ICConline - 2008

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一つの階級、一つの闘争

かつてないほど、そして同時に、世界の国々は労働者の闘争によって揺れている。これは国際的規模で高まる労働者階級の攻勢と戦闘性の証左 である。ブルジョワ的メディアによる報道管制に対して、われわれは2008年初頭より世界中で闘われてきたいくつかの例を紹介する。(場所、地域、資本・ 企業名などの固有名詞については英語発音のカタカナ表記・ローマ字読みを付した。)

ヨーロッパ

ベルギー 3月にGenk(ゲンク)市のフォード社で複数のストライキ。Mortsel(モルトセル)市にて臨時 契約の導入に反対するストライキ、Bruxelles(ブラッセルズ)市では交通ストライキが闘われる。BP石油化学会社で山猫ストライキ(一部の労働 者・組合員が労働組合の規範・方針とは別個に敢行するストライキ)、Ceva(セヴァ)物流会社でリストラに反対するストライキが起こる。

ギリシア 年の初めから、「年金には手を触れない」と公約し再選された保守政権が行なおうとしている年金の「改善」に反対する24のゼネスト。現在も保守派は年金の 30~40%削減、既存の定年制度を変え、男性の場合は65歳以上、女性は60歳以上へと支給開始年齢を引き上げることを提案している。ストライキは社会 保障の「改善」(基金の合併、安全基金の削減。低賃金労働者への援護廃止)へも向けられた。そしてそれは国の主要な経済活動、つまり運輸、銀行、郵便、 通信、鉄道などを麻痺させた。3月19日の最後のストライキでは、数百万人がデモに参加した。

アイルランド  4月上旬に15日間以上に及んだ看護士4万人のストライキが、10%の賃金上昇や1週間の労働時間を35時間以内に短縮することを要求に掲げた。 Belfast(ベルファスト)市で、空港内の新ターミナル開設に伴う新たな労働条件に反対したAer Lingus(エアーリンガス)社のパイロットたちが闘争に決起。Limerick(リメリッキ)市で、新しい賃金契約を要求するバス運転士25人が、労 組の指揮を聞かずに、山猫ストライキを実行。

イタリア    ナポリ地域では、Pomigliano(ポミグリアノ)市のFiat(フィアット)社工場の労働者が316の人員流出に対して、4月10日にストライキを決行(会社のこの方針が常態化することを労働者たちは恐れている)。

ロシア 労働者3000人によってボーキサイト鉱山が1週間以上占拠された。労働者たちは50%の増給や最近抑えられた公的給付金の復旧を求めていた。この運動は、国全体そして地元住民の多くの支持を得た。経営側は、公的給付金の一部と20%増給を承認した。

スイス  Bellinzone(ベリンゾーン)市のCFF運送会社で、430人の機械工が126人のリストラに対して1ヶ月間のストライキを行った。他の労働者たちも参加したBerne(ベルン)市でのデモののち、4月9日にリストラ計画は断念された。

トルコ  イラク・クルディスタンで起こっている戦争にも関わらず、マルマラ海のテゥズラ造船所で4万3千人の労働者が巨大なストライキを決起。警察に弾圧された2 月28日のデモの後、数千人の労働者たちが2日間ストライキを闘い、造船所にて座り込みを行った。座り込みは警察によって攻撃され、労働者たちには暴行が 加えられ、75人が逮捕された。「僕らの人生は犬どもより価値が低い」と怒りを込めて叫んだ労働者たちは、尊厳のために闘う意志を示していた。逮捕された ストライキ参加者が釈放されて、彼らの要求に対するわずかの要求(衛生や安全性の改善、賃金支払いに関する社会的な保障、出勤日を7時間半に限ることを管理側に約束させ、労働者は仕事に戻った。イスタンブール市で、警察とデモに参加している労働 者たちとの暴力的な衝突。

アフリカ

アルジェリア  4月13日、賃金値上げと新しい賃金制度を拒絶する公務員(150万人におよぶ賃金労働者) による、「違法」なストライキが3日間に及ぶ。マシラ地域におけるハンマム・ダラーにてセメント労働者207人が、労働条件について17項目の要求書を抱 えてストライキを実行。

カメルーン     2007年11月から2008年3月にかけて、ベルギーの会社やフランスのBolloré (ボヨーレ)貴族と関連しているSocapalm(ソカパルム)社が経営しているヤシ油の農園で、非人間的な労働条件に反対した数度のストライキ。

スワジランド   3月末に、よりましな賃金や賞与を獲得するために、アフリカの旧植民地のこの国で、繊維労働者1万6000人によるストライキの動きが起きる。

チュニジア     4月6日と7日に、ゼネストと2008年1月の怒りの爆発(しかしそれは残虐なかたちで制圧され、300人が死亡)の後、リストラに反対して闘っているガ フサ盆地の炭鉱地域の労働者に向けて、抑圧や逮捕の新しい波が発生。3月10日に、4000人を雇用するTeleperformance社でストライキが 行われる。 

北米、中米

カナダ            Vallée Jonction (ヴァイェー・ジョンクション)にてOlymel(オリミール)社の豚肉加工場に山猫ストライキが発生。労組が、雇用安定に関する保障と引換えに、賃金 30%削減や7年間の給料凍結を受け入れてより1年弱。遅刻出勤した労働者に対する懲戒処分が下ろされて、労働者320人による自然発生的ストライキが続 いていた。経営者側は労組と手を組んで、労働者たちが仕事に復帰し、生産現場での減産・怠業を終結するよう呼びかけてもらった。その直後に、労働者の 70%は、4月20日から非公認、無期限のストライキを行なうことを総会において決定した。

アメリカ合衆国         映画脚本家のストライキはよく知られているが、MTV社の労働者も5000人の戦闘的なストライキを起こした。2月26日にデトロイトやバファロー市に て、Axle and Manufacturing Holding(GM社やChryslerに部品を補給する会社)で、給料や既得権の削減に反対する労働者3650人がストライキ。5月1日に、アフガニ スタンやイラクの戦争に反対する港湾労働者が仕事の一時停止を実行した。

メキシコ          1月11日、(Sonoraという北の州の)Cananea(カナネア)市の国内最大の銅山で、賃上げや労働者の健康と安全管理面の改善を訴え、ストライ キ。このストライキは違法であると国は宣言、警察や特殊部隊による暴力的攻撃が行なわれる(けが人20~40人、逮捕者数人)。最終的に法廷はストライキ の合法性を認める。1月21日には27万人の炭鉱労働者が参加する新しいストライキが行われた。

ベネズエラ    Guyana州にて、鉄鋼労働者による巨大なストライキ(製鉄は同国第二位の産業)。「21世紀社会主義のチャンピオン」と名乗るチャヴェズ氏に支配されている国家により、労働者たちは厳しい抑圧に遭わされる。

アジア

中国   1月17日に、麻涌(マチョン)の港湾に、Maersk社でに雇用されている労働者たちが反乱を起こす。広東、深川(シェンジェン)や香港を含む地域 (10万社からなり、1000万人の労働者を雇用している)だけでも、今年に入ってから少なくとも毎日1件、1000人の労働者が関係するストライキが あった!

アラブ首長国連邦   ドバイ市の建設労働者の巨大な反乱の後に譲歩が引き出されてから、「典型的な」鎮圧が施され、「ストライキを煽り立てる」ということで45人の労働者が解 雇、または6ヶ月の実刑を言い渡された。だが、その闘争は影響を持ち続け、4月上旬、隣国のバーレーン首長国で同じく酷い労働条件を苦しんでいる1300 人の建設労働者が1週間のストライキを実行。闘いが地域へ拡大する兆しがますます強くなったこともあり、賃上げは早期に実現できた。6つの湾岸首長国で は、1300万人以上の外国からの出稼ぎ労働者が働いている。

イスラエル   3月、エル・アル航空会社の荷物係による山猫ストライキ。賃金値上げを要求し、超過労働や不安定な雇用契約に反対するためにテルアビブの証券取引所職員がストライキを起こし、金融市場に重大な不安定状態をもたらした。

 

日本における労働者運動

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日本における労働者運動:1882-1905間

日本における革命的運動の歴史に関する以下のノートは、労働者階級と前衛的革命家の発達過程の本質そのものを具体的な諸要素と共に明示するものであり、それは

世界資本主義転覆を目的とした全世界的な戦いとその利益との根本的な一致によって特徴付けられている。

世界的なレヴェルにおいて立証されているこの経過は、それぞれの国ごとに異なる方法やリズムによって表現されている。それは不均衡な形ではありながら、各国が相互に影響を与え合いつつ表明されている。様々な歴史的理由から、西ヨーロッパは世界的共産主義革命の重心を成している[1]。日本における革命的運動の歴史は、それが西欧世界にて生じた進歩の最後尾に繋がり生じたことを数度にわたり明確に示している。

しかし、この事実はいわゆる「ヨーロッパ中心主義」による道徳的判断や、プロレタリアが最も進んだ国に高得点を与えんとする意思を表現しているわけではない。その逆に、日本における革命的運動の様々な要素は、西ヨーロッパにおける革命的運動と世界のその他の国々との間に存在する密接な繋がりを浮き彫りにしている。これ程の分析枠は、将来の世界的革命の力学を理解することを可能にする唯一の枠組みであり、その中において日本の労働者階級のような世界のプロレタリアの分派が極めて重要でかけがえのない役割を果たさなければならない枠組みなのである。

日本における労働者運動の歴史を研究する時、我々は同国と世界のその他の産業諸国においてプロレタリアが直面する諸処の問題とそれに対して与えられた答えとが根本的に酷似しているという事実によって驚かされざるをえない。この類似は、日本がその他の大産業国から比較的孤立した位置にあり、また並外れた速さの産業成長を遂げたという点を考慮に入れると、ますます重要な意味をもっている。この産業成長はわずか1860年代以降に始まったものであり、日本の世界経済と対外環境への開国はアメリカのペリー提督率いる「黒船」軍およびそれに直ちに続いたヨーロッパ勢力等により成されたものなのである。それまでの日本は、密閉された封建主義の中に凍結され、世界のその他の国々からは完全に切り離された状態にあった。たった30年、すなわちたった一世代足らずの間に、日本は世界的帝国主義の闘技場に足を踏み入れる大産業諸国の最後尾に並ぶこととなった。この台頭は、とりわけ1905年の旅順港におけるロシア艦隊の破壊により、想像を絶した華々しさをもって成し遂げられた。

このことは、ヨーロッパの労働者たちが一世紀やそれ以上をかけて培った経験や概念が、日本においてはその僅か四分の一世紀において達成されたことを意味している。マルクスの諸出版物の初の和訳が1904年まで発行されていなかったにも関わらず、日本のプロレタリアはマルキシズムが既にヨーロッパの労働者運動に多大な影響を与えていた時期(特に第一インターナショナルを通して)に誕生した。これから見ていく通り、労働者運動の始まりに特有のものであった概念は、その最も近代的な表現と共に存在していたと考えられる。

革命家の最初の集結

19世紀末の数10年間に至るまで、日本における労働者運動は、社会の調和と個人の参加が共同体の利益の中にのみ存在するという孔子の伝統に色濃く影響を受けたものであった。1882年5月、東洋社会党が設立されユートピア的な社会主義とアナーキズムを主張するが、その後まもなく解散することとなる。

