逼迫する<経済>へどう応答するのか-立ち向かう労働者たち


スペインの労働者階級はとりわけ過酷な政策に直面している。勢いを増す経済危機は、社会的状況を緊迫させている。昨年の闘いは、しばしばそれに呼応して他の人たちに刺激を与えた。とりわけアラブの春に続く、憤るものたちによる15M運動は、ギリシャとアメリカなどでの闘いに影響された。15Mの記念日と一連の出来事は、アストゥリアを初め、EUの鉱山業への補助金取りやめに反対する8000人の鉱山労働者のストライキで始まった。この産業の根幹を揺るがすことになる補助金取りやめは、既に24%もの失業率、25歳以下の半数が職に就けない国で、40000人の職を脅かすことになる。この記事はM15と鉱山労働者のストライキから何を学ぶことができるのかというディスカッションに貢献することを目的としている。

 

リストラ計画に立ち向かう闘いの難しさ

 

 アストゥリアの鉱山労働者たちは労働者階級の1934年の蜂起に代表される誇らしい伝統を受け継いでいる。

 5月31日のストライキとともに始まった、彼(女)らの決心は当然だった。タイヤや材木で路上にいくつものバリケードを築き、高速道路N360号線上のバリケードを撤去しようとやってきた警察を撃退するために、あり合わせのもので作った武器を手に取り、マドリッドでは暴力、逮捕、そしてゴム弾に立ち向かった彼(女)らの勇気は否定のしようがない。これらの洞察はlibcomとICT(国際共産主義潮流)の記事から得ることができる。(https://libcom.org/article/coal-mines-ignite-asturias-updates?page=1https%3A//libcom.org/news/coal-mines-ignite-asturias-10062012%3Fpage%3D1)

(https://www.leftcom.org/en/articles/2012-06-19/the-struggle-of-the-asturian-miners).

 

 このことは、深い尊敬に値する、すべての労働者階級のさまざまな希望を一手に引き受ける戦闘的な部門が痛烈で勇猛なストライキと前代未聞の弾圧を受け、警察との数多くの衝突を展開した1984-85年のイギリスでの鉱山労働者のストライキを強く思い起こさせる。スペインの鉱山労働者と同じように、彼(女)らは高い失業率を記録する中、多くの鉱山の閉鎖計画に直面していた。闘いはイギリスの労働者階級にその後20年に渡り重荷を残す敗北に終わった。

 libcomでのディスカッションでフィンガーズ・マローンは、「ストライキだけではどうにもならないと」、と鉱山をその攻撃性ゆえに実質閉鎖に追い込んでいるスペインの鉱山労働者たちの抱える困難を指摘した。彼は道路にバリケードを築くのみならず地中深くの坑道を占拠するという絶望的な方法を採るという状況は、不健全なだけでなく、好ましくないものと見做した。彼(は効果的な闘いを続けることができるだろうか?私たちの見解では問題はスト自体が不十分なことのみならず、彼(女)の孤独な闘いが、労働者階級の他の部門から孤立していることによって、政府の力に対して弱い立場を強いられ、敗北に終わりがちなことにある。組合(CCOOCGT)と左派政党(PCEPSOE)によって組織された6月18日のゼネストは彼(の孤立を破ることができず、補助金が削減された地域と産業に限定されたことは確かだ。そして彼(女)らのNUMの「失業保険ではなく石炭を」を思い起こさせる「石炭のための計画」は明らかにストの孤立化を加速させた。

 この意味で、「我々は激怒ではなくめっちゃ怒っている」というスローガンは、鉱山労働者の警察を撃退するだけの力への幻想とともに闘いの限界を要約している。ある意味、鉱山労働者たちは自身を、スペインにとどまらず、世界にとって昨年の重要な闘いの一つである激怒する人たちよりも、ずっとラディカルな態度を見せたと見ている。しかし、あらゆる意味での階級の独自性にとって、アストゥリアの鉱山労働者の孤立は、闘争全体を有意に後退させた重要な弱点だ。

 

15Mから一年。何が残ったのか。

 

、直後にさらに27億ユーロの支給カットが発表された炭鉱労働者の孤立や労働組合によって組織された3月29日のゼネスト(WR353(日本語未翻訳)を見よ)で示されたように、 ブルジョアジーたちが抱える経済運営の無能ぶりに関わらず、労働者階級に直面する彼(女)らの経験を過小評価すべきではない。

