を語る者たちと車に放火したりCRSとの対決に行き続けたりする者たちとの間を「=」の印で結ぶことが容易くなっていった。実際、多くの場合においてそれらが同じ人たちであったという事実は更に事を容易にした。自らを「革命家」と見なした学生たちにとって、68年5月の運動は既に革命そのものであり、日々彼らが作り上げたバリケードは1848年やコミューンの子孫と見なされた。今日学生達は、運動の一般的な展望に問いを投げかけ、革命の必要性の問題を提起する時でも、運動の力は警察との衝突の中にあるのではないということをよく分かっている。事実、革命についての問題提起、つまり資本主義転覆の為の闘争におけるプロレタリアの階級暴力の問題についての考察からは未だほど遠い所にあるとしても、運動はこの問題に直面することを余儀なくされ、プロレタリアの本質と闘争との気迫でもって応えることができるようになった。プロレタリア運動はその初まりより搾取階級の極端な暴力と対決してきた。自らの利益を擁護しようとする時の抑圧、帝国主義的戦争、そして日々の搾取といった数々の暴力である。搾取階級と違い、共産主義を担う階級は暴力を担う階級ではない。そしてその階級は、暴力の使用を余儀なくさせられたとしても、暴力を自らのものとしてそれに従うことはない。特に、資本主義の転覆のために使われなければならない暴力は重大な決意によって用いられなければならず、そのためその暴力は必然的に意識的で組織化された暴力であり、それは搾取に対する様々な闘争を通し得られる意識や組織の発展の全ての過程によって先行されなければならない。よって現在の学生動員は、特にその自己組織の能力と、暴力の問題を含んだ直面する諸処の問題についての討論・考察の能力とにおいて、1968年5月のバリケードよりも革命、すなわちブルジョワ階級秩序の転覆へと向けたより明確な一歩を踏み出したことを示している。

15.2006年春の学生運動と2005年秋の郊外における暴動との差異を示す本質的な点の一つが、まさにこの暴力の問題である。これら2つの運動には共通の発端があったことは明らかである。それは労働者階級の子供たちに失業や不安定の未来を提供するのみである、資本主義的生産様式の克服不可能な危機である。しかしながら、基本的にはこの状況に対する完全な絶望の表現であった郊外における暴動を、階級闘争の形態の一つとして見なすことは全くもって不可能ある。特に、プロレタリア運動の不可欠な成分である連帯、組織、闘争を集団的且つ意識的に管理する試みは、これらの暴動において全く存在しなかった。これらの絶望した若者たちは、彼らが火をつけた車の所有者に対していかなる連帯ももってはいなかった。放火された車の所有者が失業や就労不安の犠牲者であろうとも、その行為にはいかなる連帯の感情も存在しなかったのである。暴徒達が示した意識性はかなり低く、彼らの暴力と破壊とは盲目的な方法でしばしばゲームの様に繰り広げられた。組織や集団的な行動に関しては、仲間内で最も暴力的なメンバーであるということから権威を得、誰が一番多く車に放火できるか競争した、組長に指揮された街のギャングの形態がとられていた。実際に、2005年10月と11月の若い暴徒たちのアプローチは警察のあらゆる種類の操作のいいカモにされただけではなく、資本主義社会の分解の効果がプロレタリア闘争や組織の発展にとってどれほどの妨害になり得るかを我々に示唆することとなった。

「問題のある郊外団地地帯」の若者たちの説得 

16.現在の運動中、若いストリート・ギャングのメンバーの集団はデモをダシに再三街の中心部に繰り出し、彼らの大好きなスポーツに勤しんだ。そのスポーツとはつまり、警官とと闘ったり商店の窓を割ったりすることで、それは海外の各メディアが大喜びで飛びつき、2005年末に暴動のショック・ホラー映像を新聞の第1面及びテレビにて報道したおかげで既に周知の通りである。これらの暴力の映像が、ある期間においてフランスの国外のプロレタリアに報道された唯一の映像であったことは明らかである。これらの映像はフランスで実際に何が起こっているかを明らかに示さないよう報道管制を強化し、世界の労働者階級からその意識の発展を助長する資料を取り上げるための大変優れた方法であった。しかし、このギャングによる暴力は他国のプロレタリアのみに対して使われたものではなかった。フランス国内においても、学生運動を昨秋の暴力の一種の「リメーク」として発表するのに使われたのである。これは流石に大した成功を収めることはなく誰も鵜呑みにはしなかった為、次にサルコジ内相は素早く言葉遣いを変えて、学生たちと「ゴロツキども」との間には明らかな差異があると声明した。そしてその後、できるだけ労働者や大学生、高校生たちがデモに参加しないように暴力を最大権に煽り立て、それは3月18日のデモの際にはとりわけ顕著であった。にも関らず、これらデモの参加者数の異例なレベルは、この操作が効果をあげなかったことを示した。3月23日、最終的に警察に認められた「破壊者」たちは、デモ参加者自身に対し理由無しに殴りかかったり盗難を働くという襲撃をしかけたのである。