1880年代は社会主義の古典に自らを適応させ、ヨーロッパにおける労働者運動の議論や闘争に慣れ親しむことを目的とした数々のサークルの出現によって特徴付けられている。特に「国民の友」や「社会問題研究会」等がその例である。これらのサークルの活動は常任の組織に基づいたものではなく、また1889年に設立された第二インターナショナルとは未だいかなる連携をも持ってはいなかった。

1890年、アメリカにおいて日本出身の移民労働者が初めて「職工義勇会」にて結集する。このグループはどちらかと言えばアメリカと西ヨーロッパの様々な国における労働者の問題を研究することを目的とした勉強会であった。アメリカの労働組合はこのグループに対し多大な影響をもっていた。

1897年、5千7百人の会員と共に「労働組合期成会」が結成する。この会は日本における労働者運動の歴史上初めて自らの機関紙を創刊した。片山潜により編集されたこの会報『労働世界』は毎月二回発行され、労働組合と協同組合との設立が運動の目的であった。2年後、同組合組織は既に42部門、5万4千人の会員を含んだものとなる。これらの組合の規約および立場はヨーロッパのモデルに基づいたものであった。鉄道機関士の組合は一般投票権導入の為のキャンペーンを展開し、1901年3月、「労働者の状況への唯一の決定的な答えは社会主義である」と宣言する。

1898年10月18日、東京ユニテリアン教会にて知識人による小規模のグループが合流し、社会主義研究会を結成する。彼らの会合は毎月一回催され、この会の6人の発起人の内5人は常に自らをキリスト教的社会主義者とみなした。

渡英、渡米の後、片山は1900年、40数名の会員を含んだ社会主義協会の設立に貢献する。彼は初めて第二インターナショナルのパリ大会に代表員を送ることを決意するが、財政難によりこの計画は遂行されなかった。

労働者運動の第一段階である「機械の破壊」(ある点においては18世紀と19世紀の変わり目においてイギリスで起こった労働者による「ラッダイト運動」に対応するものである)を通過するのは1880年代末まで待つことになるにしても、このようにして1897年と1899年間のストライキ波への道が拓かれたのであった。とりわけ、鉄工、機械工および鉄道員たちはその戦闘意欲を発揮する。日清戦争(1894年-1895年)は新たな工業的飛躍をもたらし、それに従い1890年代中頃の日本には42万人の労働者が存在した。そのうち僅か2万人ほど、即ち近代工業の5パーセントの労働者のみが労組員であり、大抵の組合の規模は縮小され500人を超えないものであった。しかしながら日本のブルジョワジーはこのますます戦闘的な労働者に対し当初から非常な暴力をもって反応した。1900年、ブルジョワジーは「治安警察法」という法律を制定する。これは1878年にドイツにおいてSPD(ドイツ社会民主党)を禁じたビスマルクの反社会主義者の法をモデルとしたものであった。

1901年5月20日、社会民主党が結成される。この党は以下の要求事項を主張した:

  • 「貧富の差を根絶し、社会主義と真の民主主義によって世界に平和主義の勝利を約束する」
  • 「あらゆる人種および政治的差異を超えた国際的友愛」
  • 「世界平和、及びあらゆる軍備の廃止」
  • 「富財の正当で均等な分配」
  • 「あらゆる国民の政治権力への平等な参加」

これらの要求はこの時期において日本の労働者運動が繰り広げられた状況にまさに特有のものであり、それらには同時に以下の特徴が組み合わされている:

  • 階級闘争の初期段階において典型的であり、ヨーロッパやアメリカのユートピア主義者の潮流に属する、少々ナイーブな「無階級主義」的な洞察
  • 人種に基づく不平等の撤廃が主張されており、アメリカにおける日本人移民労働者の経験の確固たる影響が伺われる
  • 第二インターナショナルの修正主義派のものと似通った民主主義・平和主義的な文章表現法

社会民主党は法を尊重する意思を言明し、アナーキズムや暴力を明白に拒絶し、また議会選挙への参加を支持した。あらゆる階級を超えた国民の利益を擁護し、経済的不平等の清算を行い、全ての労働者が一般投票権を得るよう戦うことにより、同党は世界平和構築へ貢献することを期待した。

しかし、議会の活動を自らの優先的な活動とみなしていたにも関わらず、社会民主党は即時に非合法化されることとなる。一政党を構築する試みはここで失敗に終わる。新たな組織は再び討論サークルといった組織以上のものになることはできず、その上抑圧によって非常に大きな敗北がもたらされることになる。会報の発行はいかなる組織の後ろ盾もなく続行された。こうして、講演や会合の管理・組織および文章の発行がその活動の本質を成していった。

反戦の闘い

1903年4月5・6日、大阪で開催された社会主義協会の大会において、参加者は社会の社会主義的変革を求める。「自由、平等、博愛」の要求が常に存在していた一方、同時に階級とあらゆる抑圧との廃止、同様に侵略戦争禁止の要求が現れる。1903年末、平民社が反戦運動の核となった頃、日本は満州と韓国への侵略を続行しロシアとの戦争にまさに突入しようとしていた。平民社の刊行誌は5千部に達したが、これもまた強力な組織的機構の後ろ盾をもたない発行物であった。幸徳伝次郎(幸徳秋水)がこのグループの最も有名な演説者の一人であった。

1903年から1907年の間に日本を離れていた片山[2]は、1904年に第二インターナショナルのアムステルダム大会に出席する。彼のプレハーノフとの握手は、1904年2月から1905年8月まで続いた日露戦争の真っ最中における重要な象徴的行為として重んじられた。

平民社は戦争勃発時当初より反戦の立場を明白にしていた。人道的平和主義の名における立場をとったのである。武装部門の利益のための軍備競争は告発され、1904年3月13日、平民新聞はその紙面上でロシアの社会民主労働党への公開状を発行し、日本の社会主義者と団結して戦争に反対するよう呼びかけた。37号には『イスクラ(iskra)』紙からの返書が発表されている。同時に日本の社会主義者は、ロシアの戦争捕虜たちに社会主義文学の配布を行った。

1904年には3万9千の反戦ビラが配られ、およそ2万部の平民新聞が刷られる。

このように、日本の徹底的な帝国主義活動(1890年代における日清戦争、1904-1905年の日露戦争)は、プロレタリアが戦争の問題についての立場を表明することを妨げていた。帝国主義的戦争の拒否が未だマルキシズムにしっかりと根を下ろしたものではなく、平和主義的方向に常に強く印付けられていたとしても、労働者階級はインターナショナリズムの伝統を発達させていたのである。

『共産党宣言』の初翻訳版が掲載されたのも1904年の平民新聞紙上であった。この時まで、マルキシズムの古典を日本で入手することは不可能であった。

政府が革命家を弾圧し、彼らのうちの多くを裁判にかけ始めるや否や、平民新聞は廃刊となり、まもなく週刊『直言』が発行される。この刊行誌はまたもや平和主義思想がかなり色濃いものであった。

資本は軍事費を労働者階級に負わせ、物価は倍高に、そして3倍高になる。軍事費をまかなう為に負債政策を始めた政府は労働者階級を課税攻めにすることになる。

1905年のロシアにおいてと同様に、日本における労働者の生活状況の深刻な悪化は1905年には数々の猛烈なデモを勃発させ、1906年-1907年間には造船場と炭鉱とにおける一連のストライキを引き起こした。いかなる時においてもブルジョワジーは一瞬のためらいも見せることなく労働者に対し警察隊を送り、あらゆる労働者の組織が違法であることを再び表明するのであった。

革命家の組織は未だ存在せず、存在したのは反戦の革命的討論会だけであった一方、日露戦争はそれと同時に強度の政治的集中を引き起こすことになる。その最初の明確化は木下と安部を中心としたキリスト教的社会主義者、幸徳を中心とした派(1904-1905年以来反議会の確固たる立場をとった)、そして片山潜と田添鉄二を取り巻く派との出現によって生じる。


[1] 1982年発行、インターナショナル・レヴュー31号「労働者闘争の国際的一般化の中心にある西ヨーロッパのプロレタリア:『最も弱い鎖の環』理論批判」参照。日本や北アメリカといった圏域は、革命にとって必要な諸条件の殆どを網羅しているにも関わらず、革命的経過の発展にとって最適な場ではないことは、これらの国のプロレタリアの意識の発展における遅れと経験不足とがその原因である。

[2] 1903年から1907年の海外在住時の前半期に、彼はテキサスにおいて日本人農業者と共に数々の農業実験に従事している。これはカベやロバート・オーウェンによる空想(ユートピア的)社会主義の概念に沿ったものであった。弾圧後、偶然にも第一次大戦勃発後に彼は再度日本を後にし、渡米する。そして再び日系移民の中で活動を続けることになる。1916年にはニューヨークにてトロツキー、ブハーリン及びコロンタイらと対面し、この接触が成された直後に自らのキリスト教的思想を放棄し始める。1919年にアメリカ共産党に入党し、アメリカにおける日本人社会主義協会を設立する。1921年にはモスクワへ発ち、そこで以後1933年まで生活する。スターリニズムに対して批判の声を上げたことはなかったようである。1933年にモスクワにて死去、国葬により埋葬された。

日本における労働者運動に関するノート:第二部

闘争手段に関する討論

1905年のロシアにおける革命的事件の数々は、あらゆる労働者運動を大きく揺るがす大地震を引き起こした。労働者評議会が形成され、労働者たちが大衆ストライキを始めるや否や、社会民主党の左派(ローザ・ルクセンブルクは『大衆ストライキ』及び『党と組合』、トロツキーは『1905年』に関する著作、パネクークは諸処の文書、特に議会に関する文書を発表)はこれらの闘争から教訓を引き出すことを始めた。評議会における労働者階級の自主組織化についての力説、ローザ・ルクセンブルク及びパネクークにより特に主張された議会制度の批判は、アナーキスト的な気まぐれの結果などではなく、資本主義的生産方法の衰退の始まりにおいて新しい状況がもたらした教訓を理解し、闘争の新しい形を解釈しようとする為の最初の試みであった。

日本の革命家は国際的に比較的孤立していたにも関わらず、闘争の条件と手段とに関する討論は彼らの間でも繰り広げられ、世界規模の労働者階級およびその革命家の少数派にまでこの興奮が反映されていたことを示している。それまでよりも更に明確な形で二つの傾向が対立していくことになる。幸徳を中心とした第一のグループはその全主張が「直接行動」、即ちゼネストと革命的サンディカリズム(労働組合主義)をめぐって行われた為に、アナーキストへの強い傾化を見せ始める。幸徳は1905-1906年間に渡米し、IWWの労働組合運動の立場をよく調べ、ロシアのアナーキストたちとの接触を確立する。アナルコ・サンディカリストの潮流は1905年から機関紙『光』を発行する。他方、片山は『新紀元』において社会主義の議会活用を無条件に擁護する。その数々な相違にも関わらず、1906年にこの二派は合体し日本社会党を設立、片山が提唱したように「国法の範囲内」において社会主義の為に闘う。この日本社会党は1906年6月24日から1907年7月22日まで存在し、1906年12月まで『光』紙が発行される[1]。 