 15Mの「祝祭」は、私たちが省察し、議論し、内心でこの経験の教訓を消化しなければならないのに、彼(女)らが元のイベントの記憶を消去あるいは少なくとも完全に歪曲してしまうよう仕組むもうひとつの例だ。今年のイベントはもはや久しく存在しない集会によってではなく、左派と労働組合カルテルによって呼びかけられ、労働者階級に対置する、「市民」の民主的で漸進主義的な視点を強調した。これは右翼政党であるPP政府や、左派の美言による間違った代替案である。前者は攻撃的で驚異的な弾圧であり、激怒する人たちを、PSOEsubmarineだと非難した。

 一方、昨年の15Mではプチブルとして間違った象徴となってしまったPSOEは今や、素晴らしい未来と社会の重鎮として凱旋することになった。ブルジョアジーはいつも本物の運動を中傷するが、それが無害になるや否や過去を賞賛したがる。

 1周年デモは大規模だったものの、昨年6、7、10月の運動ほどではなかった。集会がマドリッド、バルセロナ、セビリア、バレンシア、アリカンテなど多数の地域で復活した。最初の土曜日こそ集会は関心と好奇心を持って始まったが、その後、回を重ねるごとに閑散になり、運動内部の左派組織による統制への抵抗もなかった。人々はむしろ去っていったのだ。にもかかわらず、労働者階級が生きている兆候があった。大規模な若者の参加、健全で嬉々とした雰囲気、そして議論へのよい貢献だ。マドリッドでは実り深い議論があった。ー昨年ほど自信に満ちたものではないにせよ、我々が運動のプロレタリア(左)翼と呼んだ人たちへの支援の声が上がった。しかし運動全体としては、ブルジョワジーの課す束縛を破ることはできなかったし、ちょっとした週末の息抜きで、それが過ぎれば日常に戻っていく15Mのパロディにすぎなかった。

 

労働者階級のためのパースペクティヴ

 

 2011年の社会運動は、世界中での路上の使用、運動の中心で生きた議論が交わされた集会(World Revoltion Nr.353の‘From indignation to hope(日本語未翻訳)’を見よ)を伴う、労働者階級にとって強烈な経験だった。スペインではマドリッドとバルセロナの教育部門、バルセロナの医療部門とバレンシアの若者たちの大規模な動員があった。3月29日と鉱山労働者によるストライキもまた詳察のための重要な経験だ。(World Revoltion Nr.355 ‘General strike in Spain: radical minorities call for independent workers’ action(日本語未翻訳)’を見よ)

 スペインの私たちの同志たちはこれらの経験を経た後、運動の弱点や十分な闘いを発展させる難しさをチェックする必要を感じていることに気がついた。この疑問を提示する過程は、より広範な運動とより深淵な資本主義への懐疑に追いやる基盤を準備する、労働者階級内の理解を進めるための生きた貢献として絶対に必要である。

 資本主義の危機から5年経った今も、支配階級は答えを出せず、未来がなく、破綻した、別の何かに置き換えなければならないシステムであるという認識が広がっている。バレンシアでのとある集会がその一例だ。ある女性は、15M運動には革命的な派と漸進主義的な派があるが、私たちは前者を指示すべきだという、ICC(国際共産主義潮流)の持論を支持する発言をした。一方で早急な答えとアクションの模索する、私たち全員が、国有化されたバンキアから預金をすべて引き出せば「資本主義に一撃」を食らわすことができるに違いない、という不毛で馬鹿げた提案もある。

 資本主義に変わるものが必要とされてきている一方で、それをどのように実現するのか、その方法を見つけること、そしてシステムの破綻はおそらく不可避であるという希望を見ることの困難さがある。まさに左派と左派過激派は資本主義を改革するため、富裕層への課税、腐敗の排除、国有化のような、あらゆる「解決」法を提案している。実際のところ中道と右派すらもこうした腐敗や脱税排除の「ラディカル」なキャンペーンに参加しうる。

 漸進主義者たちによる代替案の罠を避けることが重要だ。また政治家すべてへの嫌悪、とりわけ左派の嘘によって、私たちが外部すべてを疑うような、狭く孤立したグループに閉じこもってしまわないことも同じく重要だ。この罠を避けることによってのみ、私たちは資本主義の危機、打倒の必要、そして労働者階級がどのようにこの闘いを前進させることができるのかを省察するプロセスを推し進めることができる。それらすべては将来の闘いへの準備に必須のものだ。

 

Alex 30/6/12