民主化された資本主義は可能か?

 聖パウロ教会でのオキュパイのテント大学の「民主的な資本主義」というスローガンを巡って激しい議論が沸き起っている。

 これはパウロ教会UBS銀行などでのオキュパイが、現行の社会システムに不満を持ち、それに変わるものを求めているすべての人たちのための実りある議論の場を提供していることを表している。「民主的な資本主義」は現実的な選択肢ではないものの、確かにオキュパイに参加している多くの人々の見解と結合点を反映している。金持ちにもっと税金を課し、銀行屋の持っているボーナス帳消しにし、証券取引市場をしっかりコントロールし、経済に対する政府の権限を拡大すれば資本主義はより人間的になりうるというアイデアは繰り返し提唱されている。

 政界の頂点に立つ者たちでさえこの流れに乗ろうとしている。イギリスのキャメロン首相は資本主義にモラルを望み、クレッグ副首相は全世界がオックスフォードストリートのジョン・ルイスのように中流になれるだけの分け前を与えよと訴え、労働党党首のミリバンドは「ハイエナ」資本主義に反対し、政府による規制強化を求めている。

 これらはすべて、資本の手下である政治家たちによる、我々を資本主義の現実から目を逸させるための中身のない煙幕にすぎない。

 資本主義個人による富の所有に留まるものではない。それは単に、銀行屋や富裕なエリートたちの、ごく僅かな努力によって得られた巨額の報酬に表されるようなものではない

 資本主義は人類文明の歴史の内にある。それは少数による多数の搾取を基本とした諸社会の最終段階だ。生産のすべてが、市場における利益を生み出す必要に動機付けられた最初の社会のことだ。それはまず第一に、搾取される者たちすべてが搾取する者たちに、自らの「労働力」を売らなければならない階級社会なのだ。封建制の時代には農奴は強制的に自身の労働力と収穫物を領主に差し出さざるをえなかった。資本主義の下、我々の労働時間は、賃金を通じてもっと分かりにくい形で奪われている。

 ゆえに搾取者が私的企業の上司の体裁を取るにせよ、中国や北朝鮮のような「共産党」関係者の体裁を取るにせよ何の違いもない。賃金労働者である限り資本主義から逃れられないのだ。マルクスが記した通り、「資本は賃金労働を前提と」し、「賃金労働は資本を前提とす」る。(『賃労働と資本』)

 資本は本質的に賃金労働者階級(失業はこの階級の一形態なので失業者も含まれる)と搾取階級の間の社会関係なのだ。資本とは、労働者(搾取者によって生み出された勢力であるが、彼らと和解不能な敵として対立している)によって生産され、労働者から疎外された富そのものなのだ

資本主義という危機

 資本家はこの仕組みから利益をあげてはいるが、コントロールはできていない。資本は非人間的な力のことで、最終的には資本家の手から逃れ、彼/女らは逆に支配される。これが資本主義の歴史が経済危機の歴史でもある理由だ。そして資本主義が20世紀初め頃にグローバルなシステムになったことで、世界大戦と言う形を取るにせよ世界恐慌という形を取るにせよ、危機は恒久的なものとなった。

 指導階級の経済政策がいかなるもので彼らの政府がどのように試みようとも、ケインズ主義かスターリン主義か、あるいは政府の支持する「ネオリベラリズム」かに関わらず、この危機はより深まり、解決が難しくなる一方だ。経済の行き詰まりをどうにかしようと必死にもがく、支配階級の組織する様々な派閥や国家は、容赦ない競争にさらされ、軍事衝突や生態学的荒廃の螺旋に陥ってゆく。利益をあげ、戦略的優位を獲得するために、彼/女らはますます「モラル」を失い、ますます「獰猛」にならざるを得なくなっている。