1907年2月、日本社会党の第二回党大会が開かれ、様々な見地における対立が浮かび上がる。第二インターナショナルのシュトゥットガルト大会へ送る代表員の選出の後に議論は始まった。幸徳は議会政策論に真っ向から反対し、「直接行動」論の方法手順を主張した:「革命への道は普通選挙や議会政治によって拓かれるものでは断固としてない。社会主義の目的を達成するには団結した労働者自身による直接行動の他に手段はない。3百万人の人間が選挙の準備をする、そんなことは革命には何の役にも立たない。(なぜならそれは)3百万人の人間が自覚し組織化されているわけではないからだ」。田添は厳格に議会の陣地における闘いを擁護し、多数が堺によって提案された折衷案に賛成する。それは「国法の範囲内で」という言葉を規約から取り下げるだけに止まったものであった。それと同時に、党員は普通選挙運動や非軍備主義運動、及び非宗教運動への随意の参加が許されることとなった。幸徳の立場はアナーキズムへと堕ちてゆき、第二インターナショナルの左分派が発展させ始めた社会民主主義の日和見主義や議会主義およびサンディカリズムに対する批判に、何とか自らを適用することはできなかった。

この論争の後、1905年以降幸徳は自らをアナーキストと認め、ますます組織構築にとっての障害として振舞うようになる。彼の見解は特にマルキシズムの知識と理解とを深めることを求める数々の分子を妨害することとなる。政治的立場の理論の徹底的な検討を奨励することによって組織の構築に貢献する代わりに、幸徳は「直接行動」論の見地を提唱することを望み、熱狂的な直接行動主義へと駆り立てられていった。会議終了直後に、この日本社会党は警察によって結社禁止処分にあうこととなる。 

1907年のストライキの復活後、1909年と1910年間にはまた別の階級闘争の後退が見られる。この間、警察による革命家狩りが行われたのである。赤色の旗を携行するという単純な行為が既に違法行為として扱われた。1910年には幸徳が逮捕され、その他多くの左翼社会主義者たちが後に続く。1911年、幸徳と他11人の社会主義者たちは天皇の暗殺を謀ったという口実の下、死刑宣告を受ける。社会主義の出版物はその会合と同様禁止となり、書店や図書館で入手することができた社会主義の文献は焼かれた。この弾圧に直面し、多くの革命家は亡命か或いはあらゆる政治的活動から身を引くことに至った。こうして長い日本の「冬の時代」が始まったのである。亡命を試みなかった革命家や知識人たちはそれ以降、出版団体・売文社を利用し自らの文書の発行を非合法に行った。検閲を免れる為に記事は曖昧な方法で書かれた。

ヨーロッパにおいては、反社会主義の法律の強制と弾圧とは社会民主主義政党(例えばSPD:ドイツ社会民主党、或いは更に過酷な弾圧を受けたロシアPOSDRS:ロシア社会民主労働党や、ポーランドとリトアニアのSDKPL)の拡大を押し止める事はできなかった。日本における労働者運動は弾圧下という状況においてなかなか発達できず、また同様に自らを強化させ党の精神と共に機能する革命的組織を形成する力を持つこと、即ち日本の運動において常に支配的な重みをもっていた各個人とその会による主要な役割の実施という枠を超えることに、非常な困難を見出していた。アナーキズム、平和主義および人道主義の影響は常に大きく、綱領的なレヴェルにおいても組織的なレヴェルにおいても、運動が重要なマルキシストの派を生じさせることができる段階にまで到達することはできなかった。第二インターナショナルとの最初の接触の確立にも関わらず、密接な連携を結ぶまでには未だ至らなかったのである。

こういった特殊性をもちながらも、日本の労働者階級が世界の労働者階級に同化し、ヨーロッパにおける革命的運動の綱領的・組織的獲得や長い階級闘争の歴史を有していなかったにも関わらず、似通った傾向を示しながらほぼ同じ問題に直面していたことを我々は認めなければならない。この点において、日本における労働者運動の歴史はマルキシストの派が重きをなすことができず、アナルコ・サンディカリズムが常に主要な役割を果たしていたアメリカやその他周辺国における歴史と同じ列に属していると言えよう。 

労働者階級と第一次世界大戦

日本は自らの植民地の立場を占領することを目的に、1914年に対独宣戦を布告するが(その数ヵ月後に日本は青島(中国)にてドイツの太平洋上の植民地の前哨を占領、この戦闘によって傷つけられた日本側の領土は皆無であった。戦争の中心部がヨーロッパにあったため、日本は第一段階においてのみ直接的な参戦をすることなった。対独の最初の軍事的成功を収めるや否や、日本は全ての新たな軍事的活動を控え、ある意味では中立的な態度をとる。ヨーロッパの労働者階級が戦争問題にますます深刻な方法で直面していった一方、日本の労働者階級は戦争がもたらした経済の「急発展」に面していた。実際、日本は武器の一大供給国となり、膨大な労働力の需要があった。1914年と1919年間に工場労働者の数は倍増する。1914年には1万7千の会社にて約85万人の賃金労働者が働いていたのに対し、1919年には4万4千の会社にて182万人の労働者が見られるようになる。それまでは男性の賃金労働者は労働力の僅かな部分を占めていたに過ぎなかったのが、1919年にその数は全体の50%を占めることになる。戦争末期には45万人の炭鉱労働者が存在した。こうして日本のブルジョワジーは戦争から多大な利益を引き出したのである。戦時中の武器部門における大雇用のおかげで、日本は農業部門によって主に支配されてきた社会から工業社会へと発展することが可能となった。1914年と1919年間の生産成長率は78%であった。

同様に、日本が大戦へ制限された形でのみ参戦したというこの事実は、日本の労働者にとってヨーロッパの労働者と同じ状況に直面する必要を生じさせなかった。ブルジョワジーはヨーロッパの大国においてそうであったように社会を軍事化する為の大量召集を行う必要がなかったのである。この事実は日本の組合にとって資本との「神聖同盟」を結ぶことを回避させ、この点もまたそれが現実に行われ資本主義の支柱としての正体を暴かれることになったヨーロッパの組合とは事情が異なっていた。ヨーロッパでは労働者が食糧不足と2千万人もの死を引き起こした帝国主義的大虐殺に直面し、塹壕戦や恐ろしい殺戮が労働者階級のただ中において繰り広げられていた一方、日本の労働者はそれらの全てから免れていた。ヨーロッパ、特にドイツやロシアにおけるもののような、労働者の闘いを急進化させる反戦の闘いによって構築される推進力が日本に欠けていた理由はこの違いにある。ロシア兵士とドイツ兵士との間に生じたような友好は一切存在しなかった。 

第一次大戦下における世界のプロレタリアの様々な部門間でのこれほどの状況の対照は、当時の革命家が考えていたものに反し、帝国主義的戦争が世界的革命の発展と一般化にとって最も最適な条件ではないという事実の表現であった。

大戦勃発直後よりインターナショナリストとしての立場と国際的展望とを主張し、1915年の夏にはツィンマーヴァルトにおいて、そしてその後にはキエンタールにおいて合流したヨーロッパの革命家たちは、第一次大戦前の時期の革命家の伝統にのっとっていた(即ち19世紀のマルキシストの立場およびシュトゥットガルト及とバーゼル大会にける第二インターナショナルにおける決議である)。それとは反対に、日本の社会主義者はその孤立の代償を支払わなければならず、インターナショナリストの抵抗はマルキシズムの上にしっかりと根を下ろした確固たる伝統を拠り所とすることができなかった。1914・1915年においてと同様に、聞いてもらえたのは主に平和的・人道的な声であった。事実、日本の革命家はツィンマーヴァルトにおいて前衛革命家たちによって広く普及された展望を引き継ぐ力をもっていなかった。その展望とは、第二インターナショナルは死に、新たなインターナショナルが結成されなければならない、戦争を止めさせるには帝国主義的戦争を内戦に転化することによってのみ可能である、といった諸事実の分析を拠り所としたものであった。

にも関わらず、少数であった日本の革命家たちは自らが担っている責任を認識することを知っていた。彼らは発売禁止の新聞や雑誌においてインターナショナリストの声を聞かせ[2]、秘密の会合を重ね、限られた力にも関わらずインターナショナリストとしての立場を普及させるために最善を尽くす。レーニンとボルシェヴィキによる活動ほどんど知られていなかったが、その一方ドイツのスパルタクス団のインターナショナリストの立場やカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルグによる勇敢な闘いは多大な注意を持って受け入れられた[3]

1918年8月の飢餓暴動(米騒動)

たとえ日本が大戦中にその戦争効果によるかなりの経済的「急発展」を迎えていたとしても、1914年の衰退期への突入は基本的にはあらゆる国々にこだました世界規模の現象であり、そこには第一次大戦の被害を免れた国々も含まれていた。日本の資本は世界市場の相対的飽和の結果である生産過剰の永続的な危機から遠ざかり続けていることはできなかった。同様に、日本の労働者階級も国際的な規模のプロレタリアに課せられた同じ諸処の条件と展望の変化とに対面することを余儀なくされるようになってゆく。

全ての産業部門における賃金が20%から30%増になったものの、労働口不足の為、物価は1914年と1919年の間には100%増に達する。実際的な賃金は全体的に減少し、1914年の賃金を基準に100とすると、1918年にそれは61にまで引き下げられた。この尋常でない物価の高騰は労働者階級を一連の防衛闘争へと駆り立てることとなる。 

1917年と1918間に、米の価格は二倍高となる。1918年の夏を通し、労働者たちはこの米価の暴騰に反対するデモを開始する。工場におけるストライキやその他の分野への要求の拡大があったかどうかについては情報が無いが、何百人もの労働者が路上でのデモに参加したようである。しかしながら、これらのデモはそれ以上に特記すべき組織化された形態をもつまでには至らず、特定の要求や目的に行き着くこともなかった。商店は略奪にあったようであり、特に農業労働者とその折近くにプロレタリア化された労働口、および被差別「部落民」はこの略奪において大変活動的であり、目立った役割を果たしたようである。多くの家屋と会社とが荒らされ、そこには経済的要求と政治的要求との間にいかなる統一もなかったと見られる。ヨーロッパにおける闘争の発展とは反対に、いかなる総会も労働者評議会も行われなかった。この運動の弾圧後、約8千人の労働者が逮捕され、100人以上が殺された。政府は戦術の理由上退陣する。労働者階級は自発的に蜂起したのであったが、同時に彼らのうちにおける政治的成熟の不足は悲劇的にも明白な事実であった。

労働者の闘争は自発的に発生しうるものであっても、その運動は政治的・組織的成熟を拠り所にして初めて全力を発揮し発展できるものである。この更に深い成熟がなければ、運動は早急に崩壊してしまう。それが日本のケースである。日本における数々の運動はその発生とほぼ同じ速さで崩壊してしまった。政治組織による組織化された介入も存在しなかったようである。ボルシヴィキやスパルタクス団による執拗な活動なしにはロシアやドイツにおける諸処の運動は早急に転覆させられていたであろう。しかし、こういったヨーロッパと日本とにおける様々な条件の違いにも関わらず、日本の労働者は大きく一歩前進することになる。 

日本におけるロシア革命のこだま

1917年2月、ロシアの労働者階級が革命的な過程の口火をきり、同年10月に権力の掌握に成功する時、このプロレタリアの初の蜂起は日本にまでこだますることになる。日本のブルジョワジーは直ちにこのロシアにおける革命が表す危険を察知する。彼らは、早や1918年4月より反革命の軍隊の戦闘態勢を整えることに最も断固とした形で参加し始めた最初のブルジョワジーたちのうちに数えられる。日本は1922年11月にシベリアにおける軍隊を撤退させた最後の国であった。