学生たちの多くはこれらの攻撃によって士気をくじかれた。「CRSに殴られる時は反撃したくなる一方、私たちが闘っているのは彼らのためでもある郊外出身の子供たちに殴られるとなると、本当に意気消沈してしまう」。それでも学生たちは再び自らの成熟性と意識の高さとを示した。3月23日のデモの際「破壊者」の若者たちに殴りかかり警察列まで押しやったりした労組役員たちとは違って、学生たちは「破壊者」に対する暴力的な行動を組織せずに、恵まれない環境の若者たちと話し合う任務を負った代表者を数々の場所で任命した。これは、大学生や高校生たちの闘争が大規模の失業と社会的排除との絶望に陥った全ての若者たちのための闘争でもあるということを説明するためであった。学生たちの多数は、ある直感的な方法により、労働者運動の歴史を知らずとも、「労働者階級の中に暴力なし」という経験から生まれた肝心な教訓を実行に移した。階級の全体的な利害に反する行動に引きずり込まれそうなプロレタリアの部分に直面した時、これらの部分がブルジョア国家の単なる従者(例えばストライキ破りの特攻隊)ではない限り、説得と意識へのアピールとが彼らに対する行動の基本的な手段となるのである。

17.現運動の高い成熟度の理由の一つとして、特に暴力の問題における若い女性たちの運動への多大な参加がある。一般的に、この年齢における若い女性たちは同年代の男性の同士たちよりも成熟しているというのは周知のことである。さらに、暴力の問題に関して、概して女性たちは男性たちよりその領域に引きずり込まれないことが明白である。1968年には女子学生たちも運動に参加したが、いったんバリケードがその主な象徴になると、彼女達に与えられた役割は、バリケード上に立ちマスクをかぶった「英雄たち」を応援し、負傷者たちにとっての看護婦と化し、CRSとの数々の衝突の間に若い男性たちが回復できるようサンドウィッチを運ぶといったものであった。今日の状況は当時と全く異なっている。大学の門前のピケット列には女子学生が多く、彼女たちの態度は運動がピケットを影響した意味を体現していた。つまり、ピケットは授業に行きたい学生たちに対する威嚇の手段ではなく、説明、討論および説得の手段であったのである。総会や様々な委員会において、一般的に女性たちは男性たちほど「声高」ではなく、又彼らほど政治的組織に従事していないとはいえ、総会や委員会の組織、規律および効果において、又集団的思考の能力においても、要の成分であった。プロレタリア闘争の歴史はこれまでに、運動の深遠さは女性労働者の参加の度合いによってある程度まで計ることができるということを示してきた。「通常」時においても、労働者階級の女性たちは男性たちよりもさらに重い抑圧にさらされがちなため、概して男性よりも社会運動に参加する数が少ない。プロレタリアの層の内最も抑圧された層が闘争や階級において起こっている一般的な考察へと身を投じることになるのは、これらの運動が大いなる深遠さに達成した時のみである。現運動における若い女性たちの高い参加率と、運動の中で彼女たちが果たしている肝心な役割とは、この運動の確かなプロレタリア的本質だけでなく、その深遠さの更なる明示である。

18.このように、フランスにおける現在の学生運動は、ここ3年間来の世界のプロレタリアの新たな活力と、拡大しつつある階級意識との重要な表現である。ブルジョワジーは明らかにこの運動の将来的な影響を制限するようあらゆる手段を尽くすであろう。もしそれが可能であれば、彼らは2003年の敗北よりフランス労働者階級を影響してきた無力感を維持するために、運動の要求を拒み続けていくであろう。いずれにしても、運動の活力を弱らせたり参加者の士気をくじいたりすることや、労組や左翼党によって運動を統合することによって、彼らは労働者階級が意味深い教訓を引き出すことを避けるようにあらゆる手立てを尽くすであろう。しかし、ブルジョワジーがどのような操作をしようとも、何万人もの未来労働者たちにより繰り広げられた数週間に及ぶ闘争から得られたすべての経験、その政治的覚醒、発展する意識とを抑圧することは不可能である。これはプロレタリアの未来の闘争における貴重な宝の山になり、共産主義革命への道へと辿り着く肝心な要素である。現在の経験から最大の得を得て、それを未来の闘争の為に使えるようにこの運動に完全に参加することは革命家の務めなのである。