資本家階級は沈みゆく資本主義を先導している。

 しかし人間を究極的に疎外するこのシステムは、新しい真に人間的な社会の可能性も築き上げた。科学と技術が生み出され、これらはあらゆる人の利益のために利用されるように変換することができるかもしれない。ゆえに生産が貨幣や市場の仲介なしに、直接消費に向かうようにすることも可能だ。システムは地球を一つにした。少なくとも統一のための前提を作り出した。ゆえに国民国家の全システムとそれが引き起こす絶え間ない戦争の廃絶は実現可能だ。つまりこのシステムは、全世界の人類共同のコミュニティという古くからの夢の必要性と可能性を生み出した。我々はその社会を共産主義と呼ぶ。

 被支配階級ー賃金労働者の階級は、目下のシステムに幻想を抱いたところで得になることはない。このシステムはこの社会の墓穴を堀りかねない半面、新しいシステムを作る可能性もある。その可能性を実現するためには、何と闘っているのか、何のために闘っているのかが明確でなければならない。改革や資本の「民主化」といったアイデアは明確さからは程遠く曖昧としている

資本主義と民主主義

 今日では多くの人々が民主主義に賛意を表し、「人間的な資本主義」のような、より民主主義的な社会の実現を望んでいるであるが故に、我々は全員が賛成できる、抽象的なアイデアとしての民主主義の真の価値を受け入れられないでいる。資本主義と同じように民主主義にも歴史がある。古代アテネの民主主義システムは奴隷制と女性の排除と切り離せなかった。資本主義の下での議会制民主主義は、経済的利益だけでなく、人々の思考・判断(そして投票も)に影響を与えるイデオロギーの道具を手中にした、少数による権力の独占と切り離せない

 資本主義民主制は、資本主義社会を反映しているそしてそれは我々を孤独した経済単位の駒として市場競争に駆り立てる。理屈上、我々は平等な条件の元で競争しているはずだが、現実には富は極少数の手に集中される。我々は孤立しており、個々独立した市民として投票する時も、現実のどのような権力からもかけ離れている。

 チュニジア、エジプト、スペイン、ギリシャ、アメリカの占拠と民衆集会運動において、両翼の間断続的な論争が続いている。既存の体制をより民主的にするより、ムバラクのような暴虐な体制を阻止しひっくり返し、議会制度を導入するか、路上の要求にもっと関心を向けるように既存の政治政党に圧力をかけたい人たち。そしてもう一方は、今のところ少数派だが、「自分たちで直接集会を組織できるのに議会なんて必要ない。議会選挙では何も変わらない。公的な場ではなく、そのへんの広場や、工場、仕事場で集会のような形で自分たち自身の生をコントロールできるじゃないか」といい始めた人たちだ。

 こうした議論は古くからある。人々は第一次世界大戦終結時、ロシア革命やドイツ革命の時代に繰り広げられていた議論を繰り返す。何百万もの人が戦場で犠牲になったことで、既に資本主義制度が人類にとって有益ではなくなったことが明かになり、何百万もの人が反資本主義へと動いた。革命は「ブルジョア民主主義」体制を制定すれば十分だと主張する人がいる一方で、議会は支配階級のためのものに過ぎない。我々は自分たちのための議会、工場評議会、ソヴィエト(選挙と取り消し可能な委任制代表および総会を基礎とした)を組織した。これらの組織が権力を握り、しかしそれは我々自身の手にある。これは上から下へとなっている社会を再構成する最初の一歩だ、と主張する人々がいた(当時はかなりの数がいた)。革命が孤立と市民戦争、内部の退廃によって壊滅する前のわずかの間、ソヴィエト(労働者階級の組織)がロシアで権力を握った。

 それは人間性に対する前例のない希望の時だった。敗北の事実に我々は挫ける必要はない。敗北と過去の失敗から学ぶ必要があるのだ。我々は資本主義を民主化することなどできない。資本主義は、我々が滅ぼさない限り、世界を崩壊へと導く驚異的で破壊的な力であり続ける。そして我々はこの怪物を資本主義そのものの制度利用して葬り去ることはできない。我々自身コントロールによって革命的変化を導くことができる、我々の真の希望となる新しい組織が必要だ。

アモス Amos 2012年125