ロシア革命のニュースがたちまち西側諸国へと伝わり、ロシアにおける革命的発展が絶大なインパクトを -特にドイツにとって- 与え、中央ヨーロッパの諸軍隊を不安定にさせるまでに至ったにも関わらず、日本におけるそのこだまは大変限定されたものであった。地理的条件がこの事実に大きく影響しているとは言え(革命の中心であったべトログラードやモスクワから日本は数千キロも離れた地にある)、それだけが理由ではなく、戦時中における日本の労働者階級の急進化の度合いが弱かったという点が特に影響していたと言える。それでも日本の労働者階級は、1917年から1923年の間に繰り広げられた数々の世界的闘争の革命波に、その最も進歩的な分子と共に参加することになってゆくのである。 

革命家たちの反応

当初、ロシア革命のニュースは大幅な遅れをとり断片的な形で日本に伝わった。この事件が初めて社会主義者の出版物の紙上に現れたのは1917年5月と6月のことである。堺は違法の条件下において祝いの言葉を送り、それはアメリカの片山によって移民労働者の新聞『平民(Commoners)』、IWW(世界産業労働組合)の雑誌『International Socialist Review』誌上及びロシアの各新聞紙上において発表される。日本では高畠が売文社よりソヴィエトの役割についての初の報告論文を発表し、革命家の決定的な役割を強調する。しかしながら、革命時に諸政党が果たした役割に関しては未だ知られていないままであった。

ロシアにおける様々な事件とボルシェヴィキとに関する不知のレヴェルは最も知名の革命家たちによる初の宣言を通して見受けられる。1917年2月、荒畑は以下の様に述べている:「我々の中でケレンスキーやレーニン、トロツキーといった名前を知っている者は皆無である」。1917年の夏を通し、堺はレーニンをアナーキストとして語り、それだけではなく1920年4月には「ボルシェヴィズムとはある意味でサンディカリズムと似たものである」と断言している。アナーキストの大杉栄でさえ、1918年に「ボルシヴィキの戦略はアナーキズムの戦略と同一である」と述べている。 

ロシアで起こっていることに感銘を受けた高畠と山川は1917年5月、東京にて宣言「決議文」を書き、POSDR(ロシア会民主労働党)へ送付する。しかし郵送の混乱の中、これはロシアの革命家の手元には届かず仕舞いであった。亡命中の諸革命家と革命の中心部との間には直接的な接触が事実上ほぼ無かった為、この「決議文」が発表されたのはその2年後、1919年3月の共産主義インターナショナルの創立大会においてであった。

この日本の社会主義者によるメッセージは以下のように主張している:

「ロシア革命の当初以降、我々は感激と深い賞賛と共に諸君の勇敢な活動に注目してきた。諸君の成果は我々の国の国民の意識に多大な影響を与えた。今日、我々は我が国の政府があらゆる口実の下にシベリアへ軍隊を送ったことに対し非常に憤慨している。この事実が諸君の革命の自由な発展にとって一つの障害となることに疑いの余地は無い。我が国の帝国主義的政府が諸君に与えている災禍に反対するためには我々が無力すぎることを、我々は痛切に悔やんでいる。政府による弾圧の攻撃に遭い、我々は全く身動きが取れずにいる。しかしながら、近い将来、日本の全土において赤色の旗が振りかざされる日がまもなく来ることを確信してもらいたい。

この書簡に、1917年5月1日の我々の会議における決議書の写しを同封する。

革命的親愛をこめて、東京および横浜の社会主義者の会・執行委員会」 

彼らの決議文は以下の通りである:

「我々、1917年5月1日に東京にて集結した日本社会主義者は、ロシア革命に深い共感を抱き、賞賛をもって注目してきたことをここに表明する。我々は、ロシア革命が中世的絶対主義に反するブルジョワジーの政治的革命であると同時に、現代の資本主義に反するプロレタリアの革命であるということを理解している。ロシア革命を世界革命へと変貌させることは、ロシアの社会主義者だけの問題ではない。それは世界中における社会主義者の責任である。

今や資本主義制度の発展段階ははあらゆる国において最高点に達し、我々は完全に発達した帝国主義の時代へと突入した。帝国主義の観念論者たちによって騙されることがないよう、万国の社会主義者はインターナショナルの立場を揺ぎ無く守らなければならず、世界のプロレタリアの力の全ては我々の共通の敵である世界資本主義に対して向けられなくてはならない。そうすることによってのみ、プロレタリアがその歴史的任務を遂行できることになるであろう。 

ロシアとその他あらゆる国の社会主義者はこの大戦に終止符を打つべく持ちうる全力を尽くし、戦時下にあるプロレタリアに、今日塹壕線の反対側にいる自分たちの兄弟に銃を向けることを止めさせ、自国の支配階級に向けるよう支援しなければならない。

我々はロシアの社会主義者の勇気と世界中の同志とに信頼をもっている。我々は又、革命の精神が万国に拡がり浸透していくことを強く確信している。 

東京社会主義者の会・執行委員会」(1919年3月「共産主義インターナショナル創立大会」にて発行)

東京・横浜の社会主義者の1917年5月5日の決議文は以下の通りである: 

「ロシア革命は商・工業の発展と共に台頭した階級による反中世的政治体制の政治的革命である一方、それと同時に、平民階級による反資本主義の社会的革命でもある。

それ故、この際において大戦の緊急終結を決然と要求することは、ロシア革命の責任であると同時に世界中の社会主義者の責任なのである。戦時下にある全ての国の平民階級は集結し、彼らの闘争の力が各国の支配階級に対して向けられるよう再指導されなければならない。我々はロシア社会党の英雄的闘いと万国の同志たちに信頼を置き、社会主義革命の成功を待ち遠しく思っている。」 

同会はレーニンに電報を送り、その写しをUSPDとドイツのSPDにも送付する:

「世界の社会再組織の時、即ち我々の運動が再構築され、万国の同志と共に我々の最善をもって働くその時は、おそらくそう遠くはないであろう。休戦のこの極めて重要な段階、この重要な時において、諸君と連絡を取ることが我々にとって可能になるであろう。近々予定されている社会主義インターナショナルの創立に関して、可能であれば我々の代表員を派遣するつもりであり、現在その方向に向けて準備中である。我々の組織(売文社)の承認、及び諸君の支援と数多き助言とを期待しつつ・・・

敬具 東京社会主義者代表団」 

このメッセージは国際的な方向決定を示しており、集結への努力と新たなインターナショナル結成への支持とを明らかにしている。しかしながら、当時売文社がとりかかった準備というものが実際にはどのようなものであったかについて明言することは難しい。このメッセージは秘密警察により傍受され、おそらく一度もボルシェヴィキたちに受領されるには至らなかったようであるが、それに反しSPDやUSPDは受領後内密に保管し、決して公表されることはなかった。

これらの宣言が証言しているように、革命は強力な火花として革命家たちの間に拡がっていった。それと同時に、国内の労働者階級全体に革命がもたらした衝撃というものはそれよりずっと弱いものであったことは確かである。ロシアの西に位置する諸国(フィンランド、オーストリア、ハンガリー、ドイツ等)においては、ツァーリの打倒と労働者評議会による権力掌握のニュースが大熱狂と抑えきれない連帯感の波とを引き起こし、各国において「自国における」労働者闘争の強化へと導いていたのに反し、日本においては労働者大衆の内に直接的な反応を見ることはできなかった。第一次大戦末期、闘争意欲は高揚していたが、それはロシアにおいて革命が始まっていたからではなく、むしろ経済的理由がその原因となっていた。つまり、戦時中の輸出ブームが戦争終結と共に急速に燃え尽き、労働者の怒りの矛先が物価の高騰と解雇の波とへ向けられていったのである。1919年には35万人の労働者を巻き込んだ2千4百の「労働紛争」が数え上げられ、1920年には運動は僅かな減少を見せ13万人による千の紛争が繰り広げられ、1920年以降には後退の一途をたどることとなる。諸処の労働者運動は多かれ少なかれ経済的領域内に止まり、政治的要求は事実上皆無であった。ヨーロッパやアメリカ、又はロシア革命が西海岸とブエノスアイレスの労働者に刺激を与え運動を急進化させたアルゼンチン等の国々における場合と異なり、日本には労働者評議会が全く存在しなかった理由はここにある。

1919年と1920年の間、約150の労働組合が結成されるが、その内の全てが労働者の急進化に対する障害として振るまう。諸処の組合はますます高揚する闘争意欲を妨害する為に支配階級の尖兵かつ最も有害な軍隊となってしまう。そうして、1920年には「労働組合同盟会」が設立される。その時まで組合運動は100を超える組合により分かれていた。 

同時期、1919年にはブルジョワジーの支援の下、普通選挙権と選挙制度改革とを主張した一大「民主主義運動」が展開される。ヨーロッパのその他の国々と同様、議会政治制度が革命的闘争の楯として仕えることになる。日本でのこの要求の主な中心人物になったのはとりわけ学生たちであった。

闘争の新たな方法に関する討論

ロシア革命の衝撃と世界的闘争波に乗り、日本の革命家たちの間でも同様に熟考の過程が生じる。この熟考の過程は必然的に数々の矛盾を際立たせることになる。一方ではアナルコ・サンディカリスト(或いは自らをそう名乗った者)たちが、国家転覆を狙った革命を成功させた唯一の者であるとしてボルシヴィキの立場に同意する。この潮流はボルシヴィキの政策が、自分たちの純粋に議会的な方向決定に対する拒否の正当化を証明すると主張した(「直接行動」論の流れに反する「議会政策」論という論争である)。

1918年2月のこの討論の際、高畠は経済的および政治的闘争の問題が非常に複雑なものであるという考えを擁護する。闘争は直接的な行動と議会の闘争との二側面において展開することが可能である。議会制度とサンディカリズムの二つだけが社会主義運動を構成する要素ではない。高畠は大杉の個人主義的態度に反対するのと同様、アナルコ・サンディカリズムによる「経済的闘争」の拒否にも反対する。高畠は極めて不明瞭な形でもって「直接行動」と大衆運動とを同じ次元においていたにも関わらず、彼の文章は当時の闘争方法の明確化の一般的過程の一部を成したものであった。山川は政治的運動を議会制度と同一視することは通用しないと力説し、更には「サンディカリズムは私には十分に理解できない理由により退化したと思う」とまで言明した。 

限られた経験と、これらの問題に関する理論・綱領的明確化の限られたレヴェルとにも関わらず、日本におけるこれらの声が組合の旧手順と議会闘争とを根本から問いかけんとし、新しい状況への答えを捜し求めていたという点を認めることは重要である。この事実は労働者階級が同じ問題に直面し、新たな状況に立ち向かおうとする過程と同じ過程内に日本の革命家たちも含まれていたことを表している。

ドイツのKPD(ドイツ共産党)創立大会において、模索的な方法でありながらも、組合と議会の問題に関する新時代の教訓が引き出され始める。新時代における闘争の諸条件に関する討論は、世界的・歴史的重要さをもっていた。これほどの問題は討論の枠と組織が存在して初めて明確化することができるものである。国際的に孤立し、いかなる組織ももたなかった日本の革命家の境遇は、この明確化を推し進めるにあたり大変な困難に遭うことを余儀なくしていた。その為に、アナーキズムの罠に陥ることなく、組合と議会との旧式の手順に対する根本的な問題化が成されたこの時期における彼らの努力を認識することは、一層の重要性をもっている。