ICC, 3rd April 2006

2006年4月3日 CCIより



[1]闘争が可能な限りの力と統一とをもつ為に、学生たちはそれぞれ異なる総会の代表者たちの「全国調整」を構成する必要を感じるようになった。この動き自体はまさに正しいものであった。ただし、それは代表者の多くが学生界に存在する諸処のブルジョワ的政治組織のメンバー(LCR:トロツキー革命的共産主義者同盟など)であったという限りにおいて、毎週の調整会議は、しばしばこれらの組織を動かす政治家たちの操作の為の劇場と化してしまった。彼らは、現時点までは未だ成功に至ったことがないものの、自らの政治的道具になる「調整機関」を形成しようとした。今までにも我々の出版物でよく述べてきた通り(特に1987年イタリアのストライキ波や1988年フランスの病院ストライキ等)、あらゆる拡大した闘争にとって必要な中央集権化は、その根底すなわち総会において高度の注意・警戒に基づいた場合にのみ、運動の発展にとって実際的な貢献をもたらすことができる。なお、LCRなどの組織がメディアを前にこの学生運動を自らの「宣伝の代弁者」として提供しようとしたことについても述べておくべきであろう。現運動においてメディアのりの良い「リーダー」が存在していないという事実は、弱点を示す指標ではなく、その逆に運動の真の深遠さを表現している。

[2] テレビでは彼が「頑固なナルシスト」であるという発言をした政治心理学の専門家もいた。

[3]実はサルコジが市長であったヌイイ・シュル・セーヌ市近辺は典型的なブルジョワの町である。よって、サルコジが「人民に話す」能力を身に着けたのはこれらの投票人民と話すことによって習得したわけではないことは確かである。

[4] これは、シャルル・ド・ゴールが権力を再び握る結果になった1958年5月13日のクーデターの10年目の記念日であったため、象徴的な日付であった。デモ参加者の主なスローガンの一つは「10年、じゅうぶん」であった。

[5] 1968年1月、ヴェネズエラにおける我々の刊行誌「Internacionalismo」(その当時に存在したCCIの唯一の刊行誌)の出版は、国際的レヴェルにおける階級衝突の新時代の幕開けを声明した。「私たちは予言者ではなく、未来の出来事がいつ、どのように発展していくのかを知っているようなふりはできない。しかし、資本主義が陥っている窮境に関して言えば、それが改良や通貨切り下げ、その他のいかなる資本主義の経済措置によっても阻止することはできないものであり、危機にしか至らないということを確信している。同じく、一般的なレヴェルで私たちが実際に経験している階級の闘争性の発展の逆の過程が、労働者階級を、資本主義国家を打倒するための残酷で直接的な闘争に至らせるだろうことを確信している。

[6] この日、軍事革命政権の熾烈な経済攻撃と鎮圧とに対して立ち上がった数々の労働者街における一連の動員に続き、コルドバの労働者たちが警察と軍隊(戦車を伴った)とを完全に圧倒し、コルドバの町を支配した(ブエノスアイレスに次ぎ国内で二番目)。翌日軍隊がまとまって到着した後になって初めて、政府は「秩序を回復」することができた。

[7]年上の世代を「年寄りの馬鹿ども」と見なした(同様に彼らは学生達を「若い馬ども」と見ていた)1968年の多くの学生たちの態度から長い道のりを経て、今日我々は程遠いところに居る。

[8] 1968年の真の意義についてのこの盲目が、スターリン主義やトロツキー主義から生まれた諸潮流にのみ影響を与えたのではないということは指摘しておくに値する。これらの諸潮流にとって「反革命」とは存在せず、彼らは第2次世界大戦以降に台頭した「社会主義」諸国家や「歪んだ労働者」国家、或いは同時代に始まり以後数10年間続いた「人民解放闘争」の出現をもって「革命」の継続性の存在を主張している。実際のところ、左翼共産主義者の分子の内の多数、特にイタリア左翼の分子は、1968年に起きたことについてあまり理解しなかった。今日に至ってでさえ、ボルディガ派やバタグリア・コミュニスタは、我々が未だに反革命を克服してはいないと考えている次第なのである。