明確化と組織形成への試み

ロシアにおける革命は、資本主義の衰退の歴史的新条件であり、国際的闘争の波の拡大は日本の革命家に挑戦を挑むことになる。これらの問題に対する答えの模索と明確化はマルキシストの根拠という軸を無くしては前進できないことは明白である。このような軸の形成は、その前提条件があらゆる革命的組織に反対するアナーキストの党派と、革命的組織の必要性を断固として主張しつつも未だ決定的な方法で自らの構築にとりかかることができていない党派との間における明確化にある為、数々の大きな障害にぶつかることになる。

日本の政治界は、その時々の任務を果たすに至るまでに長い時間をかける。それは自国の内のみに焦点を合わせるという傾向が自らの進歩に足枷をかけていたからである。又、ごく近い過去に至るまでマルキシズムに接近することはなく、プロレタリアの戦闘組織の構築にとって決然さに欠けていた、知名人物や会の精神が著しく優勢であったという点もその理由である。

このように、最も知名な人物(山川、荒畑及び堺)の中でも特に1918年当時の山川はさらに「マルキシズム批評」を書く必要があるという確信に満ちていた。しかし、『新社会』の5月号において、堺、荒畑と山川はボルシェヴィキへの支持を表明する。1920年2月、彼らは自らの機関誌『新社会評論』誌上にて共産主義インターナショナル設立に関する報告を発表する。同誌は同年10月には『社会主義』と改題される。これと同時期に、これらの革命家は金曜会(社会主義研究会)や水曜会(社会問題研究会)といった様々な研究会において目ざましく活動する。彼らの活動は、組織の構築よりも、大抵において短命であり何らかの組織への構造上の結びつきをもたない機関紙の発行へと向けられていた。こういった日本の革命家の間における組織的問題に関する混乱や躊躇を背景に、共産主義インターナショナルは組織の構築への様々な試みにおいて重要な役割を果たしてゆくことになる。



 

[1]総計194名の党員が発表された。その内、商人18名、職人11名、自作農者8名、記者7名、事務員5名、医者5名、救世軍の士官1名が含まれていた。明らかに労働者の党員は少数であった。女性の組織的行動への参加は未だに禁止されていた為、女性の党員は認められていなかった。更に、党員の大多数が40歳未満であった。1907年1月、『日刊平民新聞』が創刊される。一地域内に止まらない販売に成功し、初刊には3万部が発行された。

[2]荒畑と大杉は1914年10月から1915年3月にかけ月間『平民新聞』を、1915年10月から1916年1月にかけ『近代思想』を出版する。これらは全てインターナショナリストの声であった。 

[3]『新社会』誌上において、国際情勢に捧げる「万国時事」という特集頁が設けられた。発行部数は少ないものであり続けたものの、SPDの裏切りに関する多数のニュースやインターナショナリストによる諸処の活動が記載された。同誌上にはドイツのインターナショナリズムの中で最も威信のある者の代表として、ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトの写真が記事と共に掲載された。記事の見出しを例に挙げると、以下の通りである:「クラーラ・ツェトキーン逮捕 / ジョレス暗殺後のフランス社会党の状況 / 1914年8月4日、ライヒスタークにおけるカウツキーとリープクネヒトの戦費に関する態度 / SPDの分裂 / シャイデマンの好戦的態度と中立的なカウツキー / 戦時中のイタリアにおけるストライキと蜂起 / ローザ・ルクセンブルグ釈放 / ロシアにおける囚人の状況 / ツィンマーヴァルトの宣言についての解釈 / リープクネヒト逮捕 / キエンタールにおける社会党の第二回国際大会と左翼による新たなインターナショナル設立の好機 / 社会民主主義反戦少数派、「ツィンマーヴァルトの宣言」のプロパガンダを理由に逮捕 / SPD党大会の状況 / アメリカの鉄道員によるストライキの脅威」。

日本における労働者運動に関するノート:第三部

共産主義インターナショナル(IC)と日本 

1917年10月、労働者階級はロシアで権力を掌握するが、日本の革命家が革命の中心と国際的運動との直接的な接触を確立するまでにはそれから長い時間がかかることになる。よって、1917年-1918年間の日本の革命家とロシアの革命家との間における接触は皆無であった。その上、1919年3月の共産主義インターナショナル創立大会には日本からの代表者の出席は全く見とめられず、アメリカ在住の片山潜が東京と横浜の代表者として委任されていたにも関わらず、この大会への参加は叶わなかった。極東共産主義団体の第一・二回大会は1918年と1919年の11月にモスクワにて開催され、日本の代表者が招待されていたが、この会議にも同様に不参加であった。しかし、1920年9月のバクー会議には、アメリカから来た日本の代表者の参加を確認することができた。この代表者はIWW(世界産業労働組合)のメンバーであったが、日本のいかなる組織の委任も有せず、自らの意志と判断とによる参加であった。

日本の革命家の世界の他の国々からのこの長引く孤立には幾つかの理由があり、第一に、内戦のために日露間のコミュニケーションが大部分において遮断されていた点が挙げられる。この内戦はプロレタリア革命の最も猛烈な対抗者であった日本軍を巻き込み、1922年のシベリア撤兵まで続いた。第二に、革命家たち自身の政治的虚弱さが挙げられる。彼らの内で、組織の構築や国際的な革命運動への統合を目指す原動力となる分子として行動することができたグループは皆無であった。それ故、共産主義インターナショナルが常に連携を確立しようと試みたにも関わらず、日本において拠点をもつことは実現されなかった。

新組織の基礎を築くことのできる分派の不在は大きな弱点となる。長期的な成熟の過程と組織的問題のマルクス的理解への困難な闘いとの結果がまさに、分派が成し遂げる党結成の為の準備的仕事そのものなのである。

共産主義インターナショナルが完全に日和見主義的な政策にすがりながら慌てて新組織設立へと行動し始めたのは、革命的運動の退潮が始まった後になってのことである。

1920年、第三インターナショナルは上海において韓国と中国の革命家が参加する極東書記局を設立した後、同年10月には日本のアナーキスト、大杉との接触を確立する。ICの極東局は日本における組織設立の資金として二千円を提供する。

しかし、共産党結成においてアナーキストがもち得る組織的・綱領的信用性とは一体どういうものであったのか?大杉は各々の「国内支部」における自治を求め、国際的連絡事務所の設立という点に関してのみ同意していた。彼はいかなるグループの委任も有せず、上海から帰国した折に自らの機関紙『労働運動』を刊行したのみであった。その他の革命家は常に極めて分散したままであり、1920-1921年間にこの組織設立計画を巧く実行に移すにあたって決然とした態度を見せた者はほとんどいなかった。大杉はと言うと、ロシアで諸処の事件が発展した間も一貫して自らのアナーキスト的方針に忠実であり続け、1921年のクロンシュタットの悲劇の後にはソヴィエト政府の転覆を呼びかける。共産主義インターナショナルはその後彼との連絡を一切絶ち、その結果組織設立への努力は失敗と終わった。

その日本において、1920年末期より山川、堺、荒畑の三人が勢力を団結させるべく尽力する。こうして1920年8月に集結したメンバーにより同年12月「日本社会主義同盟」が結成されることになる。様々な理論的・綱領的展望を持つ異なる潮流がここで集結し、約千のメンバーが加盟する。この同盟の公式な機関紙は『社会主義』と命名される。

その当初から、警察はこの組織の弾圧に邁進する。1920年8月から11月の間に諸処の準備会は解散させられ、同年の12月9日に予定されていた東京での創立大会も同様に警察によって解散させられる。ここでも再び組織設立への試みが警察の強力な弾圧の下失敗させられるのである。分散と分裂・崩壊とによりろ過と結集の過程とは決して最後まで成し遂げられることができず、その当然の結果としてそれぞれのグループが各々の機関誌を発行し続けることになる。堺と山川編集による『社会主義研究』、荒畑による『日本労働新聞』、大杉による『労働運動』等がその例である。1921年5月、「日本社会主義同盟」は結社禁止命令を受ける。

再結成の焦点の役割を果たすはずであった社会主義同盟のグループは、明確な境界線を設置し、問題解明のろ過作業を通して淘汰を行い、団結した革命組織設立の基礎を築くことのいずれも全く実現することができなかった。その代わりに、その周囲に数人の分子を集結させ、それぞれの機関誌を発行し続けた様々な人物の存在が、革命的舞台を支配し続けてゆく。

大杉との失敗に終わった会見は、ICの上海ビューローの代表員たちを、1921年、党設立の任務を山川に提案することへと導く。大杉と親しかった山川と堺はその時まで日和見主義的態度をとっていたが、それ以降山川と近藤および堺は綱領の推敲という仕事に取り掛かり、「共産党暫定執行委員会」の規約を念入りに準備することになる。しからしながらこれらの同志は1921年春においても未だ共産党を結党する意志を固めてはいなかった。革命的闘争において前衛的役割を果たすはずの戦闘組織としての共産主義組織の概念は、当時は未だ意識の中にしっかりと根を下ろしたものではなかった。唯一強調されたのは思想の普及と共産主義のプロパガンダのみであった。にもかかわらず、これらの同志の意志は共産主義インターナショナルとの連携を強化する方向へと向かっていく。

1921年5月、共産主義インターナショナルとの結びつき促進を目的に、近藤が上海へと送られる。近藤の政治的軌道は在米時よりIWWから多大な影響を受けており、その以前には大杉の機関紙、『労働運動』の発行に参加していた。ICの代表員たちとの会合の際、彼は組織設立を目指した進化が殆ど成されていなかったのが現実であった為、既に達成された進歩について誇大報告する。近藤に感銘を受けた代表員たちは経済的援助を約束し、彼は6500円と共に帰国するが、その資金は組織設立の為に使われることはなかった[1]

東京に戻ると、インターナショナルとの間に確立された同意に反し、近藤は自らのグループ「暁民共産党」を結成し、1921年8月にそのリーダーとなる。1921年5月の「日本社会主義同盟」の解散という失敗を未だに消化しきっていなかった山川と堺とは、「共産主義のプロパガンダのグループ」を党に変えるという提案を拒否する。1921年12月の警察の一斉検挙の後、近藤のグループは違法扱いになり壊滅する。それと同時にICの代表員であり経理担当者でもあったグレイが接触先の情報リストと共に検挙され、諸処の書類が警察の手に渡ることとなる。これはICの党結成援助の努力における新たなもう一つの失敗となった。

1921年夏をかけ開催された第三インターナショナルの第三回大会の際、日本からの代表員は未だに欠席のままであった。唯一の出席者はアメリカから来た在米日本人の同志たちであった。再び、日本における革命家たちはモスクワで行われたICの方法と状況に関する中心的討論から切り離されていた。この会議において、その後IC内において拡大する日和見主義的傾向に対して闘う、後の「左翼」共産主義(左翼反対派)となる潮流の代表員たちが知られるようになる。

その間、共産主義インターナショナルはラデックを調整役とした日本の為の諸処の委員会を設立し、普通選挙権導入の為のキャンペーンを決議する。このキャンペーンはICの第一回会議がブルジョワ民主主義と議会主義制度の危険な役割を暴いた時に現れ、その第二・三回会議にてイタリア左翼とドイツ・ハンガリーの同志が同制度の行使という誘惑に抗わなければならないと説いていたものであった。

共産主義インターナショナルは1921年秋、極東諸民族会議を呼びかける。この会議は同年11月に極東における勢力範囲の分割を計画し集結していた帝国主義の列強によるワシントン会議に対抗する、二者択一的な会議として直接的に組織された。

日本の異なるグループが、この極東諸民族会議への参加に招待される。山川と近藤の各グループと「暁民共産党」がそれぞれ代表員を派遣し、それに二人のアナーキストとその他の分子たちが加わる。最終的には1922年1月にべトログラードにて開催された同会議において、近藤による「暁民共産党」を代表した高瀬が、共産党が既に結成されたと宣言するが、これは明らかにはったりであった。他方では、この会議に感銘を受けたアナーキストの吉田が、共産主義に「改宗した」と告げる。にも関わらず、日本への帰途において既に、彼はその発表を早くも取り消しアナーキストの立場への忠義を再び断言することになるのである。

同会議においてブハーリンは、日本における労働者闘争の次段階がプロレタリア独裁の即時の確立計画にではなく完全に民主主義的な体制の構築にあるとし、それに専心することを求める。更に、最も重要な目的は帝国主義制度の廃止にあるべきだと述べる。1922年1月当時、ジノヴィエフは未だ日本を帝国主義大国として言明していたが、その数ヶ月後に共産党が結党されることになる時、日本はもはや帝国主義国としてはみなされなくなる。

1922年1月にべトログラードにて集結した革命的勢力による努力にも関わらず、日本における革命家たちは引き続き分散されたままの状態にあった[2]

組織構築において決定的な進歩を達成するにあたっての数々の困難は、様々な事情から生じていた。さらに深刻な他の諸理由を別にしても、第一にその孤立と、日本の国外との連携構築へ向けた尽力不足の為に、共産主義インターナショナルが日本における革命家界の異なる構成部分についての事情をほぼ全く把握できていなかったという事実が挙げられる。最も重要な責任を負った分子たちの間における組織的問題についての過小評価、困難な情況下における接触確立への自発性の欠如等、それらの全ての要因がICが繰り返した諸処の失敗に大きく作用したのである。

ICがアナーキストの大杉や極めて個人主義者にして予測不可能な近藤を「信頼できる人物」として選んだのは、日本の最も確実な分子たちが共産主義インターナショナルとの直接的な接触を確立する必要性を理解していなかった為である。彼らはこのイニシアティヴをアナーキストや彼らほど確実ではない分子たちに委ねきっていた。

インターナショナルによる日本の革命勢力に対するあらゆる種類の支援提供の試みにも関わらず、日本における世界的政党の必要性に対する革命家たちの信念不足を取り繕うことは不可能であった。階級に対し革命家が担う責任は、革命家が生活する一地理的区域内に限定される「一国内」の責任において結びつけられるものではなく、インターナショナリスト的運動上にその基礎が置かれるものでなければならない。

このように、議会主義問題に関する衰退から教訓を引き出す為のマルキシズムの見地に立った批判的試みが欠如していたという点は、同時期に頭角を現した「左翼」共産主義・左翼反対派の諸勢力と日本の革命家との連携が皆無であっただけに、ますます深刻であった。孤立を破るにあたってのこれらの困難は、政治的・綱領的混乱へと導いた。

1920年から革命の波が引き潮へと向かう時、日本の労働者階級は革命家の実際的介入をその内に有すること無しに闘った。共産主義インターナショナルは、既に日和見主義の流れへと進んでいた時に党結成への参加を望む革命家たちの結集に献身する。1922年7月15日、日本共産党(PCJ)の創立が実現するにはこうした状況を背景としていた。

日本共産党(PCJ)の創立

日本共産党は組織的経験を殆どもたない様々なグループのメンバーと指導者たちによって結成され、いかなる実際のマルキシストの派、とりわけ組織的問題についてのいかなるマルキシストの派も備え持ってはいなかった。ICによって連絡を受け養成された旧指導者、即ち堺、山川、荒畑たちも入党し、その時まで彼らが指導していたそれぞれのグループも共に参加することになる。山川の「水曜会」及び『前衛』の発行に携わっていたグループ、堺の『無産階級』を中心としたサークル、「暁民共産党」、及び1921年に結成された労働組合の組合員たちである。同党は1923年には約50名のメンバーを有したが、入党の概念そのものに問題があった。というのは、同党は個人的なメンバーを一切数に入れて記さず、彼らは党結成の為に集結された様々な異なるグループの一つに属していたからである。更に、いかなる綱領、規約、選定された中央機関も存在しなかった。党員は特に各出身グループ内において活動的であり、山川と堺とを中心としたグループが党員の大多数を占めていた。

統合された単一団体の構築という役割に取り組む代わりに、党の生命は「細分化」させられ、これらのグループや旧来の指導的人物たちの重みにより強い影響を受けてゆくことになる。綱領に関するろ過が十分に成されていなかった為、現実的にはいかなる計画も練られてはいなかったのである。

その上、非合法という状況故に同党はいかなる自主的な機関紙の出版も許されず、いかなる公式な宣言も発行できなかった。党員たちが様々な政治的発行物において各々による個人的立場をとっていたのはそれが理由である。『前衛』、『無産階級』、『社会主義研究』の三誌が合併し、党の機関紙として『赤旗』の創刊が実現するのは、1923年4月まで待つことになる。

これと同時に、同党は大衆政党となることを求め、山川はインターナショナルの方向決定に従いつつ、その方針に沿って傾化してゆく。この大衆政党は「全ての組織化・非組織化された労働者、農民、中産階級の下層、そして全ての反資本主義運動および組織」を内包するとされた。従ってPCJは共産主義インターナショナルの方向決定を再度その手に取り戻したとは言え、それは自らの日和見主義的政策の表明でもあった。事実、この大衆政党の時代は当時ドイツのKPDにより明白に分析されたように過ぎ去っていった。

日本支部に関する綱領は1922年11月、ブハーリンを議長としたインターナショナルの委員会によって推敲された。この綱領は第一次大戦中の日本の急速な経済発展をについて論じていたが、特に以下の点が強調されていた:

「日本の資本主義は過去の封建的関係の遺制を今も表しており、その最も重要な名残が政府の最高位に就く「みかど」の存在である。(中略)封建制度の残滓は現在のあらゆる国家管理構造の中において同様に支配的役割を演じている。国家の諸機関は今も尚、商工産業のブルジョワジーと大地主による様々な諸部分から成るブロックの手中にある。この国家特有の半封建的性格は、特に国家憲法内における「元老」の持つ主要な役割によって如実に表されている。この状況を背景に、労働者階級や農民、小ブルジョワジーだけでなく、現行政府へ反対の立場をとることに利益をもつ自由主義ブルジョワジーを名乗る更に広い階層から、反政府勢力が生じて来る。ブルジョワ革命の達成は序幕となり、又ブルジョワジーに対する支配とプロレタリア独裁の確立を目指した前奏曲となることが可能である。(中略)封建的領主とブルジョワジーとの間における闘いは確実に革命的性質を帯びていくことになるであろう」(Houston p60、本誌による翻訳)

その創立大会の宣言において、共産主義インターナショナルはあらゆる場所における革命を喫緊の問題としていたにも関わらず、衰退したICは1922年より世界の各地域に従う各プロレタリアにそれぞれ異なる歴史的役割を割り当て始める。

日本を中国とインドとの同一計画内に含んで割り当てたのは、当時の日本にはまだ農民人口の比率が大きく、そしてとりわけ天皇と封建制の名残とが存在していたからであり、ICは日本の労働者階級にブルジョワの諸グループと同盟を結ぶことを提言する。共産主義インターナショナルのみならず日本共産党も、日本において既に深く根を下ろしていた国家の資本主義の現実の発達を過小評価していたのである。

天皇が常に政治的代表としての役割を演じていたにも関わらず、それは日本社会における階級構成にも、労働者階級が直面していた数々の歴史的任務にも、いかなる変化をももたらしてはいなかった。日本における資本主義の発達の歴史は他国と異なっていた為、同国における私的産業は確かに他の産業諸国においてほど発展してはいなかった。しかし、資本主義的生産様式の拡張以来、国有資本に対して私有資本の占める割合が比較的少ないという日本資本の特徴は、国家の高度成長によって「埋め合わせ」られていた。国家は非常に素早く日本の国家利益を守るための積極的かつ干渉主義的な役割を買って出た。前述の日本共産党と共産主義インターナショナルの立場には、この国家の資本主義のレヴェルを深刻に過小評価していたという背景があったのである。実際にはこの国家の資本主義ははるかに莫大な比率を占め、ある点までにおいては殆どの欧米諸国においてより日本において更に発達していたのである。

資本主義の上昇局面における資本の私有部門の発達が乏しかった為に、ブルジョワ諸政党がヨーロッパにおいてほど存在しなかったとしても、又、全体として議会制度の重みと影響とが他国に比べ少ないものであったとしても、それらの事実は日本の労働者階級が他と異なる歴史的任務を負い、ブルジョワ民主主義の議会制度のために闘わなければならなかったということを意味していたのではない。

PCJのこの方向決定はその内部において抵抗にぶつかることになる。山川は、もしブルジョワ民主主義が存在せず日本が軍隊と官僚とによる徒党に支配されていたとすれば、インターナショナルの分析とは逆に、ブルジョワ革命を実現するいかなる利益も存在しないと断言する。その結果、彼は選挙という場における党の結集に反対する立場をとる。

この主張は1923年3月の党会議にて議論されるが、いかなる決議も採られることはなかった。佐野学はプロレタリア革命が日本においても同様に喫緊の問題であるという基本的方針を含んだ綱領草案の代案を提案する。普通選挙権の要求に関しても同様に数々の不一致が存在し、佐野は議会への参加を拒否、同じく山川も選挙への参加反対の意見を述べる。

この批判の徹底的検討を助長することができたはずのヨーロッパの「左翼」共産主義・左翼反対派の声が日本には届かなかった為に、この批判が掘り下げられ綱領的基本の上に根を下ろすまでに至ることはなかった。

国際的レヴェルにおいてと同様、日本国内においても革命波の数々の闘争は衰退期にあった為、JPCは戦火の只中における介入の試験を実行することができなかった。その限られた組織的経験と日和見主義的で政策的に混乱した立場とを考慮に入れると、闘争組織として行動しその前衛的役割を果たすにあたって同党が最大限の困難にぶつかったであろうことが推定される。

日本のブルジョワジーによる戦略は、その他あらゆる支配階級による戦略と類似したものであった。即ち日本共産党に対する弾圧と侵入との行使である。1923年6月5日、同党は禁止処分を受け、約百名から二百名の党員が検挙され、警察に知られた全党員が投獄される。

1924年3月24日、同党は完全に解党させられる。荒畑はこの解散に反対し、党の存在維持の為に闘う必要性を擁護する一方、堺は違法の前衛政党は既に必要でもなく望まれてもいないと唱え解党を支持する。山川はと言うと、このような政党は労働者から離れてしまい、ブルジョワジーによる弾圧の餌食になるだけであり、マルキシストの革命家は労働組合や農民組合といった大衆組織に加わり将来の合法的なプロレタリア政党の確立を準備するべきであると説いた。こうして、強固な一集団ではなくむしろ様々な人物の結集であり、いかなる組織的構造も持たず、党の精神にのっとって機能することもなかった最初の共産党は、最後まで全くその任務を果たすことはできなかった。

世界的レヴェルにおける諸闘争の退潮の後、革命家たちは同一の任務に直面する。退化したICが大衆政党の設立と統一戦線という合言葉を持ち出し、そうすることによりますます疲労しますます方向を見失った労働者たちの間に混乱を増殖させていた一方、その結果革命家たちは分派の機能を発展させるという任務に専心することを余儀なくされてゆく。

しかし、ここでもまた日本の革命家はこの任務の遂行にあたり数々の大困難に衝突しなくてはならない。彼らの陣地からはインターナショナルの退化と戦い将来の政党の基礎を築く為の、いかなる分派も出現しない。

日本における反革命の高まり

日本の労働者階級に対する攻撃を増加させる為に、ブルジョワジーは自らに有利な形の力関係を行使する。第一次世界大戦下とそれに続いて生じた革命波の中において、労働者階級は他の国々においてほど急進化されてはおらず、その闘争への参加は周辺的な方法のみであったにもかかわらず、今度は1920年代を通し高まりを見せる反革命による過酷な仕打ちに遭うことになる。1923年の検挙以降、政府は労働者階級に対しさらに厳しい弾圧を加えるまたとない機会に飛びつく。その機会とは、同年9月1日に東京を襲い、10万人以上もの死者を出し、都心の大部分を破壊するという甚大な損害を与えた大震災がもたらした効果である。言論と思想を取り締まる警察(「特別高等警察」)が設置され、それに次ぐ数年の間に大量検挙が強行される。1928年には4千人、翌年1929年には5千人、1932年には1万4千人、その1933年には再び1万4千人の労働者が逮捕されることになる。

ヨーロッパは1920年代に微かで短命の経済復興を見せるものの、日本はそれより更に早い時期に世界的な経済恐慌に襲われ、国内の労働者に対する諸処の攻撃を強める原因になっていた。1929年の株の暴落の2年前、1927年の日本の大恐慌勃発までに、主要諸工業における生産力は既に40%も低下していた。日本の輸出額は1929年と1931年の間に50%減となる。

日本資本は新たな軍事的征服へと向かってゆく。ロシアへの介入が最大であった1921年の前後には国家予算のほぼ50%に達していた軍事費は、第一次大戦後にも現実には全く減少させられることはない。ヨーロッパやアメリカとは逆に、実際的な非武装化は実現されなかったのである。軍事費における僅かな減少があったものの、それによって浮いた費用は直ちに軍備の近代化へと還流された。日本の労働者階級は資本主義の攻撃と戦争へ向かう流れに対し微少な抵抗によってしか挑むことはできなかった。こういった背景において、日本の国家はヨーロッパの諸国家よりもはるかに早く経済における支配的立場を確立し、軍事的征服の道へ決然と臨んでゆきながら、非常に拡大した国家の資本主義体制を発達させ始める。

ヨーロッパにおいてよりもはるかに低かった労働者の生活水準は、さらに低下することになる。彼らの実際収入は1926年を基本に100とすれば、それは1930年には81、その翌年1931年には69にまで引き下げられ、地方では飢饉が広まるまでに至る[3]。労働者階級が衰弱させられ、資本が攻勢をかけていたこの環境の下、数々の闘争を人為的に扇動したり大衆政党の設立を試みることにより、この不利な力関係を何としてでも乗り越えようと試みた革命家たちが存在した。

PCJ、スターリニズムの従僕となる

1923年の革命波の末期、ロシアとICの懐においてスターリニズムが強化されていった時、共産主義の諸政党はますますモスクワの支配に服従しその道具と成り果ててゆく。PCJの発展はこの事態を如実に明示している。

ICはロシアの利益を守るため、どんな代価を払ってでも新政党を結成しようとする。1924年3月の解党後、共産主義インターナショナルは1925年8月に新たな共産主義のグループを設立し、このグループは1926年12月4日に新政党の宣言を発するが、これは単なるモスクワのオウムに過ぎなかった。1925年から既に、共産主義インターナショナルは『上海テーゼ』において旧同党の立場と機能とに関する批判を始めていた。明治維新と共に始まったブルジョワ民主主義革命は、今だに封建制度の名残(特に封建的地主)とブルジョワジーとが残存しているが故に、完成を遂げられなければならないというのがインターナショナルの指示であった。よって共産主義インターナショナルは「日本の国家は、国家そのものが日本の資本主義の強力な要素である。産業と経済部門への全投資の30%が国家出資である日本ほど、国家の資本主義導入が進んだ国はヨーロッパにはまだ一つも存在していない」点を認めながらも、封建制の残滓について強調していたのである。

しかしながら、インターナショナルによると日本の国家は現実にブルジョワ民主主義になる必要があるということであった。山川は国家と大金融資本家との間における政治的同一視を引き合いに出し、この分析に反対する。彼はブルジョワジーが日本においてかなり以前から権力を掌握してきたことを明言し、プロレタリアはモスクワが擁護したような「二段階革命」を拒否することによって、農民たちと反ブルジョワジー同盟を確立しなければならないと主張する。山川は労働者運動の内における左翼、もしくは農民・労働者の政党が、禁止された日本共産党に替わりその空席を埋めることができるという考えを支持していた。彼は1927年12月、雑誌『労農』の創刊に取り掛かる。

共産主義インターナショナルは「労働組合に対する潜入工作と征服」の政策を推し進める。これは1925年5月に結成された「日本労働組合評議会」に多大な影響を与える。

1928年の議会選挙において、PCJはその他「資本主義左翼」諸政党と共に「統一戦線」を張る。この諸政党の党員は増員しており、この内「無産大衆党」を含む内七党が結党し「日本大衆党」を結成していた。

1928年3月の新たな弾圧の波の後、左翼の全政党が結党禁止となり、諸政党の指導者たちが投獄される。彼らは違法な政治活動を続行すれば死刑宣告が下ることになると脅迫される。しかしながら、ひとたびPCの旧リーダーたちが警察によって投獄されると、モスクワは同年11月には新たに同党を再建できるようになる。つまり、モスクワの指示に厳密に従うことのできる別の中央委員会を配置することができたのである。日本共産党の中央委員会と幹部とは、それに続いた数年の間にインターナショナルの政策の変化に応じ取り替えられる。弾圧と逮捕との新たな波が去る毎に、常に新たな指示がモスクワにより送り出され、このようにして党の生命は「人工的に」維持され続けた。しかし、このように発揮されたあらゆる努力もむなしく、モスクワは加入者を明白な形で増やすことには全く成功しない。PCJはモスクワの単なるオウムに成り果てていた。

1928年に共産主義インターナショナルが、トロツキスト反対勢力と同様、現存していた「左翼」共産主義者・左翼反対派の闘士の全員を追放する「一国社会主義」を自らの公的な政策として宣言する時、日本共産党はいかなる反論もしない。同党はこれを共産主義インターナショナルによる労働者階級の利益に対する裏切りとはみなさなかったのである。5年来モスクワにより組織的・綱領的そしてあらゆるレヴェルにおいて「養われてきた」PCIはモスクワに対する完全な忠誠を守り、この状況に対しいかなる小さな抵抗をもって反対することもできない。1927年にて既に、水野成夫によって指導され後に逮捕されたPCJのグループは、インターナショナリズムを拒否し、「国家社会主義」の理念の擁護に取り掛かっていた。

言語の問題とこの時期の諸文献へのアクセスにおける困難は、我々が日本共産党の態度に決定的評価を下すにあたり慎重さを要求する。しかし、本テキストの執筆時点までに、スターリニズム化や「一国社会主義」理念へ反対した結果としてPCJから追放または分裂したグループを我々は知らない。PCJがいかなる批判もせず、スターリニズム化に対しいかなる抵抗をもって反対することもなかったと我々が推論できるのはこのためである。いずれにせよ、例え反対の声があったとしても、彼らがロシアにおける反対派、及びロシア外の「左翼」共産主義・左翼反対派の諸潮流と接触をもつことは一切なかった。隣国の中国において1927年に起こり、インターナショナル内および国際的レヴェルにおいても激しく討議された諸処の事件に関してさえ、我々の知る限り、インターナショナルのこの惨憺たる政策を告発する批判の声を日本から聞くことは全く無かった。

共産主義インターナショナルによる「一国社会主義」政策発表の後、党がまだ裏切られていなかったとしても、インターナショナリストの立場のために闘う事によって何らかのプロレタリア的抵抗を同党が誕生させることはできなかった。

日本の帝国主義戦争への道:

スターリニズムによるインターナショナリストの声の抹殺

日本資本が直面していた労働者階級はヨーロッパのプロレタリアよりも少ない抵抗を示していた為に、ヨーロッパの敵対諸国よりも早く徹底した戦争への競争に邁進し始めることが可能となる。1931年9月、日本軍は満州を占拠し、傀儡国家満州国を建国する。

戦争への競争が国際的に加速し、また1930年代半ばにおけるスペインの内戦がヨーロッパにおける数々の対決と第二次世界大戦とを目指した総稽古を意味していた時、1937年から1945年にかけ日中戦争が勃発することになる。

第二次世界大戦の開始以前から既に、日本の帝国主義は高度な残虐行為の螺旋を動かし始める。1937年、南京において数日の内に20万人以上の中国人が虐殺され、この戦争中に総7百万人が殺害される。

『BILAN』を出版した「左翼」共産主義・左翼反対派のグループは、スペイン内戦中に(分裂をその代価に)インターナショナリストの立場を擁護した稀なグループの一つであった。このグループはあらゆる革命勢力にとって根拠の焦点を代表している。一方日本においては、1905年の日露戦争と第一次大戦中に存在していたインターナショナリズムの貴重な伝統は、スターリニズムにより沈黙させられていた。ドイツにおけるヒットラーのNSDAPに比較し得る、1931年に結成された「日本国家社会党」と同国の社会民主党とは、日本の資本家の戦争への帝国主義的競争の参加を公然と支持する。「社会大衆党」も同様に「軍は資本主義とファシズムとの両方に対して戦う」という限りにおいて、1934年10月、日本軍の「国防努力」を支持し、同党の幹部は対中国戦争を「日本国民による聖戦」と形容する。日本の労働組合の全国大会において、「全総(全日本労働総同盟)」は1937年、労働者ストライキを違法とすることを決議する。

他方、「左翼」共産主義者・左翼反対派が唯一インターナショナリズムを擁護していたにも関わらず、スターリン主義の日本共産党とトロツキー自らが、中国の対日防衛を呼びかける。

1932年9月、日本共産党は次のように宣言する:「満州における日本帝国主義の戦争は、まず最初に中国革命とUSSRに反するよう向けられた数々の帝国主義戦争の新たな一連の始まりを示している。(中略)もし世界中の帝国主義者たちが我々の祖国・USSRに対し敢えて挑戦しようとするのであれば、世界のプロレタリアが武器を手に彼らに対し蜂起することを彼らに見せるであろう。(中略)ソヴィエト連邦の赤軍万歳、ソヴィエト中国の赤軍万歳!(Langer、1968年『Red Flag in Japan』より、当誌による翻訳)」。「帝国主義戦争廃止」、「中国への侵略を止めよ」、「革命的中国とソヴィエト連邦とを防衛せよ!」を合言葉に、同党は日本の資本家に対しロシアと中国を支援するよう呼びかける。日本共産党はモスクワの最高の従僕となっていったのである。

しかし、同様にトロツキーも第一次大戦中に擁護していた立場を船外に投げ捨てることになる。「現在の満州における日本の冒険は、日本を革命へと導くことができる」(1931年11月26日「ファシズムは実際に打ち勝つことが可能か?国際情勢の鍵はドイツにある」より、本誌による翻訳)という完全に間違ったヴィジョンを元に、彼はソヴィエト連邦に中国の軍国化を呼びかける:「日中間におけるこの巨大な歴史的戦いにおいて、ソヴィエト政府は中立を保っていることはできず、中国と日本とに対し同等の立場をとることはできない。ソヴィエト政府は中国国民を全面的に支援する義務を負っている」。「進歩的戦争の可能性」が今もなお存在していると考え、彼は次のように宣言する:「この世界に正義の戦争があるとすれば、それは中国国民による自らの圧制者に対する戦争である。中国における労働者階級の全ての組織、全ての進歩勢力は、この解放戦争において自らの綱領と政治的独立とを放棄することなしに自らの義務を果たすこととなるであろう」(1937年7月30日、本誌による翻訳)

「ブルジョワの新聞紙上の声明において、私は中国のあらゆる労働者組織の義務について語った。彼らの綱領と自立した活動を全くもって放棄することなく対日戦争の最前線へ積極的に参加するという義務についてである。しかしエイフェル派たち[4]はこれを「社会愛国主義」と呼ぶ。即ち『それは蒋介石を前に降伏することを意味している!これは階級闘争の諸原理に反することである。(中略)帝国主義戦争において、ボルシェヴィズムは革命的祖国敗北主義の為に闘っている。スペイン内戦と日中戦争とは共に帝国主義戦争である。(中略)我々は中国における戦争に関し同様の立場をとる。中国における労働者と農民にとっての唯一の救いとは、日本と中国両者の軍隊に対する独立した勢力として行動することである。』と彼らは主張するのである。(中略)1937年9月1日のエイフェル派の文書におけるこの数行は、彼らが裏切り者かまたは完全な愚か者であることを明らかにしている。しかし愚かさもこれほどまでの比率に達すると、それは裏切りとなる。(中略)圧制国と被圧制国とを区別することなしに一般的に革命的祖国敗北主義について語ることは、ボルシェヴィズムを惨めなカリカチュアへと変形し、このカリカチュアを帝国主義に奉仕させることである。中国は我々の目前で日本により植民地化されようとしている半植民国である。日本に関して言えば、同国は反動的な帝国主義戦争を導いている。中国はと言うと、進歩的な解放戦争を導いている。(中略)日本の愛国主義は卑劣で醜悪な顔をした国際的略奪行為である。中国の愛国主義は正当であり進歩主義的である。この二つの愛国主義を同じ次元に置き「社会愛国主義」として語ることは、レーニンを全く読んだことがなく、帝国主義戦争におけるボルシェヴィキの態度を全く理解していないことを表し、それを擁護することは単にマルキシズムを侮辱することに他ならない。(中略)我々は第四インターナショナルが日本に対する中国の側についているという事実を強く主張しなくてはならない」(「日中戦争について」ディエゴへの手紙より抜粋、本誌による翻訳)

帝国主義の二つの陣地に対する容赦なき闘いの全ての伝統は、トロツキーにより放棄された。この帝国主義的対決の際にインターナショナリストの立場を明白に擁護したのは、「左翼」共産主義・左翼反対派のグループたちのみであった。『BILAN』のグループはこの戦争に関し次のような立場をとる:「世界的プロレタリアが、共産主義インターナショナルとソヴィエト・ロシアとによって中国における(1927年の)ブルジョワ的・反帝国主義革命の可能性を検討するよう差し向けられた際、実際には世界的資本主義のための犠牲となったことは、過去の経験が証明している」(1937年11-12月、「日中戦争に関するインターナショナル「左翼」共産主義イタリア分派、執行委員会による決議」)。

「そして、まさに諸処の国民戦争が美術館行きの骨董品扱いになっているこの歴史的段階において、労働者を中国国民の「国民解放戦争」へ動員しようとしているのである」

「今日、一体誰が中国の「独立戦争」を支持しているのか?(中略)ロシア、イギリス、アメリカ及びフランスである。全ての帝国主義諸国がこの戦争を支援している。(中略)そしてトロツキーまでが帝国主義戦争の流れによって再度引きずられ、中国国民の「正当な戦争」の支援を奨励している。(後略)」

「戦線の両側に強欲なブルジョワジーが存在し、この支配者はプロレタリアを虐殺することのみを目的としている。中国の労働者が、例え暫定的であれ「共に歩む」ことができるブルジョワジーが存在するなどと、又は中国の労働者が革命の為に闘い勝利を収めることを可能にするにはただ日本の帝国主義のみを打倒すれば良いなどと信じさせようとする事は、偽り、完全なる偽りである。帝国主義は至るところで先頭に立っており、中国もその他の帝国主義諸国の玩具に過ぎない。革命的戦闘の道を垣間見る為には、中国と日本の労働者が互いに歩み寄って進むよう導く階級の道を見つけなければならない。即ち、友愛でもって彼らの搾取者に対する同時襲撃を強固にしなければならないのである(後略)」

≪共産主義インターナショナルの左翼反対派の諸分派のみが、全ての裏切り者や日和見主義者たちによる諸潮流に反対し、革命の為の闘争の旗を勇敢にかざしていくであろう。唯一これらの分派のみが、アジアを血で染めている帝国主義戦争を、労働者を搾取者に対して向かわせる内戦へと転化する為に闘うであろう。即ちそれは、中国と日本の労働者との友愛、「国民戦争」の戦線の破壊、中国国民党に対する闘い、日本帝国主義に対する闘い、労働者間において帝国主義戦争の為に行動するあらゆる潮流に対する闘いである。≫

「世界のプロレタリアはこの新たな戦争の中で、自らの死刑執行人と裏切り者から逃れ、それぞれが各ブルジョワジーに対する戦闘を勃発させることにより、アジアの同志たちへの連帯を表明する力を見つけなくてはならない。

中国における帝国主義戦争打倒!中国のブルジョワジーと日本の帝国主義に対する全ての被搾取者による内戦万歳!」(BILAN、「中国における帝国主義的殺戮を停止させよ!直ちに戦争を内戦へと転化するため、全ての死刑執行人に反対せよ」1937年10-11月)

これは、第一次世界大戦の革命家たちの立場の唯一の継続である、「左翼」共産主義・左翼反対派よるインターナショナリストの伝統の表現であった。しかしながら、このインターナショナリストの旗が日本の革命勢力によって引き取られることは皆無であったようである。

ヨーロッパではブルジョワジーが「人民戦線」政策に着手する。この戦術の目的は、ヒットラー率いるファシスト・ドイツに対し「民主国家」防衛の帝国主義戦争へと労働者階級を徴募することにあった。労働者をこの戦争に動員させる為に、ブルジョワジーは「民主主義」の擁護という名目により労働者を騙す必要があったのである。一方日本においては、労働者階級は既にその大部分が敗北させられていた。

ソヴィエト連邦の擁護を目的とした左翼の諸政党による統一戦線の構築を目指したPCJによる初の呼びかけは、日本国家の利益に与していた同諸政党により拒否される。PCJ自身も就くべき陣営を決定していた。

日中戦争の勃発以前より既にまたもや禁止処分下にあったPCJの生存者たちは、日本に対するソヴィエト連邦の擁護を呼びかける。

戦争中、同党の中でまだ活動を続けていた者たちは「日本の軍事・封建的秩序を「ブルジョワ民主主義革命」により破壊」するよう呼びかけ、「その過程においては資本主義諸国家との積極的な協力が必要になる」と宣言する。このような議論を基に、日本共産党は「帝国主義日本!」に対する紛争中のアメリカとロシアとを支持するのである。

1945年から1946年の冬にかけて、アメリカの占領下PCJは再編成される。綱領は1927年と1932年のテーゼにならって推敲され、「二段階革命」の計画が準備されていた。喫緊の任務は「帝国主義制度を乗り越え、日本において民主主義と土地改革とを実現する」ことにあった。

この戦略はアメリカと共に日本の非武装化と動員解除にとっての協力の基本を提供することになる。連合国軍とアメリカの最高司令官たちは、ブルジョワ民主主義革命を達成する歴史的任務を負った進歩主義ブルジョワジーの一部として見なされた。

世界中どこにおいてもそうであるように、戦後の労働者階級はかつてないほど衰弱しきっていた。

復興はこのひどく敗北し士気を失った階級と共に行われる。何十年もの間、支配者階級は日本の労働者階級を、長時間の労働と低賃金とに耐える、従順で盲従的な、打ち負かされ屈従させられた階級のモデルそのものとして喜んで紹介することになる。

1968年のヨーロッパ、特にフランスにおける数々の巨大なストライキの後、世界の労働者階級は50年以上続いた反革命に終止符を打つことにより再び歴史的舞台にその姿を現す。そして、左翼共産主義・左翼反対派の伝統を再度見出すことができたいくつかのグループを含む数々の小さな革命的グループを再び続けざまに誕生させることになる。しかし日本においては、資本主義左翼のグループが政治的舞台を完全に支配していた。我々の知る限り、歴史的プロレタリア政治界、つまり左翼共産主義・左翼反対派の伝統を主張するグループたちとの連絡を確立できた勢力は存在しなかった。

復興期の後、経済恐慌への突入と事実上10年来の日本における公然たる景気後退と共に、日本の労働者階級がさらに質的に進んだレヴェルの恐慌による攻撃に対し、自らの身を護ることを余儀なくされる立場に陥ることは単に時間の問題である。この階級衝突は革命家による最も決然たる介入を必要とするであろう。にも関わらず、革命家がその任務を達成できる為に出現するプロレタリア政治の分子は、世界のプロレタリア政治界との連結を確立し、自らをこの国際的実体の一部として理解することが必要となるであろう。

100年以上ものほぼ完全なる政治的孤立は乗り越えられなければならない。この任務に取り掛かる為の諸条件が今日ほど揃っていたことはかつてないのである。

DA

参考文献:

  • Germaine Hoston, Marxism and the Crisis of Development in Prewar Japan,
  • John Crump, The Origins of Socialist Thought in Japan, (London) ,1983
  • Beckmann & Genji, The Japanese Communist Party, 1969,
  • A Short History of The Anarchist Movement in Japan, Tokyo, 1979
  • A Political History of Japanese Capitalism, Jon Halliday, 1975

[1]日本の下関港に到着後、彼は東京行きの電車に乗り遅れ下関の町で一夜を越すことを余儀なくされる。ここで彼はICの資金の一部を芸者と酒類とに浪費する。夜が更け泥酔した彼は警察に検挙され、芸者が騙し取らずにまだ手元にあった残りの資金を没収される。獄中にて警察の密偵と話し自らの中国での任務を告白するが、それにもかかわらず釈放された。

[2] べトログラードにおける同大会開催時と時を全く同じくして、山川派のグループは『前衛』誌を創刊する。1922年4月より堺派のグループは『無産階級』誌を、同年6月には『労働組合』誌を発行する。その間、1922年1月よりアナーキストの大杉も同様に『労働運動』誌の再刊行を始めていた。

[3]地方の住民たちの間における食糧不足は非常に拡がった現象であった。繊維産業における一日の労働時間は12時間前後かそれ以上に及んだ。1930年代においてはまだ44%の割合で女性が紡績工場および繊維産業での労働に従事しており、91%の女性労働力が搾取にとって常に最も好都合なように宿舎にて寝泊りしていた。

[4] パウル・キルヒホフ(1900-1972)の変名であるエイフェルはKAPD(ドイツ共産主義労働者党)の一員である。1933年のナチスによる権力掌握後、彼はフランスに亡命し、亡命中のドイツ・トロツキストのグループのために働くが、トロツキストの加入戦術に反対する。1930年と1940年間のメキシコ滞在中、「Groupo de trabajadores marxistas」の機関紙『Communismo(共産主義)』の発行に協力する(1977年6-8月第10号、インターナショナル・レヴュー参照)。